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skyhigh

 これ以上は、流石に夕食を食い逃す。喉の渇きはあるけれど、さほど空腹は感じてはいなかった福富だったが、スポーツ選手たるもの身体が資本。栄養価と分量を考えて作られている寮の食事は、欠かすわけにはいかない。
 茜色と夕闇が交わりだした空を背に、手の甲で米神を流れる汗を拭った福富は、長い影を引きずりながら部室に足を向けた。

「おつかれェー」
 声をかけられて福富は足を止めた。部活が終わった後の個人練習、少しずつ人数は減っていき、自分が一番最後だと思っていたのだ。
 部活中は個々人の荷物置き場と化している長椅子に座っていたのは、荒北だった。部活終わりで寮に帰るだけのため、荒北の服装は制服ではなくラフなシャツとハーフパンツ。肩膝を立て顎を乗せた格好で、片手で携帯電話を弄くっていた。
 荒北はドアを開けて立ち止まった福富に視線を向けると、ピッと右手を顔の高さまで持ち上げた。どうやら携帯は手持ち無沙汰の解消のためだったらしい、荒北は側のバックにぽんと放り入れた。
「? 先にあがったのではないのか」
 一歩足を進め、後ろ手にドアを閉める。
 梅雨が終わりかけの、ぬめっとした気配が、締め切っていた部室の中を覆っている。気温はあまり高くはないものの、ぴたりと肌を覆う感覚に、福富は窓を開けて外からの空気を取り込んだ。荒北は気にしていなかったのだろう、まあ、シャワーで汗を流してすっきりしているようだから。
「こーれ。福ちゃん鍵もってなかったよね~? 開けたまま帰れないって」
「……ああ」
 荒北がかざす手の中、ちゃりんっと金属音を立てるのは部室の鍵。どうやら今日は荒北が当番だったらしい、ならば個人練習に行く前に預かっていけばよかった。そうすれば荒北に部室の番をさせる必要など無かったのに。それか荒北の方から声をかけてくれればよかったものを。
 福富は荒北に歩み寄ると、右手を差し出した。その意味を察した荒北は、なぜか逆に鍵を握り締めてしまう。
「そんなに時間かかんないでしょ、待ってるから一緒に帰ろォ」
 シャワー浴びてさっぱりしてきたら? 側にあったタオルを放り投げた荒北は、胸元付近に飛んできたそれを咄嗟に受け取った福富を促す。そのつもりであった福富は、微かに眉を動かすものの、唇を動かす事はせず、言われるままシャワー室に向かった。

「言い忘れてたけど、レギュラーおめでと」
「ああ」
 ソープのにおいをまとい戻ってきた福富が自身のロッカーに向かう。荒北はその背に向けて、今思い出したというように祝いの言葉を投げかけた。当の本人はその言葉を、さも当然のような態度で受け取る。荒北に視線を向けようともしない。
 全く、メンバー紹介時のときもそうだったけれど、もう少し嬉しそうな顔でもしないものかね、この鉄仮面は。ロッカーに向かいごそごそ動く背を眺めながら、荒北はため息混じりに思う。
 しかし、それも当然の事だろう。福富は選ばれる事が当然といえるほどの能力を持っているのだから。それは一歩間違えれば傲慢とも取れる振る舞いであり、快く思わない者もいたのは確かだ。しかし、荒北はため息をつきながらも、福富同様それは当然な事だと思っていた。
 なぜなら、それは天性のものではない、たゆまぬ努力の末に築き上げられているものであると、分かっているからだ。そしてそれは、快く思わない者も黙らせるだけのものだった。

 福富は口数が多くない。それでも道を走りながら、ローラー台に乗りながら、福富は視線を前にむけたままではあったが、時折ぽつぽつと話をした。それに、福富の家族の話は簡単に耳に入った。
 なんと言っても箱根学園に自転車部を作り初優勝に導いた父、同じくロードレースをしている兄弟と、福富の家庭には必ずロードがあった。幼い頃からそんな家族に連れられ走り続けていたのである。
 生活の基本にはロードレーサーがあり、それに邪魔になるようなものは全て排除し、必要なものは貪欲に取り入れて、ひたすら真っ直ぐに、ストイックにペダルを回し続けている。
 その結果、福富は中学生時代からその名を轟かせるようになっていた。そこに、福富と言う言葉の持つ輝かしい重みが加算されている事は当然だったが、それ以上に福富自身の実力に裏づけされているものだと、その走りを見たものは思い知らされていた。そのうちの一人が、荒北だった。
 基本、荒北は練習の輪の中に顔を出さない。福富の言葉に悪態をつきながらも従って、ひたすら一人でペダルを踏み続けていた。そのせいか、練習を全くしていないと言われる事もあったが、荒北は雑音だと聞き流す。時折、同級生が寄り添ってくるものの、その度に荒北はペダルを踏み込み相手を引き離した。からかい半分、忠告半分、全てが全てではないけれど、そんな奴らが大半で、併走する気も無かった。ただ、まれに福富が寄ってきた時は、どうしてだか引き離す事ができなくて、それに福富は何も言わずに先に行ってしまおうとするから、慌てて追いかけることもしばしだった。
 そのため、荒北は道の上での走りは身を置いているために分かるけれど、観客目線での走りを知らなかったのである。レースなんて見たことも無かった。

 それは、インハイメンバー決定のレース。その日は丁度、グループにおける決勝戦を福富と三年生が走ることになっていた。天気はあまりよろしくなく、ポツリポツリと雨が降っている。天候不良、加えて福富が走ると言うことに興味をひかれた荒北は、集まっている部員という名の観客にまぎれるようスタート地点の片隅に立っていた。ヘルメットの隙間から目も鮮やかな黄色を覘かせた福富が現れ、ゆるりとスタートラインに立つ。
 インターハイメンバーを決める大事なレース、三年生はラストチャンスとばかりに緊張感を漂わせていたが、福富はいたって普段どおりの冷静な背中を見せていた。
 スタートの合図に二人が飛び出し、間を置かずに伴走車が出る。同級生・上級生の歓声を背に、二つの背中が最初のカーブの先に消えた。
 今日の決勝戦は、同じルートを二度走り競うもの。エースないしオールラウンダーの属するグループのため、平坦な直線と登りの山がコースに組み込まれている。他のグループより一周の距離は短いものの、同じルートを二度走るため、ペース配分が重要になる。
 一週目、先に戻ってきたのは三年生、少し遅れて福富。
 周囲は二人が再びコースに向かうと、一番前に陣取っている部員は何だ名前だけかと呆れた顔をした。名高い福富の事だから、一週目から大差をつけて戻ってくると期待でもしていたのだろう。そんな声の中、荒北は彼らの後方にいながら一人違う意味で呆れていた。それは部員の目の無さに、だ。
『どー見たって、三年の方が疲れてんだろ。汗だってかいてやがったし。逆に福ちゃんは涼しい顔、まだたっぷり温存しているはず』
 荒北の読みは正しかった。三年は先にリードを作っておきたくて、ペース配分を誤り後半に体力を残していなかったのである。そのため、二週目の事実上ゴール、先に現れたのは僅かに汗をかいたのみの福富だった。戻ってきた福富は、ゴールラインを通り抜けると同時に、あの日、荒北と競争したときと同様のガッツポーズをきめた。
 伴走車に乗車していたレギュラーが言うに、福富が仕掛けたのは登り。並んだと同時に追い抜いて、ぐんぐん引き離したと。さすが福富、サラブレットだなとの声を背に、荒北はその場を去った。
 福富の走りはスタート・ゴール付近の100メートル程度しか目にしていないけれど、その重戦車のごとくどっしりとし揺らぎなく突き進みながらも大抵のスプリンターより早いスピードに、荒北はいてもたってもいられなくなっていた。
 それは、もっと走ってもっとペダルを回せ、一秒でも多く自転車に乗れという使命感を持った焦燥だった。

 荒北自身、自分が今年のレギュラーに選ばれるなんて露ほども期待していなかった。乗り始めておおよそ一年ほどであり、実力不足を十分感じている。今回のレギュラー決定のレースも、さっくりと負けてしまった。思い出しただけでもふつふつと怒りに似た思いが沸いて来る。相手にではない、情けない自分に対してだ。完璧にレースに慣れていないのである。
 それもそのはず、個人練習が主であったから、人と競い合うレース形式の練習をしていなかったのだ、荒北は。
 初めて競ったのは、それこそ数ヶ月前の、しかも公式レースでだった。厳しい練習に悪態を散々つきながらも、手を抜かずにすすんでいた荒北だったが、この時ばかりは表情が強張ってしまった。
 練習はした、基礎体力だって元々あったから更に鍛えた、でも、レースでの走り方なんて全く知らなかったのである。ペース配分さえ、さっぱり分からない。これは無茶振り過ぎると歯を剥き出しにして食って掛かった荒北を、福富は苛立たしいほど普段と変わらぬ表情でさらりと受け流した。
 しかも、聞きたいことがあるなら自分のところまで来い、なんて言う始末。鉄仮面この野郎。荒北は頭を抱えたくなった。結局、このレースは走りきることができず、タイムオーバーで幕を閉じた。悔しくなかったと言えば嘘だけれども、これがレースなのかと荒北は思い知った。
 次のレース、その時初めて荒北は一人ではなく二人で走った。福富が荒北のアシストを買って出たのである。その時まで、荒北はアシスタントの役割を十分に理解していなかった。それは当然だった、荒北は一人でしか走ったことが無かったのだから。
 これほどまでに違うのかと、福富の背をちぎられないよう必死で追いながら荒北は驚きに言葉を失う。前に居て走っている、それだけで身体への負担が格段に違うのだ。個人競技のように思っていたが、それは大きな間違いだったのだと荒北は自分の考えを改める。それに一人戦うのではなく仲間が居る、その安堵感が精神的な支えにもなっているようだった。
 ぐいぐいと身体が前方に引っ張られていく。その流れに身を任せ足を動かせば、前回と比べ物にならないくらいのスピードで前へ前へと進んで行く。たまらなく気分が高揚し、もっと早く、心が急いていく。瞬く間に切り替わっていく景色が、自分たちの速度を教えてくれた。流れる汗が邪魔で、何度も拭っては空中へ放つ。
 トップにいた選手に並び、ゴール直前数百メートル。前に出ろとの指示に、言われるまま荒北は強くペダルを踏み込んで、瞬間襲ってきた風圧に耐えながら福富の前に躍り出た。
 視界が開け、目の前には誰も居ない。観客も目に入らず、見えるのはゴールのみ。心臓が高鳴る。否応なしに興奮する荒北の背に、がっと福富の手が押し当てられる。そこから何か、言葉にできない福富の思いが流れ込んでくるような錯覚をした荒北の身体は、次の瞬間、あらん限りの力で前へと押し出されていた。視界の端に居た選手の姿が、一瞬で消え去る。その勢いを殺さぬよう、荒北はがむしゃらにペダルを漕いだ。流れる汗が宙へ飛んでいき、そのまま蒸発した。
 歓声と、自分の名前を呼ぶ声が聞こえる。荒北は拳を握った両手を振り上げ、天を仰ぎ吼えた。だらだらと流れ出る汗を、拭う事もしない。薄い雲がかかる空の青さを、荒北はずっと忘れないだろうと思う。この、身体全身を覆う高揚感と充実感と共に、まるで宝物のように色鮮やかに心の中に残り続けるだろう。
 これが荒北の高校生活における、最初でそして最後の優勝になった。

 記憶に残る初優勝の後も何度か、荒北は公式のレースに出場していた。しかし福富のアシストがついたのは、このとき一度きりだったから、なかなか優勝に絡むことができない。基本、公式レースには経験をつむため他の選手も出場していたから、彼らと組めば優勝に近づく事はできた。しかし荒北はそれを良しとせず、頑なに一人で走り続ける。
 レース出場を重ねるごとに、荒北は特有の空気を読み取る、いやにおい取ることができるようになっていた。形成されている集団から飛び出していこうとしている時、前方の選手を追い抜こうとアタックを仕掛ける時など、動き出そうとする時は決まって一種の緊張感が発せられる。それを鋭い嗅覚で感じ取った荒北は、どういったタイミングで選手が動こうとするのかを学んだ。そして動こうとする瞬間を狙って自分が動く、いわば相手の不意をつくこともできるようになっていた。どうして分かった、そんな驚愕の目で見てくる選手が、荒北には愉快でたまらない。
 しかしそれは結局小手先でしかない。必要なのは早さ、ペダルを全力で踏んで誰よりも早く前に進むことだった。レースはそういった意味ではとても効果的だった。一人の練習では、せいぜい時間制限をかける事くらいしかできないが、敵がいれば競争が生まれる。誰よりも早く、思えば思うだけケイデンスは増え、速度が上がる。場所のとり方、カーブの曲がり方、全てをレースの中で荒北は着実に習得していった。
 もうそこには、初めてのレースで途中棄権するというな情けない姿を晒した荒北は、居なかった。そこにはひたすら前に進みゴールを渇望する、一人の選手が居るだけだった。

 人の三倍の練習を積み重ね、実際のレースで走り続ける荒北の急激な成長は、周囲も目を見張るものだった。いや、そもそもごく一部の者を除き、部員の大半は人知れず練習に明け暮れていた荒北の走りを、目にした事が無かったのである。だから、レースを走れば走るだけ、雰囲気に慣れ試合にも慣れた荒北が、積み重ねてきた努力を遺憾なく発揮して、驚いたと共に慄いたのである。
 今だったら、もう少しいい結果を残せたんじゃないかと荒北はぼんやり思う。最初の選抜レースは今から数ヶ月以上前で、その間に成長しているとの自信が荒北にはあった。
 でも、そんな事は後の祭りだ。選抜の時期に強くなっていなければ意味がない。それに今の実力を持ってしても、現レギュラーには及ばないだろうことが、荒北には分かっていた。
 それを悔しいとは思わない、羨ましいとも思わない。自分にはそれだけ時間と練習量が足りていないと、自覚していたからだ。
 現状では、どうしたって実力不足が否めないが、幸運な事に時間はもう一年分ある。ただ言い換えれば、あと一年しかない、いわばラストチャンス。もっと、もっと練習しペダルを漕ぎ続ければ、来年こそはあのジャージを着る事になるはずだ、いや着てみせると、荒北は心の中で断言した。
 箱根学園の名前が刻まれた光を通した海面色のジャージ、伝統と歴史が詰め込まれた、いわば誇りの具現化したもの。荒北には、その重さは分からないけれど、先人の栄光を継承し身につけることに伴う名誉とプレッシャーは、多大にあるはずだ。
 まあ、オレはそんな重圧に負ける気なんて無いけれどと一笑した荒北の脳裏に、そのジャージを拒んだ人間の姿が通り過ぎていって、彼に微かな苛立ちをもたらした。

 あの時、直前までの鉄仮面が崩れ落ち、瞬く間に驚愕の表情で側を見た福富の顔を、荒北は鮮明に覚えている。こんな人間くさい表情もできるんじゃないのと思いながらも、新開によって投下された爆弾発言に福富同様驚いた。
 新開はフレンドリーで気さくな人柄であり、中学校時代からの付き合いゆえに、周囲から少し距離を置かれていた福富の側によくいた。言葉の足りない福富のフォローをしている事がしばしあり、しかしそれを負担に思わず、さも当然だと言う表情でいた、福富のよき理解者である男。荒北にはそんな印象だった。
 そのせいだろう、部内で浮いていた荒北とも、時折会話するようになっていた。気に掛けてくれているのか、それとも面白がっているのか、それは分からない。けれど乗り始めたばかりのいわば初心者でありながらインターハイを目指している荒北を笑うことなく、自分もいつかは寿一と走るんだと確信に満ちた目で言う新開を、荒北は表面上では邪険に扱いつつも心の中では認めていた。スプリンターとしての才能も、福富と同じくらい練習に励む姿も、好意的に思っていたが、口に出す事はなかった。
 だから、今回のインターハイで福富と同時にメンバーに選ばれたときは、けっという表情はとりながらも反面、当然だろうと思った。

 だったのだけれども。

 よくもまあ、あの場であんな大それた事が言えたもんだと、思い出すたびに荒北は関心さえした。
 部員の面前で、福富が決意を熱く語った後に、まさか辞退の言葉を言うなんて。その後、水を打ったように静まった室内で、唯一音を立てたのは、新開が出て行ったときにドアが閉まる音だった。
 部内は騒然とした。こんなタイミングで言うか? 引きつる頬でため息をつくと、福富が立ち尽くしている姿が目に入った。軽く俯き見開かれた瞳は、視線がどこにも合っておらず、ただ床に注がれていた。だらりと垂らされた両手は固く握り締められており、甲に浮かぶ血管がこめられた強さを物語っていた。
 事態の収拾は、主将の一声でついた。といっても、部員の燻りは消えてはおらず、先程よりボリュームは下がったものの、皆話すのは新開の事ばかり。
 福ちゃんのあの驚愕の表情、新開の奴、相談なんてせずに自分だけで決めたんだろうな。いつか寿一と一緒に走るんだと言っていた、希望に満ち溢れた新開の表情が脳裏を掠める。なんだよ、自分でそのチャンスつぶしてんじゃないの。
 唐突にバタンと、けたたましい音が聞え、再び室内が静まる。音はドア付近から、誰か出て行ったのだろうと辺りを見回すと、福富の姿がそこには無かった。

 翌日の部活動中、一人ローラー台で練習をしていた荒北の横に、部活開始時刻よりだいぶ遅れて福富が静かにやってきた。同じくローラー台にのると、漕ぎ始める。表情は相変わらず鉄仮面状態で、昨日の事もあり話しかける気が起こらない。
 遅れてきたのは、その昨日の事で主将と話していたからだろう。二人が部室に並んで入っていく後姿を、偶然にも荒北は見ていたのだ。
 しばらく無言のまま、ペダルを漕いでいると、福富は前を見据えたままポツリと言った。
『来年は走ると、エーススプリンターで走ると新開と約束した』
 二人の間の約束を、第三者に聞いてもらっておきたかったのかと思う。それとも、荒北が聞きたいと思っていると感じ口にしたのかもしれない。
 荒北は、顔を前に向けたまま横目で福富の事を窺う。これ以上のことは言わないと言う様に、その唇は引き結ばれていた。辞退した理由も、それに対しての福富の思いも言わず、ただそれだけを。
 断言した福富の横顔には、一切の迷いが無い。そこにあるのは新開に向ける深い信頼だけだ。来年は走る、その言葉を疑う事もしない。それは中学校から共に走り続けてきた二人の間にある、友情がなせる業なのだろう。昨日、出て行ってしまった新開を追いかけて。そこで最終的にこの約束に辿り付いたのだろう。
 その、どこか儚く見えても固い眩く光るものに、荒北は目も眩む思いだった。
 今の荒北は、自分自身のために走っている。自暴自棄になり周囲に当り散らして留まっていた自分を、前に進ませるために。ただただ、前を向いてペダルを漕いで。ひたすら一人で練習を繰り返してきた。つらくても、苦しくても。
 羨ましいと、思ってしまった。にごる事のなく真っ直ぐに向けられる信頼、友情。自分が壊して手放してしまったものだった。
 息苦しさを覚えた荒北は、そっかと小さな返事をし終えると、視線を前方に戻す。そして考える事を拒むように、ケイデンスを無茶苦茶にあげた。

「広島だっけ、インハイあんの。やっぱ応援にいかなきゃいけないのかねぇ」
「ああ、他の選手は出場者のサポート・応援を行うからな、無論、お前もだ荒北。ついでに、インターハイの雰囲気を見ておくことだな。オレを含めた二年は、昨年のインターハイを見ている。ルートは全く違うものになるが、来年の参考になるだろう」
「あぁ?」
「来年は、出るつもりなんだろう?」
 インターハイに。
 一拍置いて顔を上げた荒北を、帰り支度を整えロッカーを閉めた福富が見下ろしていた。いつもはつんつんとしている金髪が、濡れているためか少しくたりとしていた。しかしそれもすぐに乾いてしまうだろう。
「……まぁね」
「お前が今のままの努力を続けていれば、インターハイ出場は近い」
 明日は晴れるだろうとの予測でもなく、明日の一時間目は英語の授業だと変わることのない事実を語るような口調で言う福富は、やはり表情一つ眉一つ動かさない。それは当然の事だった、福富は叶いもしない夢物語を語っているのではない、現実を鑑みた上での考えを口にしているだけなのだから。そこには上っ面の言葉や相手を思いやっての優しい嘘なんて存在しない、純然たる真実、それのみだ。完璧なるリアリストがそこに居た。
 ああ敵わないなと、荒北は内心苦笑する。己を偽ることなく向けられる真っ直ぐな言葉は、胸に突き刺さるけれども嬉しくもあった。

「来年だったら、福ちゃんはエースかな」
 部室の施錠をして、寮への道を二人並んで歩く。影ができないほど、すでに日はとっぷりと沈んでいた。夕食にはギリギリ間に合う時間だろう。
「む、今年のインハイすらまだだと言うのに、もう来年の話か」
 微かに非難の色が混じる声に、いいじゃなーいと軽い口調で返す。
「で、エーススプリンターは新開だろ」
「ああ、あいつには4番ゼッケンを渡すと約束してある。エースクライマーは……そうだな、東堂で間違いないだろう。あいつの山登りはオレでも見ほれるほどだ。己で山神と称するだけある」
 口では言いながらも、福富は自然と会話にのっていた。そして荒北が聞いていないことまで話す始末。
 きっと、何度も考えていたのだろう、自らがエースとしてインターハイを走ることを。自分が箱根学園メンバーを率いて、走ることを。でなければ、こうも言葉がすらすらと出てこない。それは今年ではない、来年のはずだ。
「じゃあ、オレは?」
 オレは福ちゃんの作り上げる選抜メンバーに入っているの。後半は言葉にせず心の中だけで呟いて。
 福富は荒北の言葉に立ち止まると、少し考えるように腕を組む。同様に歩みを止めた荒北は、福富の事を振り返る。
「そうだな……お前は、アシスト。エースアシストだろう」
「えぇ?」
 正直、想像していなかった福富の言葉に、荒北は素っ頓狂な声を上げてしまう。アシストなんてした事ないし、更にアシストをして貰ったのは福富の一度きり。そんな自分のどこにアシストの適正があるのだろうかと荒北は首を捻る。
「お前は見た限りではオレと同じオールラウンダータイプ、どのような状況でもエースを引くことのできる能力がある。オレは今まで新開にアシストしてもらう事が多かったが、平坦は良いのだが登りではどうしても他のクライマーにアシストをしてもらわざる得ない。だが、オールラウンダーであるお前ならば平坦でも登りでも、どのような状況でも引く事ができるだろう。新開の引きは、確かに早いが、あいつにはエーススプリンターとしての役割に集中してもらいたい」
「なぁに、オレに新開の代わりになれってーの」
 認められている事に嫌な気はしないけれど、絡められる新開の名前に、荒北は少し引っかかりを覚える。自分の能力を鑑みて、福富はアシストと言っているけれど、捉え様によっては新開のために、そう言われているように思えてならない。
「? 新開の代わりになれるわけないだろう、そもそもお前たちは走るスタイルが違う。平坦では新開が勝つだろうし、登りではお前の方が強いだろう?」
 福富の返答は、荒北の考える答えと大分ずれていた。でもこれは嘘ではない、福富の本音なのだろうことは手に取るように分かる。荒北は少しの苛立ちに頭をかいた。
「……で、アシスト、どうすればなれる?」
 自分がインターハイに出るための、それが唯一の方法なのだろう。スプリンター、クライマーのトップになるには、どれだけ練習を積み重ねても圧倒的に時間が足りない。それを見越して、福富はアシストだと言ったのだろう。
 必ずインターハイに出る、その唯一の道がアシストならば、荒北は迷わない。何でもしてやる、そんな思いを胸に福富の顔をにらみつけるような鋭い瞳で見た。この際、心に引っかかったものなど無視してしまえ、そう思いながら。
「まずは俺とコンビを組め。そしてリアルで慣れろ。どういったものかは、オレが一度引っ張っただろう、あれを思い出せ」
 言われて脳裏に浮かぶのは、ぐいぐいと自分を引っ張る福富の背中。時折思い出しては胸が熱くなる、ゴールの瞬間。色あせない記憶は、しっかりと荒北の中に刻まれていた。
「はじめるのは今年のインハイが終わってからだ。……ただし一つ言っておく。オレはお前にアシストを勧めたが、だからと言って必ずしもレギュラーになれるとは限らない。現状、お前より上手なアシストは複数人いるからな。彼らを追い抜いて選ばれるためには、一度でも多くペダルを回し、日々の練習を怠らない事だ」
 甘い事、優しい事を一切口にしない福富の、にごり無き澄んだ瞳。その瞳は、来年度、自分自身がエースになると言うことを微塵も疑っていない。そこには来年、新開が4番のゼッケンをつけて走るということも含まれているのだろう。それは信頼と、実力に裏付けられたもの。
「け、やってやらぁ」
 だったら俺もそこに入ってやる、思った荒北は、早くインハイがおわらねぇかと、そんなことを考えた。

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