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◇◆ Gelosia 3 ◇◆
 いつもの笑顔なのに、彼が怖い。
 ほとばしるオーラみたいなものが、限りなくきな臭い。
 これは確実に、彼が私のことを怒っている証だ。
 だけど怒らせてしまったであろう原因が、沢山ありすぎて分からない……

 ミラノの町に繰り出して、数十分後からそんな調子の彼だけれど、高遠さんの言っていた通り、 付かず離れず新月をエスコートし、二人でコソコソと話もしていた。
 そんな二人の様子を、面白くないといった表情で眺め続ける武頼くんは、八つ当たりに近い言動で私を責める。
 もう既に胃が痛いのに、彼まで怒らせてしまったとなれば、残る日程をうまくこなすことなどできるわけがない。
 けれど二人きりになれるチャンスが訪れてくれないから、何も聞く事ができずに時は刻々と過ぎて行く。

 私とは裏腹に、晴れ晴れとした表情で帰宅した高遠さんを交えて、テイクアウトしたドルチェを楽しみながら今日一日を話し合う。
 高遠さんの上機嫌な理由を事細かに聞きたいけれど、それよりも、まず先に解決しなければならない問題がある。
 だからその場は皆に話を合わせ、ゆったりとした時間を過ごした。

 頃合を見計らった彼が立ち上がり、それと同時に、皆がそれぞれの部屋へ引き上げ始めた。
 いよいよだ。これでようやく二人きりになれる。
 待ってましたとばかりに居間を出て、珍しく彼の後から部屋に入って扉を閉める。
 そして後ろ手に鍵を掛けながら、ドアに寄りかかったまま単刀直入に切り出した。
「ひ、寛兄……私、何か悪いことをしてしまった?」
 けれど布張りの肘掛け椅子にゆったりと座る彼は、そんな問いに答えることなく言い放つ。
「良かったですね、アマレッティ」
 目尻に皺を寄せて優しく微笑んでいるけれど、眼鏡の奥の瞳は、私の瞳と同じくらい黒く深い色を放っている。
 やっぱりだ。やっぱり何か私に怒っている……

 そろそろと歩み進んで彼の隣に腰を下ろしたけれど、その途端に彼は立ち上がり、バスルームへ向かって歩き出した。
「あ、待って寛兄!」
 子犬のように彼の後を追いかけ、バスルームで立ち止まる彼の前に回りこんで瞳の中を覗きこむと、 シャツのボタンを外しながら、依然として微笑む彼が意地悪く囁いた。
「満月さん、一緒に入りたいのですか?」
「いえ、そ、そういう訳じゃ……」

 そそくさとバスルームを出て、扉の前で突っ立ちながら考える。
 彼の怒りの原因は、どうやらドルチェに関係するらしい。
 武頼くんがテイクアウトをしたアマレッティは、高遠さんを交えて皆で食べたはずだ。
 なのに彼は、よかったですねと私に言った。
 もしかして、バールで新月のアマレッティを横取りしちゃったことが原因?
 そんなはしたない真似をした私に、彼は腹を立てているの?

 シャワーの音が聴こえ始め、彼がお風呂に入ったことを告げている。
 食い意地の張った女だと、彼に思われ続けているのは悲しすぎるから、慌てて洋服を脱ぎ去り、湯気で曇るお風呂に飛び込んだ。
 驚く彼を尻目にちゃっかりバスタブへ納まって、濡れた髪を両手でかきあげる彼に向かってモソモソとつぶやいた。
「ア、アマレッティのことで怒っているの?」

 長い足を私のために折り曲げて、少し窮屈そうにお湯に浸かる彼が、いつもと変わらぬ穏やかな口調で話し出す。
「それもありますが、それだけではないですよ?」
「あ、寛兄も食べたかったの? ごめんね気がつかな……」
「そうやって、武頼にも同じことを言って、何と言われていたんでしたっけ?」
「Se、Sei scemoです……」

 少し呆れたように溜息をついた後、私の顔に張り付いた髪を、指で剥がしながら彼が問う。
「満月さんが、リコッタを半分個した人は誰ですか?」
「それは武頼くんだよ? あ、そういえば、リコッタで思い出したけど、武頼くんが怒ってたんだよ?  寛兄が、新月とパンナコッタを半分個なんてするから、やきもち妬いちゃったのね!」
 彼の問いに答えることなく、そこまで言い終えてから気がついた。
 武頼くんと彼は、同じようなことで怒っているような気がする。
 ということは、彼の怒りの原因はやきもち?
 私が武頼くんとリコッタを半分個したりしたから、やきもちを妬いちゃっているの?

 ニヤニヤしながら彼を見つめ、一人納得して肯けば、そんな私に臆することなく、平常心のままの彼が言い出した。
「ずいぶんと嬉しそうですね?」
「そりゃあ、意外だもん」
「意外? 満月さんは、考えたこともないと?」
「私? そういえば、一度もないなぁ……」

 私の反応に、彼の眉毛が微かに上下する。
 覗き込んでいた瞳は、急に深さを増したグレーになり、それを隠すように彼が勢いよく立ち上がった。
「では、この憤りが鎮まるまで、頑張ってくださいね」
「な、なにを?」
 咄嗟に聞き返すけれど、そんな私の問いに答えるどころか、振り返りもせずに彼はお風呂を後にした。

 話が微妙に噛みあっていない。
 もしかしたら、彼がやきもちを妬いていたなどというのは私の勘違いで、  本当は別の理由で怒っていたのではないかと思う。
 考えてみれば、独占欲という言葉は、彼には似つかわしくない。
 情熱的ではあるけれど、誰にでも、何にでも彼はいつも平等だ。
 大体、やきもちを妬かれるほど、彼に愛されていると思ってしまったこと自体が厚かましい。
 愛の比率からいっても、彼より私のほうが、より多く愛しているのだから――

               ◆◇◆◇◆◇◆

 やっぱりだ。やっぱりあれは、私の勘違いだったんだ。
 あの日以来、彼は新月にベッタリで、何をするにも誰より新月を優先させている。
 夜も、私に指一本触れることなく、そっぽを向いて寝てしまうし、最近の会話はそっけない。
 当然そんな彼の態度に、武頼くんのご機嫌は最低最悪なほど急降下し、八つ当たりは更にひどくなる一方だ。
「いよいよお前も、寛兄に捨てられる日が来たな」
「縁起でもないことを言わないでよ……」

 武頼くんとコソコソ話しながら彼を盗み見れば、とろけるような笑顔で彼が新月を見つめていた。
 そんな彼に見つめられた新月も、綺麗な微笑を見せながら、大皿からパスタを取り分けて彼に差し出している。
「あの二人に限って、そんなことないよ……」
「あの二人がどうのこうのなるだなんて思ってねーよ。問題はお前だろ?」
「私? 私が何?」
「男の俺から見ても、寛兄はカッコイイんだぞ? お前、そんな寛兄を引き止めておけるほどの女なのかよ?」

 引き止めておけるわけがない。
 大体、彼が私を選んだということ自体が、既に何か間違っている気すらする。
 なんで彼は私と結婚したのだろう。それはいつも考えていたことだ。
 何をやっても駄目だからほっとけない。そんな保護者的な発想で、私の傍に居てくれるだけなんじゃないか。
 彼の愛しているは嘘じゃない。でも、私の愛しているとは種類が違うんじゃないか……
 だから私はやきもちなど妬いたことがない。正確には、妬けないんだ。
 彼がそんな態度を取ったときには、私は必要のない人間になっているのだから。

 テラスでの昼食を食べ終えて、いつものように新月の記憶探索へ四人で出かけた。
 前を行く彼が、さり気なく新月を道路の内側に促す。
 新月の背にそっと宛がう大きな手が、私でも新月でもない誰かに回されているところを想像し、ギュッと唇を噛み締めた。
 そんな二人の背を見つめ続けて足を滑らせ、思いきり石畳に膝を打つ。
 その痛さと恥ずかしさに、咄嗟に彼を探して見上げるけれど、彼は何事かと少し振り返っただけで、私が転んだだけだと分かると、 また新月とともに先を歩き出した。

「ドジ! 何やってんだか……」
 彼の代わりに手を差し伸べてくれたのは武頼くんで、当然いつもの罵倒おまけつき。
 それでもそのぶっきらぼうな優しさに、昔の彼を思い出し、つい涙がこみ上げる。
「泣くなアホ!」
「武頼くん、わ、私、本当に捨てられちゃったみたい……」
「はっ?」
「寛兄が、やきもちなんて妬くはずがなかったんだよ!」

 大きくて長すぎるほどの溜息を延々とついてから、心底呆れた口調で武頼くんが言い放つ。
「本当に、お前はアホだ……」
 そうだ。本当に私はアホだ。
 一瞬たりとも、ヤキモチを妬いてもらえたなどと考え、喜んだ自分が腹立たしい。
 武頼くんの言う通り、私は彼を引き止めておくことなど出来ないし、ただのお荷物だから、遅かれ早かれこうなる運命だったんだ。

 結局、膝の痛みを理由に、私だけ探索を断念してヴィラに戻った。
 武頼くんも私に付き合うと申し出てくれたけれど、折角の旅行を、こんなことで台無しにしたくない。
 それよりも何よりも、今はただ一人になりたかった。
 どれもこれも、自分勝手な言い分だ。

「満月ちゃん、どうしたの……」
 一人早々と戻った私を見て、高遠さんが驚きの声を上げる。
 何度か私の周りを見渡していたけれど、本当に私が一人で戻ってきたのだと悟ると、それ以上は何も聞かずに
「こっちにいらっしゃいな。傷の手当をしましょうね」
 そう言って、私を部屋に促した。
「Nonnaごめんなさい……私……」
 手当てを受けながら、俯いたままボソボソと謝れば、言葉の先を言わせることなく高遠さんが切り返す。
「今日は、早く休みなさいな。きっと疲れてしまったのよ」

 高遠さんに言われるがまま自室に引き上げ、彼のいないベッドに横たわりながら考えた。
 彼の気持ちが離れてしまった。それだけは確実だ。
 立ち向かい、修復しようと頑張る勇気など私には無い。
 これ以上傷ついたら立ち直れないから、いっそここから逃げ出して、姿を消してしまいたい。
 どうしてこんなことに、なってしまったんだろ……

 なんだかんだと言いつつも、こんな状況で眠りこけられる自分が恐ろしい。
 ついでにおなかがグルグルと、鳴ってしまう自分も情けない。
 だから、ふとこぼれ始めたオレンジ色の光に、既に日が落ちて、彼が帰ってきたのだと瞬時に悟って慌てふためいた。

「満月さん?」
 彼の静かな足音と、柔らかく私の名を呼ぶ声が徐々に近づいてくるから
「わ、私なら大丈夫だから、気にしないでご飯を食べて」
 上掛けを頭まで被って、布団の中から言い返す。
 けれど彼は去ることなく、逆に更に近づき、彼の重みでベッドが沈む。

「満月?」
「ほ、本当に平気だから、みんなのところに戻って」
「Luna piena Mi veda」
「い、いやだ! 見ない!」

 上掛けをめくり上げ、横向きな私の身体を、強引に仰向けにさせる彼。
 そんな彼に抵抗し、思わず声を荒げれば、私に覆いかぶさる彼が囁いた。
「Ti amo……」
「う、嘘だもん。そんな言葉、全部嘘だもん!」

 逃れようとする私の腕を彼が片手で押さえつけ、もう片方の手で私の顎を引き寄せる。
 強引に触れられる唇が、いつもより冷たい気がして、身体も心もそれに抵抗した。
 けれど彼の唇は、私の唇から離れて耳元から首筋を這い、薄い皮膚をきつく吸い上げる。
「い、いや! 愛してないのに抱かないで!」

 力の限り抵抗し、そう泣き叫んだところで彼の動きが忽然と止まった。
「誰が誰を愛してないの?」
 一旦唇を離し、私を拘束したまま上から見下ろしながら彼が問う。
 けれど頑なに目を瞑ったまま返事をしない私に、彼が怒ったように更に問いかける。
「満月、答えてよ。誰が愛してないの?」

 それでも尚、答えない私。そんな私の服をたくし上げ、業を煮やした彼が動きを再開した。
「いやっ! やめっ…くぅっ…んっ!」
 命一杯の抵抗を試みながらも、彼の愛撫に反応してしまう疚しい私の身体。
 溢れ出す蜜を、自分の肌が感じ取る。重力に負けて、つっと垂れていくのが分かる。

 心が折れてしまいそうだ。彼に愛されていなくとも、私が彼を愛している。
 だから彼が自分自身を私の中へ沈めたとき、嗚咽とともに繰り返す言葉。
「愛してないのに抱かないで……」


※ Luna piena(満月・マツキの愛称) / Rilassa(寛ぐ・寛弥の愛称)
  Ti amo(愛してるよ) / Gelosia(ジェラシー) / Nonna(お祖母ちゃん)
  Mi veda(僕を見て) / Ma va?(マジ?) / Sei scemo?(アホか?)

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photo by ©clef