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◇◆ 飛ぶ鳥を落とせっ! 4 ◇◆
 通称SE。工学部を経て、その職に就いてから、もう幾年経っただろう。
 コンピュータの設計士と呼ばれる技術系の専門職だけに、話し相手はいつもパソコンで、誰もが黙々と画面を見続ける、理系男集団の職場でも有る。
 けれどそんな職場に、常務の愛娘が加わってから、俺の世界が激変した。
 つまり、なんだ、ほら、好意を抱かれちゃったのよ。

 自分の力量では、どうにもならないと悟ると、その手の女性は何故か親を頼る。
 そして娘の幸せを願うが余り、上司と親を両立させた、断り難い申し出を平然とされるわけさ。
 だけど俺は、それを堂々と断っちゃったの。だって、無理なものは無理でしょ。
 それでも、俺の技術を買ってくれていた常務だけに、一縷の希望は抱いていた。
 娘は娘。仕事は仕事。って、割り切ってくれるはずだと……

 けれど、そんな希望も虚しく、俺は瞬く間に飛ばされた。
 本社から、ちょっと下った支店。しかも、畑違いな営業部の課長に転属。
 考えてもみてよ。俺、技術者よ? それが接客主な営業よ?
 どう考えても、務まるはずがないでしょう?
 だからこれは、権力を駆使した、体の良いリストラ左遷なわけ。
 俺が自ら辞めるよう、仕組まれた左遷っていうの?

 だけど、今流行のベンチャーIT企業だけに、再就職先は意外にも有る。
 独立した友人を頼っても良し。履歴を掲げて中途採用も良し。年齢的にも未だ平気だ。
 だからもう自主退社する気満々で、初めて課に足を踏み入れた。
 そして案の定、始業から数時間で俺の気分は鬱を超える。
 こうなることは初めから解っていたけれど、歯車を回転させることが俺には全く出来ていない。
 否、それよりも何よりも、女の数が多過ぎる。甲高い甘ったるい声と、ギラとする視線が怖い……

 煩い雀たちから逃れるように寒空の屋上へ上り、序に給水塔のハシゴまで登る。
 此処なら、誰にも見つかることなく、昼休みを過ごすことができるはず。
 そこで漸く息を吐き出し、その場へゴロリと寝転んだ。
 ところがだ、凍てつくような風に乗り、柔らかなアルトボイスが俺の耳へ届く。

「涙な〜ど〜見せない〜 強気な〜あなたを〜」

 その優しい歌声に興味を惹かれ、高台から屋上を見渡せば、フェンスに寄り掛かり、何かを思い馳せながらマリヤを歌う、マリアが其処に居た。
 風に靡く髪は弱々しい日差しを受けて、濃く深い茶色に染まり、色白な肌に、高く筋の通った鼻と、伏せ目勝ちに潤む大きな瞳と、長くクルンとした睫毛と……
 まるで彫刻の聖母が、自らの意思で動き出したかのようだった。
 そして、感情を込め、豊かに歌い上げるその声に、時を忘れて魅了された。

 けれど聖母はマリヤを一曲歌い終えると、歌声とは打って変わったダミ声で、こう言った。
「よしっ。オッケェ。スチャッ!」
 す、すちゃ? 眼鏡を掛けるのに、わざわざ口で効果音を放ったの?
 いやいや、そんなことより、もしかして、否、もしかしなくても、聖母は俺の部下だよね?
 ぼってり前髪で、猫背で、牛乳瓶底眼鏡の、一際薄気味悪い珍獣女だよね?
「うっわ、すっごいもん見ちゃった…いや、聴いちゃった……」
 自分の感覚器が信じられない。どうしたら、あの珍獣が聖母に見えたんだ……

 屋上で見た聖母と課で見る珍獣は、全くの別人だ。今此処に断言する。
 だってよ? 目は度の強いレンズの所為で、半分以下に小さくなっちゃってるし、だらしなく微妙な位置に結んだ一本髪も変だしさ。
 しかも間近で見ると、不精さがアリアリと解るのよ。こう、産毛とか無駄毛とか?
 物凄く重たそうな前髪で、その姿を拝むことは出来ないけれど、絶対こいつの眉毛は眉間が繋がってるって思うもん。
 だけど俺は、俺だけは、この仮面を脱いだ珍獣の姿を知っている。否、知っちゃった。
 そして可笑しなことに、それが密かな悦びとなり、密かな楽しみとなり、次の日も、その次の日もと、給水塔の上で珍獣を探すようになっていた。

「人生は〜あなたが〜 思うほど、悪くな〜い」
 佐倉の歌を聴くと、その題名通り元気になれた。振り出しから、また始めれば良いと本気で思えた。
「早く元気出して〜 あの笑顔を見せて〜」
 辞める気満々だった仕事も、思いの外、楽しくなってきて、当初は引き攣っていた笑顔も、上手くなったと自分でも感じる。
 だから雨や雪の日は佐倉の歌が聴けず、苛々が募って仕事が捗らない。
 そこで雨が続いた帰り道、何気なく入った店先で、マリヤのベストアルバムを買った。

 そんなある日、佐倉の選曲が変わった。
「ひとり、ぼっちが似合いすぎる〜 強がりだけの私〜 いつかきっと愛に出逢いた〜いっ!」
 ロンリーウーマン。ベストアルバムのお蔭で、曲名が直ぐに解っちゃう俺も凄いよね。
 正直言って今まで、マリヤの曲なんて耳に挟んだ程度しか知らなかった。
 だけどヘッドフォンで聴くと、傍に佐倉が居てくれる気がして、何故か嬉しかったんだ。
 そこで漸く、俺は佐倉が好きだと言うことに気がついた。何か不本意な気もするけど、それはそれだ。

 自分の気持ちに気付いてからは、積極的に佐倉を誘い、皆にも解るよう意思表示をし続けた。
「課長、今日みんなで飲みにいきませんか?」
「佐倉が一緒に行くなら、俺も行くよ」
「やだ課長、ほんとに人がいいんだからぁ!」
 が、周りからは、何故かお人好しだと片付けられ、当の本人からは、不愉快を露に偽善者と罵られる。
「佐倉、イタメシを食べに行」
「社交辞令は結構です」

 けんもほろろで取り付く島もない。って、正にこのことだよね。
 兎に角、最後まで佐倉に言い切れたことがないの。会話が成り立たないの。
 何でここまで嫌われてるの、俺。笑顔は引き攣ってないよね、俺……
 ところがその日の夜、人気のない薄暗い課内で、ゴソゴソと何かを遣らかす佐倉が目に入る。

 会議を終え、戻った課内で、佐倉が何か頭を抱えて悩んでいた。
「暗いだけが取り得なんですが、どうしたら……」
 思わず立ち止まり、物陰に隠れながら佐倉の挙動を眺め見れば、ボソボソと呟きながらの入力再開。
「職場では全く出逢いがなく…とかでいっかなぁ?」
 出逢いがない? お前、ふざけんなよ。出会ってるだろ、誘ってるだろ、気付けよ!
 けれどそこで、ふと気付く。その文句って若しかして、出逢いサイトの常套句じゃない?

 そこで慌てて佐倉の後方へ回り込み、薄暗がりに光る画面を盗み見た。
 ラブラブドットコム。ぃやっぱりだ! しかもお前、そのサイトは俺の……
 いやいや、そんな説明よりも先ず、佐倉の行動を止めなければ。
 そんなものに登録しないで、俺を見ろっつうの。
「佐倉、未だ居たのか」
 態とらしい足音を立てて、佐倉の背後に歩み寄る。すれば瞬間驚きながらも、極自然を装って佐倉がパソコンのブラウザを消した。

「はい。すみません、今直ぐ消え去ります」
「いや、違う。そういう意味で言ったんじゃな」
 此処からは、毎度毎度の不成立会話が続く。それでも今日はめげることなく、必死で佐倉を追った。
「佐倉、一緒に食事をし」
「心配には及びません。近所にコンビニ有りますから」
「そうじゃない! 俺は」
「では、お先に失礼します」
 が、運悪くエレベーターが到着し、捨て台詞とともに閉めるのボタンを押されました。

「くそっ。何であいつはいつもいつも……」
 佐倉が消えてから心行くまで悪態を吐く。けれど閃いたように携帯を取り出し、電話を繋ぎながらパソコンも立ち上げた。
「あ、もしもし? 俺。そう野田。久しぶり」
 ラブラブドットコムのトップページを開き、お試し検索とやらをクリックしながら話も続ける。
「ちょっと頼みがあるのよ。待って、今探すから」
 佐倉のことだ。大まかな自分の履歴を詐称することは無いだろう。
 年齢29、居住地東京の、身長は155から160の間で、体形は普通で、喫煙しなくて……
 あった。ありました。本日登録の恵さん。これが佐倉だ。間違いない。

「そう、その恵って女性。頼むから、誰も紹介しないでくれ」
「何だよ、この女がどうかしたのか?」
「惚れてんだよっ。なのにお前のサイトになんか登録しやがって……」
 元同僚の稲毛が、副業で始めた出逢いサイト。
 今ではコレが本業となり、悠々自適なセレブ生活を送っている俺の親友でもある。
 当然、このサイトを設立するに当たって、俺もシステム関与はした。そして投資もした。
 つまり言うなれば、俺はこのサイトの株主ってことでしょう?

 けれど稲毛は、そんな株主俺様をいとも容易くあしらった。
「そんな信用のなくなるようなことは出来ないね。あ、だったらお前が登録すれば?」
「は? 何言ってんのお前」
「いや、だからさ、此処に登録したお前を、この恵って女に紹介してやるよ」
 な、なるほど。それはそれで名案かも。これなら若しかして、佐倉と会話が出来るかも。
「あ、じゃじゃあ、頼むよ……」

 そして、此処だけは稲毛の好意により、会員費無料にて俺はサイトに登録した。
 が、何これ。何なのこれ。自己PR? ハンドルネーム?

「くっ、かっ、め、めんどくせぇ…もう、チャゲでいいか、いいよね……?」

 メールの中の恵美は、何処までも可愛い。
 初心で素直で、冗談の通じる最高の相手だった。
 恵美の方も、飛鳥としての俺を気に入ってくれているようで、お互いを知り得るための、他愛ない文字会話は、毎晩深夜にまで及ぶ。
 けれど、現実の世界では上手くいかない。

「だから、何でそうやって俺を避けるんだ」
「苦手だからですっ」
 固まるよ。固まるでしょ普通。だってガン見よ? ガン見。
 好きな女が、メールの中では可愛い女が、初めて目を合わせてくれたって言うのに、目を合わせた途端恐怖に顔を歪め、終いにはガン見でこの台詞よ?
 これで固まらない男は日本男児じゃないでしょう?
 しかも何なの、あの言い逃げスーパーダッシュ。凝固から液化が進むでしょう?

 だからフラフラな足取りで部屋に戻ってから、天使と悪魔と俺が自問自答を繰り返す。
『今直ぐ、飛鳥は自分だと打ち明けるべきです! このままでは卑怯ですよ!』
『告げたら彼女は逃げるじゃん! 告げずに誘っちゃえよ。会ったらこっちのもんだっ』
「てゆうかさ、どっちにしろ、もう俺ってダメじゃない……?」
 そんな俺の元に、帰宅したらしい恵美からメールが入る。

『飛鳥さん、私…とても失礼なことをしてしまったんです……』

 恵美はよく、飛鳥とのメール文中に、俺の名を盛り込む。
 それは飛鳥が一課の課長だと告げたからであり、自分の知っている課長と飛鳥を比べるからなのだが、意外にも俺を其処まで悪くは言わない。
 うちの課長も夜遅くまで働いているとか、技術者なのに畑違いの仕事を懸命にこなし、自分よりも課の皆のことを考えてくれているとか、もっと細かく分析した俺を高く評価してくれる。
 俺はそれが嬉しかった。恵美が飛鳥を俺だと思っていないからこそ、偽善ではないその言葉が嬉しかったんだ。

 そして恵美は、そんな課長に悪態を吐いてしまったと、めげている。
 食み出し者の自分を、輪の中へ居れようと頑張っている課長を傷つけたと。
 はっ。悪いけど、そんな気持ちはサラッサラ無い。
 誰が輪の中になど入れるもんか。入れたら最後。他の男どもが、恵美を聖母だと気づいちゃうでしょ。
 だけどやっぱり嬉しい。だから俺は悪魔の囁きに負け、飛鳥の正体を伏せたまま、巧妙な手段で恵美を呼び出した。

 それでも、会えば直ぐに解ってくれると思っていた。
 当然だ。毎日課で顔を合わせているのだから、気がつかない方が可笑しいでしょ。
 けれど恵美は、全く俺に気付いていない。否、気付く気付かないの問題じゃなく、危ない。
 それもそのはず。恵美は眼鏡を掛けていなかった。
 若しかして、コンタクトにしているのかと、顔を間近に寄せてみたけれど、恵美は赤面するだけで、やっぱり何にも見えていない。

 予想外の展開は、これに限ったことじゃない。
 何お前。何て恰好してるんだよお前。彼女を連れた男まで、お前を盗み見てるだろ。
 見るなよ、誰も見るな。この世から、恵美を見つめる男全てを抹殺したい衝動に駆られます。
 これはきっと、髪型と化粧の所為だ。兎に角、其定其処らの芸能人より遥かに垢抜けていて、思わず振り返りたくなる程に綺麗なの。
 確かに自己改革とは言ったけど、此処まで改革しなくてもいいだろう?
 見られたら減るんだよ。何が減るのかは答えられないけど、減るの!

 周りの男どもを威嚇しながら、恵美を促し老舗デパートに入店した。
 恵美は、栗とチョコレートに目が無い。と、つい最近知った。
 だから選りすぐったその二つを特別に注文し、今日の受け渡しで予約したわけです。
 でもそれだけじゃなく、他にも色々と計画があったのだけれど、飛鳥が俺だと気付いてもらえないという不足な結果から、計画が全て狂い、台無しになりました。

 だけど思う。俺の話をしっかりと聞いてくれている今、何故俺は真実を恵美に告げないのだろう。
 出逢う前は、どうにか真実を伝えようと躍起になった。
 けれど、にべもなく話し途中に逃げられてしまうからこそ、飛鳥として合う段取りをつけた。
 それなのに出逢ってからは、何かと理由をつけて、先延ばし、先延ばしにしては、眼鏡を掛けて現れない恵美に、ホッとするんだ。

 それは恵美が、俺には決して見せない顔を、飛鳥には屈託無く見せるから。
 無防備で、底抜けに可愛い笑顔を、飛鳥だけに見せるから。
 若し俺が真実を告げたら、恵美は二度と俺に近づかないだろう。
 そう思えば思う程、俺は飛鳥に嫉妬した。否、飛鳥も俺なんだから、自分自身に嫉妬するのもどうかと思うんだけど、事情が事情だけに複雑です。
 そのくせ恵美を失うことが怖くて、少しでも誤魔化そうと、伊達眼鏡を掛け続ける卑怯者です。

 そんな折、恵美の様子が可笑しくなった。
 何を言っても聞いても上の空で、それは飛鳥とのメールの遣り取りにも及んだ。
 確実に悩み事を抱えている。それだけは解る。だけど肝心の悩みが解らないから、あの手この手で吐き出させようとするのだけれど、殻に閉じ篭った恵美には通じない。
 屋上の歌も、つい最近までは、ホワイトブレンドかスペシャルエブリデーだったのに、可笑しいと思い始めた辺りから選曲が変わる。

「夜毎ぉ〜 つのる想いにぃ〜 胸を〜 熱くした日々〜」
 人間なら誰しもそうだと思うけれど、恵美もまた、気分によって口ずさむ歌を変える。
 まるでマリヤが自分の心を代弁してくれるかの如く、心情にぴったりな歌詞をチョイスするんだ。
「あなたのそばに居れば〜 幸せだった〜のにぃ」
 だからこの歌を聴いて、この歌詞を聴いて、恵美の抱えた悩みが飛鳥のことだと悟った。
 擦れ違いの愛で失った言葉。一体恵美は、何を言えないでいるのだろう……

 けれど何も解らないまま週は過ぎ、金曜の夜にそれは起きる。
「佐倉、顔が真っ青だぞ。送って行くから着替え」
「青くなんて無いです。蛍光灯を換えれば直ります」
 真っ青と言うより、血の気を失くした真っ白が適当かも知れない。
 炎天下の朝礼で、いきなり倒れる奴の顔色に似ているというか、そのまんま?
 だから気が気じゃない。心配で心配で堪らない。それなのにこいつは、こんなときまで意地を張る。
「そんな訳無いだろ。もういい加減」
「大丈夫です! これから家に帰ってヨガを……」

 勢いついて立ち上がった瞬間、後ろ向きのまま、意識を失った恵美が倒れて行く。
 こんなときの頭の中って、可笑しなものだよね。過去じゃなくて未来が走馬灯なの。
 病院のベッドで横たわる恵美。心拍がゼロをカウントする恵美。白い布を顔に被される恵美。菊に囲まれた祭壇で、モノクロな笑顔を放つ恵美……
 だからつい、此処が会社だと言うことも忘れ、愛しい女の名を叫ぶ。
「え、恵美っ!」

 鉄欠乏性貧血。女性に最も多く見られる貧血で、恵美の場合は過度のダイエットから起きた産物だ。
 ヘモグロビンがどうのこうのと医師の説明が続いたけれど、入院する必要もなく、鉄剤点滴を一本打ってからの帰宅が許された。
 確かにここの所、恵美の身体が細くなったと思ってはいた。
 だけど毎日顔を合わせていると、その変化に気づくことは難しい。
 そしてそれを、おざなりにした結果がこれだ。
 全くもう。何を悩んでいるのかは知らないが、此処まで自分の身体を痛めつけることはないだろう?
 俺の前で食わせる。そして吐き出させる。兎に角恵美を、俺の部屋へ連れ帰ろう。

 恵美愛用のひざ掛けを身体に巻きつけ、病院からタクシーに乗り込んだ。
 倒れてから、何度か不意に意識が戻り、そしてまたトロトロと眠る。を繰り返す恵美。
 そんな恵美の肩をしっかりと抱き寄せれば、その刺激で目を覚ましたらしい恵美が、瞼を薄っすらと開き、俺を見つめながら囁いた。
「アス、カ…さん……」
「ん?」
「好きです…すごく、好きです……」

 眼鏡を掛けている恵美。眼鏡を掛けていない俺。
 それでも恵美は、俺を見つめながらそう囁いたんだ。
 だから俺は、遂に恵美が気づいてくれたのだと解釈し、恵美を髪を梳き撫でながら返答した。
「やっと言ってくれたね」
 が、それは魘された為の戯言だったようで、完全に意識の戻った恵美は、飛鳥と俺を別人と化す。

「も、もしかして、野田課長が飛鳥さんに連絡を?」
「え? あ、あぁ、そ、そんな感じかな」
「やっぱり。あの人、お節介焼きなんです。本当にすみません……」
「あ? や、そ、そうなの?」
 完全に今、全てが無に返りましたよね。何だか少し、自分が可哀想になりました。
 けれど、厚めの前髪を束ね、手探りでピンを留める恵美に心奪われます。

 飛鳥と会うときの恵美は、いつも決まってゴージャスな化粧と巻き髪で現れた。
 有名美容院の、カリスマ美容師と仲良くなったとかで、巧みな技を伝授してもらったらしい。
 当然、そんな恵美はとても綺麗だ。隙の無い完璧なコーディネートも重なって、至極目立つ。
 けれど今の恵美はスッピンで、髪もボサボサで、会社の制服で……
 なのに可愛い。数ヶ月前、初めて出逢ったときとは格段に違うことが、はっきりと解る。
 こうして初めて、恵美の努力が鮮やかに見えた。
 美顔グッズを買い漁り、部屋で黙々とヨガをこなす恵美が、俺の脳裏に鮮明と見えたんだ。

 男ってさ、頑張っている姿に弱いのよ。
 特に俺は理数系だから、頑張れば絶対に答えが出ると、思い続けてきちゃったし。
 で、恵美はさ、頑張ってる頑張ってるって言わないじゃない? こう、口ばっかりみたいなさ。
 だからこそ余計に可愛いのよ。人知れず頑張ってるところが最高なのよ。
 そしてそして、人知れず頑張っている人間に気づいちゃった俺自身にも、優越感を感じちゃう?
 そんな感情に浸っているところへまた、更なる起爆剤を恵美が投下したから溜まらないのよ。

「な、何か予定が、入っちゃった…の?」
 な、何て可愛いんだ……
 基本、演技だったとしても、頬を膨らませた拗ね顔ってストライクでしょ。
 それなのに、演技じゃなくて素で遣られたら、もう、あなた、どうしよう。
 しかも、言っちゃった後、失言に気づいた後悔顔なんて、キュン死にでしょ、キュン死!
 だけど俺は紳士です。最早若気の至りは許されぬ年齢でもあるので、ここはグッと我慢です。
「お出掛けはキャンセルするけど、恵美と会うことを、キャンセルするつもりはないんだけど」

 平静を装い、俯き続ける恵美の頭に手を置いた。
 それでも頭は淫らな妄想いっぱいで、これがバレたら確実に嫌われること間違いなしですね、俺。
 ところがだ、予想はしていたけれど、此処で恵美が顔を上げた。
 拙い。拙過ぎる。その顔は反則でしょ。思わずキスしたくなっちゃうでしょ。そしてキスなんてしようものなら、歯止めが利かなくなるに決まってるでしょ。
 だから咄嗟に話を切り替えた。そうじゃなきゃ俺、襲い掛かっちゃうから……

「恵美? 明日は此処で、DVD観賞なんてどう?」
「はい。喜んで」
「何か観たい映画ある? やっぱりラブコメかな?」
「え? ホラーでしょ?」
 え? ホラーなの? 何故ホラー? どうしてホラー? なんでだホラー?
 若し仮に、俺が女だったとして、好きな男と初めて映画を観るとしたら、ホラーなど選ぶだろうか。
 否、絶対に有り得ない。ホラーじゃムードなんか絶対に出ないじゃん。
 ということはだよ、若しかして俺、彼氏ではなく親友の道を直進んじゃったりしていたりして……

 さらに恵美は、予測不能な訳の解らぬ言葉を吐き出す。
「だ、だって、一人だと怖くて観られないし、ラジバンダリが……」
「ら、らじばんだり? あ、や、じゃ、じゃあ、すっごい怖いやつを借りよう」
「うぃや、や、いいです。そんなに怖くなくて……」
 そして、放った言葉の気まずさから逃れようと、この場の撤退を申し出た。
「そ、そろそろ私、お暇を……」
 待て。逃がすわけが無いだろう? 是非ともそのラジバンダリとやらを教えていただきましょう――

 この年齢になると、自分を作っちゃう人間に、妙なアンテナが働く。
 コスプレのように、堂々とそのキャラを演じてくれる分には良いけれど、姑息な演技は片腹痛い。
 勿論、許せる演技は沢山在る。だけどそれ以上に、許せない演技が在るわけです。
 特に、互いが裸で営む行為では、アンテナがフルで稼働します。
 例えば、経験が少ないと豪語していた女性が、恥じらいながらシーツを掴むと、萎える。
 だってさ、仰向けよ? 仰向けでシーツを掴むって大変な作業じゃない? 経験が少ないのに、そんな作業ができる余裕があるってことでしょう?

 だったら初めから、経験が少ないフリなんてしなければ良いと思うわけよ。
 正直言って、経験人数が一人でも十人でも大差ないでしょ。
 単純に言っちゃえば、一人と十回ヤったのと、十人と一回ずつヤったのって、結果は同じじゃない?
 それに、経験が在ると解れば、こっちだって遣り甲斐があるしさ。こう、気遣い無くハードに。
 が、そう思っていたのは、俺がその女性たちに、深い感情を抱いていなかったからだと知りました。
 故に、女性たちが、挙って経験少なな行動を取る気持ちが、痛いほど解ったわけです……

 確実に恵美は処女だと思っていた。否、それどころか、キスでさえ、俺が初めてなのではないかと。
 現に恵美の身体は痛々しいほど震え、硬直し、手はシーツではなく空気を握り締めていた。
 与えられた刺激に、脳も心も追いついていない。それが有り有りと解るのに、何処かで見取った芸に近い仕草で、経験の無さを補っている。
 だから、無理をしなくても良いと恵美へ告げた。
「……怖い?」
 それなのに、恵美はとんでもない言葉を返して寄越す。
「ご、ごめん。久しぶりだから緊張しちゃって!」

 経験の少ないフリをされたことは有っても、経験の在るフリをされたことなど一度も無い。
 アンテナはバリバリ三本立っているのに、その言葉が癪に障って、恵美の演技を見過ごした。
 何を期待してたの、俺。私初めてなの。だなんて、言って欲しかったの、俺。
 自分でも解らない苛立ちに見舞われて、気持ちは萎えるどころか、サディズムに近い暴走を勝手に始めて、どうにもこうにも止まらない。
 俺以外が触れたの? 感じたの? 誰だよ、俺より先に、お前の心と身体を開かせたのは……

 狂気染みた嫉妬に侵され、恵美を抱く手に力が入る。
 戸惑う素振りは瞬間見せるものの、どんな愛撫をも受け入れ、抵抗しない恵美に苛立つ。
 更に、身体を強張らせたまま微動だにせず、一向に蜜を出さない恵美に益々苛立つ。
 だから、溢れるまでには程遠い粘液を、どうにか二本の指先に絡め取り、何の前触れも無く、どこまでも強引に、恵美の胎内へ突刺した。
「いっ! …くぅ、んっ」
 悲鳴。ただ一声で堪えたけれど、その声は確実に悲鳴だった。
 そんな恵美の声を耳が捉え、そして埋めた指先が、硬過ぎるほど締まった襞を感じ取る。

 嘘。否、嘘じゃない。俺のアンテナもそう告げていたのだから。
 拙い。何てことを仕出かしたんだ、俺。
 全く。何でこうも恵美は、嘘吐きなんだろう。吐いて良い嘘と悪い嘘があるでしょう? まぁ、一番間抜けなのは、そんな恵美の嘘を見抜けなかった俺なんだけどね……

 そこで恐る恐る恵美の顔を覗きこみ、今後の展開を考える。
 潔く此処で行為を中断するべきか、それとも、恵美の意を汲んで続行するべきか。それが問題だ。
 ところが、覗き込んだ先の恵美は、目を泳がせながら、明らかな嘘を勢い余って吐き出した。
「え、えっと…、す、すごくいい!」
 こ、こいつ。でも、これは吐いても良い嘘です。それはもう断言します。はい。
 何その、可愛い言い訳。そしてその、泣きそうな顔。否、泣きそうじゃなくて、実際に泣いているんだけど。それがまた可愛いんだけど。

「愛してるよ、恵美……」
 現金な男とは思いますが、男ってきっとこんなもんです。
 頭の中に渦巻いていた靄や霧が、綺麗さっぱり晴れ渡り、俺の下で縮こまる可愛い女性が、最高に愛しくてなりません。
 しかも、そう告げた途端にハッと目を見張り、みるみる赤く染まる耳たぶまで、食べ尽くしてしまいたくなるほど、愛しくて愛しくてならないから困ります。
「ごめんね恵美。最初からやり直させて……」
「う、嘘だった、の?」
「ん? 嘘吐きは恵美でしょ?」

「えっと、その…んっっ」
 大事に大事に、壊れ易い宝物よりも大事に、恵美を愛でると誓います。
 恵美の初めてが、美しい思い出になるよう、努力を惜しみません。
「ふぁっ、ぁ、ぁんっ」
 だからどうか二度と、否、一度と、他の男は恵美に触らないで下さい。
 じゃないと俺、壊れます。またきっと、我を失くして恵美に襲い掛かっちゃいます。確実に……

「んんんぁっ」
 恵美の指が背中に食い込み、その力が増す。けれどその痛みが、嬉しいなどと思う俺はマゾですか?
「恵美…愛してるよ、愛してる……」
 いやいや、多分俺はサディストです。
 でなければ、痛みに耐え、疲れ果てて眠る愛しい女性に、こんなことは言わないかと。

「ごめん恵美…ダメだ……」

 首の下に入れていた腕を滑らし、押さえつけるように恵美を組み敷き、愛撫の開始。
「……ん? なぁに…んんっ」
 寝惚けた相手でも容赦なく、我欲するがままに、指と舌が動き出す。
「全然足りない。もっと…恵美が感じるまで、もっと……」
 満たされなかった訳じゃない。現にさっきもきっちりと、恵美の中へ滾る想いを吐き出した。
 でも、飽くこと無く恵美を欲して止まない。
 漸く手に入れることのできた、俺の聖母なのだから……

 徐々に徐々に、恵美の身体が官能へ目覚めて行く。
 硬過ぎた襞も、幾度と無く指を受け入れ、俺を受け入れ、柔らかくしなやかに絡みつくまでに至る。
 気付けば、二度目の朝がやってきて、遂に覚醒を遂げた恵美が絶頂を叫んだ。
「んっ、あ、ああ、んっ、あぁぁぁっ!」
 けれど果てた瞬間、俺の顔を見つめる恵美が、鋭く息を呑む。
 その仕草本来の意味を悟ることが出来ずに、またまた悩める日々がやってくる――

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