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◇◆ 飛ぶ鳥を落とせっ! 2 ◇◆
「ずっと前ぇから、あたし。彼と出会う運命、だぁった」
 何時か聴いた、ラジオネーム毎日がスペシャルさん、あの時は吹き出してしまってごめん。
 今、私は貴女の気持ちが、苦しいほど解ります。猛烈に。
「あ〜ぃむいん、ラヴィズゆ〜!」
 色・色々、ホワイトハッピーです私。人生最大の色ボケしちゃってます私。

 トイレの個室で、便座に腰掛けながら語ることではないのだけれど、何時でも何処でも、飛鳥さんのことが頭から離れないので許してください。
 トイレットペーパーをガラガラと引き出しながらも、思い出しニヤケが飛び出すんです。否もう本当に。
 そう。それは、初めて出逢ったあの日から始まりました――

 振り向いた先に佇む男性は、緩やかな秋風でもさらさらと靡く鳶色の髪の毛で、見上げるほど長身で、変わった眼鏡を掛けていらっしゃる方でした。
「恵美、今逃げようとしたでしょ?」
 戯けた口調で囁く、穏やかな音調。
 何処かで聴いたことのある声質だけれど、男性は皆似たようなものですよね。
「あ、や、えっと、あ! はじめまして……」
「え? はじめまして?」
 というか、はじめましてのご挨拶が、何故か疑問符なのは何処か変だ。
 けれどそれは、舞い上がった私の幻聴だと片付けよう。
 現に、こんなサラサラヘアーの眼鏡紳士になど、一度も出逢ったことなどないのだから。

 恵美、恵美、恵美。
 名を呼ばれるだけでもドキドキするのに、呼び捨てなんてされたら、更に浮き足立っちゃうよ。
 だから眼鏡を掛けてこなくて、本当によかったと思う。
 だって、ぼやけている方が未だ増しじゃん。クリアに見えちゃったら、心臓が破裂しちゃうもん。
 それなのに飛鳥さんが、屈みこみながら私の顔を覗き込む。
「恵美、ちゃんと見えてる?」
 見えなくていい。見えない方がいい。そう言ったら失礼だから言えないけど。

「そ、その、眼鏡を忘れちゃって……」
 忘れたのではなく、故意的、意図的なんですが、お願い、つっこまないで。
 それより、そんなに近くまで顔を寄せないで。頬が熱くて堪らないから。
 そこで思わず顔を横に背ければ、漸く飛鳥さんが顔を離し、気を取り直したように話を展開させる。
「そ、そうなんだ。ごめんね、電車の移動を選んじゃった」
 飛鳥さんが謝ることなど何も無い。だから咄嗟に言い返し、引き攣る笑いを向けた。
「いえ、ぜ、全然! 大丈夫です」

 些か疑問の残るご挨拶を終え、飛鳥さんのリードの元、名店と名高い銀座の百貨店内に入り込む。
 よく解らないのだけれど、未だ少し時間があるらしい。
「エスカレーター、気をつけて?」
「あ、はい」
 相変わらず顔は上げられないけれど、飛鳥さんの言葉には即答した。
 だけど、ぼやけた視界の動く乗り物は恐怖に近い。
 恐怖を抱えながら進むから、当然よろけちゃうわけで、人間て精神的に脆いよね。
 けれど今日は、いつもと違う。私の肘に、そっと飛鳥さんの手が伸びる。
「ほら危ない。大丈夫?」

 飛鳥さんに触れられた肘が熱い。
 長袖の洋服だから直に触れられたわけじゃないのに、鼻息が荒くなっちゃうの。
 どうしよう。早くも、高血圧でぶっ倒れそうだよ、私。
「恵美? 聴いてた?」
 けれど、穏やかにそう問われ、高血圧が一気に低血圧まで下りきる。
 やばい。テンパッちゃって、何一つ聴いてなかった。
 拙い。何て答えたらいいの。聞いていたと嘘を吐く? それとも正直に告げる?

 そんなことを考える必要もなく、飛鳥さんは全てを解っていたらしい。
 だから私の返答を待たず、忍び笑いを漏らしながら、同じであろう台詞をもう一度告げてくれた。
「恵美の誕生日に、何を買おうか迷っちゃったって話だよ」
 そこではたと思い出す。そうだよそうだ、今日は私の誕生日じゃん。しかも三十路の。
「いや、いいんです。そんな、め、めでたいものじゃないし」
 齷齪と両手を動かし、好意の辞退を強調するものの、又もや私の肘に手を添えて、飛鳥さんが優しいトーンで囁いた。
「だから恵美、危ないって」

 甘い匂いの立ち込める、地下一階へ二人降り立ち、混雑する店内をゆったりと歩く。
 飛鳥さんはそこで、明らかにチョコレート屋さんであろうテナントにて、小さな紙袋を受け取った。
 そして、さらに訳の解らぬ言葉を繋ぐ。
「これは、後でのお楽しみ」
 それから、ぐるりと一周店内を散策し、テレビの中でしか見たことのない、スイーツの数々を眺め見た。
「あ、これ、もっとイマドキ! で、紹介してた!」
 何を言い出すんだ、自分。咄嗟に出ちゃった田舎者丸出し発言に、多大なる赤面をしたけれど、そんな私を覗き込みながら、至極嬉しそうに飛鳥さんが告げる。
「恵美も、目覚まし派なんだ」

 目覚まし派。そう言えば会社で、そんな話題を耳にしたことがある。
 朝の情報番組は、ズームイン派と目覚まし派に真っ二つだとか、なんだとか……
 ちなみに私は、飛鳥さんの言う通りの目覚まし派だ。大塚さんの優しい笑顔が好きなんです。
 そして飛鳥さんも、この接続詞からして、目覚まし派に違い無い。
「あ、飛鳥さんも、目覚まし派なんですか?」
「うん。大塚さんを見ると、何だかホッとするから」
 そんな他愛もない会話を弾ませながら、またまた恐怖のエスカレーターに乗り上げた。
 恐怖は恐怖でも、肘に触れられることによる、心臓破裂の恐怖だけど。

 そこからまた通りに出て、何度か角を曲がり、ホテル裏にひっそりと佇む料亭の暖簾を潜る。
 お昼から懐石です。しかも銀座の個室なんですが、瞬きをする度、目が料金を刻んで行くのは貧乏人の証拠でしょうか。
 さらに、この食器。割ったり欠けたりしたら、とんでもないことになりそうで怖いです。
 もう鮪がルビーに見えます。味なんか解りません。というか、飛鳥さんの前で口を開くことが既に恥ずかしいのに、ゆっくり味わうなんて出来るわけがないでしょう?

「お気に召さなかった、かな?」
 食の進まない私に、戸惑いを隠せない様子で飛鳥さんが問う。
「いい、い、いえ、そそ、そんなことは決して」
 今の気持ちを言葉にするとすれば、こう、ピギャって感じ。
 顔文字で言うと、目がバツ印のやつ。あ、不等号の連続でも可。
 どうしよう。折角飛鳥さんが連れてきてくれたのに、緊張しすぎて何も喉を通らないよ。
 私、財布にいくら入ってたっけ? こういう処ってクレカも使えるの? 誰か教えて!

 けれど飛鳥さんが、全てを見越したように、小さく小さく囁いた。
「エミの誕生日だから奮発したけど、実は僕も敷居が高過ぎて、ちょっと辛い」
 そこで漸く顔を上げ、ぼやけた飛鳥さんの顔を見つめた。
 良い人だ。本当にこの人は、善人の塊みたいな人だ。小心者の私に話を合わせてくれて、尚且つ、自分を卑下できちゃうところが恰好良過ぎでしょ。
 だけど何やら、見つめた先の顔に見覚えがあるような。
 いやいや、そんな筈は無い。こんな眼鏡を掛けた、こんな男前と私が知り合うはずがないのだから。

 それからは、瞬く間に時が進む。
 思い切って顔を上げた瞬間から緊張が解れ、暗闇が迫る頃には、飛鳥さんの隣に、居心地の良さを覚えるほどになっていた。
 けれど裏を返せば、早過ぎる別れの時が、否応無く近づいているってことだ。
 こんなに楽しい休日を過ごしたのは、何年ぶりだろう。
 否、何年じゃないかも。人生初めてでも大袈裟じゃないよね、きっと。
 最高の誕生日だった。飛鳥さんと会えたことが、何よりも最高のプレゼントだと思う。
 それなのに、もっと最高な気分にさせてくれる言葉を、飛鳥さんが放ってくれた。

「また会える?」

 それは願っても無い言葉だった。否、この一ヶ月、願い続けた言葉だった。
 何だか解らないけど、合格のハンコをドンと貰った気分だよ。
 頑張ったよね、私。こんな言葉を貰えるんだから、努力は無駄じゃなかったよね、私。
 だから泣き出しそうになって、手の甲で鼻と口を覆い隠した。
「恵美? どうし……」
「会えます! 勿論、いつでも、いつだって会えちゃいます!」
 困惑する飛鳥さんの言葉を遮り、喚くように言い返した。
 我ながら可笑しな返答だと思うけれど、これ以上は無理だ。
 それでも飛鳥さんは、私の頬にそっと手を当て、莫迦にすることなく最後の言葉を囁いてくれた。

「なら、また来週の土曜に、恵美を予約させて――」

 くはっ。いやん。もう、超たまんない。
 アパートの階段を上るのもツーステップだし、玄関の鍵を閉めた後は、思う存分ニヤケ捲りだし、現金すぎるほど現金な女だよね。
 さらに別れ際、飛鳥さんが手渡してくれた例の紙袋を開けて、メロメロモードがバリバリドキュン。
「やだ、これってもしかして……」
 そう。飛鳥さんが老舗店舗で受け取っていたチョコレートは、オリジナルチョコだったの。
 今まで、メールの遣り取りにて私が送った、くだらない空とか風景とか雑貨などの写真が、プリントされたチョコだったの。

『飛鳥さん! チョコが写真!』
 プレゼントしてくれた張本人なんだから、そんなことは重々承知なはずの飛鳥さんへ、感動を上手く表現できない私は、有りの儘を文字にして送る。
 だけど飛鳥さんは、そんな私をちゃんと解ってくれるんだ。
『喜んでもらえて良かった^^』

 言葉の裏の想いを掬ってくれるから、こんな私でもメールが出来る。
 そして、こんな私でも、また会いたいって、予約したいって、言ってくれる飛鳥さんが、ちゃんと会ったことで、バーチャルな世界から実像化されて、私の中で膨らんで行く。
 メールをしながらも、飛鳥さんのアンダーリム眼鏡がぽわんと浮かび、電話しながらも、飛鳥さんのサラサラ髪がはらっと風に靡いて見えるの。
 これはもう、かなり重症な恋の始まりかも。

 こうして、予約されちゃった二度目のデートは、自宅前で待ち合わせ。
 布じゃなくて、皮のシートが貼られた車で、飛鳥さんが迎えにくるの。
「また眼鏡を忘れちゃったの?」
 その悪戯めいた囁き方から、多分飛鳥さんは、故意で忘れていると悟ってる。
 でも私は、それに気付かないフリをして、頬を染める作業に勤しんだ。
「あ、はい、えっと、その、また忘れちゃって……」

 秋だけど、ちょっと暖かい土曜日。
 高速に乗って、山を潜り抜ければ、潮の匂いが車の中までやってくる。
 暖かい日差しが照らしているけれど、海風はやっぱり冷たくて、ブランケットで身体を包み、ラブソファーばりの流木に腰を下ろす。
 途中で買ったコーヒーを飲んで、訳もなく二人で海を見つめて、取りとめのない会話は何時間も続く。

「恵美、鼻の頭が真っ赤」
 くすりと笑いながら、飛鳥さんの指が私の鼻にちょこんと触れた。
「や、み、見ないで」
 恥ずかしさの余り、ブランケットで鼻まで覆うけれど、風で乱れた私の髪を、さわさわと弄る飛鳥さんの指で、鼻どころじゃなく顔全部が熱いよ。
 だから少し俯いて、タンブラーに目を落とす。すると飛鳥さんの唇が私の額にそっと触れた。

 今、顔を上げたらどうなっちゃうんだろ? 唇にキスしてくれるかな?
 否、そんな図々しい考えは捨てなくちゃ。偶々だっただけだ。偶然額に触れちゃっただけ。
 でも、もしかして、もしかしたら、私と同じくキスしたいって思ってくれているかも。
 それに、ただ顔を上げたからって、キスの催促だとは決まってないし……
 そうやって、あれやこれやと考え過ぎて、なかなか顔が上げられない。
 そんな私に痺れを切らした飛鳥さんが、そっと私の顎に手を当て、そして持ち上げた。

「チュ…ッ」

 今、ドキューンって音が聴こえたよね? 誰かが何処かで銃を発砲したよね?
 いやいやそれより、私はちゃんと目を瞑った? 唇がだらしなく半開きになってない?
「恵美、真っ赤。ヤバイ、ストライク入った……」
 そりゃそうだよ、だって飛鳥さんとキスしたんだよ。真っ赤になっちゃって当然だ。
 でも、ストライクとヤバイの意味が解らないけど。
「ヤ、ヤバイ? ス、ストライクって?」
 だから、ぼそぼそと蚊の鳴く声で呟けば、飛鳥さんが小さく笑う。
「恵美がめちゃくちゃ可愛いって意味」

 間近に掛かる息は、大好きなコーヒーの香り。
 思い切りそれを吸い込んで、今度はちゃんと目を閉じた。
 優しいキスは顔中に降り注がれ、肩を抱かれ、引き寄せられ、二人ブランケットに包まった。
 拙い、拙いよ私。何だかもう、マリヤモード一直線だ。
 歌の中の二人みたいに、蕩けるアルトボイスに浸っちゃってるよ。
 それでも、こんな恋は初めてだから、恋に酔ってる私を多めに見てください……

 帰りの車の中は、ずっと手を繋ぎっぱなしで、掌が異様に汗ばむ。
 カーステから流れる大好きな音楽でも、胸の高鳴りを消してくれそうにないとさえ思うんだ。
 そのくせ、陽気な春頭は、つい、曲に合わせて言葉を吐き出しちゃうから恥ずかしい。
「ナイスなバディじゃ、なくてもね〜」
 穴があったら入りたい。けれど何事も聞き逃さない飛鳥さんは、曲に合わせたツッコミを入れる。
「今日は、スペシャルデーになった?」
 イエス、アイドゥー。しかも、ベリーベリーなスペシャルデーだ。
 だけど、もっとベリーな気分にさせてくれる言葉を、飛鳥さんが放ってくれた。

「来週の土曜も会える?」

 イエス、アイドゥー! って答えた、三度目のデートは水族館。
 前の週に出掛けた海で、魚の話をしたのが切っ掛けだ。
 飛鳥さんはいつも、私の言葉を聞き逃さない。ぽろっと口に出しちゃった他愛もない言葉を覚えていてくれて、そこに私を連れ出してくれるの。
 薄暗い館内を手を繋ぎながら歩き、童心に戻って笑顔が増える。

 四度目のデートは紅葉ドライブ。
 真っ赤に染まった木々たちを遊覧船から眺めた後、今度は徒歩で散策するの。
 ひらひら舞う落ち葉を、どちらが早くキャッチできるかなんて競争して、予測不能な動きをする落ち葉に悪戦苦闘の大笑い。
 奇蹟に近い確立でキャッチした落ち葉を持ち帰り、大好きな本に挟んで押し葉にした。

 五度目のデートは……
「ねぇ聞いて! 土曜に野田課長を見かけたんだけどさ、超綺麗な人と一緒だった。ムカツクほどお似合いでさ!」
 突如響き渡る声に、妄想の世界からトイレの中に戻る。
「あぁ、やっぱね。ユキが振られたらしいよ。何でも心に決めた人がいるとかでさ?」
 この声は多分、我が営業部のヒヨコちゃんたちだ。
 入社年数三年未満の女の子。まだピチピチの二十代前半で、毎日が合コンな女の子たちなの。
「あ、それ知ってる! 結婚するんでしょ?」

 結婚。その言葉に胸が締め付けられた。
 否、野田課長の結婚なんてどうでもよくて、勝手にやってくれって感じなんだけど、胸が苦しいのは自分の結婚の方だ。
 どんなに好きでも、私と飛鳥さんの結婚など有り得ない。
 だって彼女達の言う通り、美男には美女が似合うのであって、美女と野獣とは聴くけれど、美男と野獣は可笑しいだろ。

 そもそも、毎土曜に飛鳥さんとデートをしているけれど、好きだなどと言われたことが無い。
 デートの時間が日曜に跨ることはあっても、一緒の朝を迎えたことも無い。
 日曜の飛鳥さんが、何をしているのかなんて解らないし、日曜どころか平日の飛鳥さんが、毎晩遅くに帰宅することしか知らないでいる。
「そう言えば、瑠奈が遊ばれちゃってさぁ!」
「うそ、誰に? まぁ、言っちゃ悪いけど、遊ばれそうなタイプだよね」

 遊び。さらにその言葉は胸の奥深くに突き刺さる。
 否、ルナさんとやらが遊ばれちゃったのは、ご愁傷様であり残念に思うけれど、胸に突き刺さったのは、遊ばれちゃうタイプの節だ。
 どういう人間が、遊ばれちゃうタイプに属するのだろう。
 多分きっと、私のような女だ。恋愛音痴で何も知らず、ちょっとのことでときめいて、勝手に誤解して盛り上がっちゃうような女ね。

 だとしたら、今までのデートも全部全部、私の勝手な誤解で、飛鳥さんは楽しいとなど思っていないかも知れない。
 私の想いが強過ぎて、気の毒だと、可哀想だと、同情してくれているのかも知れない。
 そう思い始めたら、自分の色ボケ加減が、矢鱈と虚しくなってきた。
 だから、音も無く個室から出でて、ふらふらと手洗い場へ歩む。
「う、うわっ、さ、佐倉さんかよ」
「はい、すみません。私です」
「い、いや、ちょっと驚いただけで、そんな謝っていただくことは何も……」

 ヒヨコちゃんが、何やら恐縮気味に話しているけれど、私の耳には届かない。
 制服のポケットからハンカチを取り出し、黙礼を済ませてトイレの扉をパタンと閉めた。
「佐倉さんて、マジで不気味だよね……」
「でもさ、肌だけは綺麗だよね。あれ、すっぴんでしょ」
「あぁ。それだけは私も認める。あれは三十路女の肌じゃないよね」
「宝の持ち腐れ? ぷぷっ」
 扉の前で、何気に聴こえたその後の会話。
 き、綺麗なのか私の肌。思わず引き返して、本当なのかと胸倉揺さぶって確かめたかったけれど、気持ち的にそれどころじゃないから止めた。

 トイレを出てからはもう、周りの音など何一つ聴こえなくなって、悶々と悩んでは溜息を吐く。
「佐倉、何か遭ったのか?」
 だから野田課長の言葉など、当然耳に入らなくて、珍しく素で無視したらしい。
 そして、帰宅してからもこの想いは続き、飛鳥さんへの返事も返せないでいた。
『恵美? どうしたの? 何か遭った?』
 今話したら、行き先も宛先もないヤキモチで、飛鳥さんを問い詰めちゃいそうだから。
 どうして? 何で? 本当に? って、質問攻めしちゃいそうだから。

 その週はずっと、独り善がりの悩みを抱え、食事も喉を通らないで居た。
 いつも以上に野田課長がしつこいけれど、この人に、ちょっと相談してみようかなんて思った自分が、最も情けない。
「佐倉、顔が真っ青だぞ。送って行くから着替え」
「青くなんて無いです。蛍光灯を換えれば直ります」
「そんな訳無いだろ。もういい加減」
「大丈夫です! これから家に帰ってヨガを……」

「え、恵美っ!」

 何でかな。課長と話していたはずなのに、記憶の最後に聴こえた声は飛鳥さんの声で、こんな幻聴が聴こえる程、私は思い詰めていたわけで……
 つっぷり途切れた記憶と、長く可笑しな夢の狭間で、独り芝居に明け暮れるんだ。

「アス、カ…さん……」
『ん?』
「好きです…すごく、好きです……」
『やっと言ってくれたね』
 はい、言いました。一世一代の大告白ができた私を褒めてください。夢の中でだけど。
 そして、こんな夢に付き合ってくださり、嬉しそうに微笑んでくださり、飛鳥さん有難う。
 だから、飛鳥さんの笑った顔が、野田課長に似ているなんて思っちゃった私を許してください――

 ん? 此処は一体、何処でしょう?
 ぼやけていても、見知らぬ場所だと雰囲気で解るのですが。
 しかも何やら、美味しそうな香りが立ち込めているから、ぐるぐるとお腹が鳴っちゃいましたよ。
「恵美? 起きたの?」
 待て。待て待て。何故此処に飛鳥さんが居るの?
 否、いやいや、そうじゃなく、何故私は此処に居て、此処は何処で、えっと……

「栄養失調による貧血だって。無理なダイエットでもしたの? そんなに細いのに」
 細い? 飛鳥さん、あなたはやっぱり良い人だ。乙女心を解っていらっしゃる。
 いやいや、そんなことに感心している場合じゃなくて、現状説明をして貰わねば。
 だから飛鳥さんの問いには答えず、最もらしい経緯を自ら述べる。
「も、もしかして、野田課長が飛鳥さんに連絡を?」
「え? あ、あぁ、そ、そんな感じかな」
 なんか微妙。でもいいや。そんな感じなら、そんな感じなんだ。多分。

「やっぱり。あの人、お節介焼きなんです。本当にすみません……」
 そこで、ちょっと嫌味交じりの責任転嫁謝罪を呟けば、何故か飛鳥さんの声色が変わる。
「あ? や、そ、そうなの?」
 あ? って、ちょっと柄が悪くない? 飛鳥さんって実は昔、不良だったとか……
 でもいいや。昔悪いことしていたとしても、今が真面目ならそれで。きっと。
「はい。課を纏めようと躍起になっているから、食み出し者の私に声を掛けたがるんです」

 重たい前髪を掻き上げながら、にこやかに事実を告げたものの、今度もまた、何故かそっぽを向いた飛鳥さんが、辛辣な反論をボソと溢す。
「そういうつもりじゃ無いと思うけどね……」
「え?」
「いや、こっちの話。それより、僕の見ているところで、これを食べてもらうから」
 そう言いながら飛鳥さんが運んできたのは、大皿てんこ盛りな、蟹のトマトソースパスタ。
 目覚めを促した良い香りは、これだったのかと納得し、ゴクンと唾を飲んだ。

「飛鳥さんが作ったの?」
「当然。自炊のキャリアも長いからね」
 私の問いに、ちょっと照れ臭そうに笑いながら、飛鳥さんが私へカトラリーを差し出した。
 不良でもいい。料理が上手ければオールオッケーだよ。これは断言。
「いただきます」
 カトラリーを受け取って、一礼してから一口食べれば、濃厚な蟹の味と、酸っぱいトマト味が口の中いっぱいに広がって行く。
「あ、美味しい!」
「ほんと? 良かった。じゃ、沢山食べて」

 この味なら、沢山どころか、全部平らげそうなんですが、そうなると、大食いの称号を頂く羽目になりますよね?
 それでも、次の飛鳥さんの一言で、漸く手の動きを止められました。
「あんまり驚かさないでね。目の前で倒れられるのは、二度とごめんだから」
「え? 目の…前?」
 私の記憶が正しければ、私は飛鳥さんの前で倒れたのではなく、しつこい大魔王な、野田課長の前で気を失ったんですが。
 けれど私の声が聴こえなかった飛鳥さんは、飲み物をコップに注ぎながら、明日の予定を話し出す。
「明日のお出掛けは、キャンセルだね」

 そうだ、明日は土曜日だ。
 今度の土曜は美術館へ行くから、眼鏡を忘れちゃダメだよって、飛鳥さんに言われたんだった。
「だ、大丈夫です、私、行けます!」
 パスタをゴクンと飲み込んで、キャンセルなんかにしたくないと、懸命に言い返したけれど、飛鳥さんはやんわりとそんな私を嗜めた。
「貧血で倒れちゃう人は、美術館に行けないよ」

 飛鳥さんの言う通りだ。今だって迷惑を掛けているのに、これ以上の迷惑は掛けられない。
 それでも、キャンセルにしたくないの。もっと一緒に居たいの。
 だけど捻くれた私の口は、ついポロっとジェラシー発言を呟きだす。
「な、何か予定が、入っちゃった…の?」
 言っちゃった後、酷く後悔しても取り消せないと知っている。課長のお蔭で。
 こんな重い発言をしたら、飛鳥さんだって疲れちゃうよね。課長は疲れてもいいけど。

 俯いちゃったから、飛鳥さんがどんな顔をしているのか解らない。
 だけど足音が近づいてくるから、今の一言が聴こえちゃったのは間違いない。
「お出掛けはキャンセルするけど、恵美と会うことを、キャンセルするつもりはないんだけど」
 その言葉で、漸く顔を上げた。
 すると間近に、飛鳥さんの風変わりな眼鏡がほわんと浮かぶ。
 今日の眼鏡は、マドラスチェックのセルフレームに違い無い。
 飛鳥さんが、お洒落な男性とは知っているけれど、先ず会う度、同じ眼鏡を掛けていた例がないの。

 先週は、アンダーリムだった。ほら、下半分だけにフレームがあるやつ。
 その前は、オーバルセル。えっと、楕円形の鼈甲フレームね。
 多分、洋服に合わせて、眼鏡も変えているのだろうけれど、特徴のあるフレームをセレクトするのが飛鳥流らしいのよ。
 だからいつも、飛鳥さんの顔を思い浮かべると、眼鏡ばかりが思い出されちゃうんだよ。
 まぁどの道、眼鏡を掛けていなかったとしても、曇りガラスの向こう側程度しか思い浮かべられないんだけどさ……

 そんな私の思考を余所に、飛鳥さんが突然切り出した。
「恵美? 明日は此処で、DVD観賞なんてどう?」
 一緒に居られるのであれば、何だって構わない。でも、まったりと、家で過ごすのも良いな。
「はい。喜んで」
 七度目のデートにして、初、まったりだ。何だか今からワクワクしちゃう。
 やっぱり、好きな人とDVDを観ると言えば、ホラーだよね。
 危機一髪が訪れる度、怖がってみたり、背中に隠れてみたり、ラジバンダリ?

 それなのに、飛鳥さんが、訳の解らぬ質問を放つから遣る瀬無い。
「何か観たい映画ある? やっぱりラブコメかな?」
「え? ホラーでしょ?」
「え? ホラーなの?」
 え? ホラーじゃないの? ラブコメじゃ、私の秘めに秘めた、ラジバンダリの行き場がないでしょう?
「だ、だって、一人だと怖くて観られないし、ラジバンダリが……」
「ら、らじばんだり? あ、や、じゃ、じゃあ、すっごい怖いやつを借りよう」
「うぃや、や、いいです。そんなに怖くなくて……」

 拙い。これ以上此処に居たら危険だ。私の秘めた作戦を、飛鳥さんに悟られてしまう。
 だから唐突に立ち上がり、いそいそと撤退発言を申し出る。
「そ、そろそろ私、お暇を…あ、明日は何時に、っ」
 何が起こったかなんて、私に解るわけが無い。
 ただただ感じるのは、柔らかな唇の感触と、味わったことのない、滑らかな舌の食感だけ。
 半ば強引にやってきたその舌は、私の舌をなぞり、上顎をなぞり、どこまでも妖しく私を犯す。
 纏わりつく空気にまで翻弄されて、腕も膝も重力に負けて、ガクンと身体が傾いたところで、飛鳥さんの唇が小さな音を立ててゆっくりと離れた。

「……帰りたい?」
 ドキドキが集団で襲ってくることを、ドッキンドッキンって言うのかな。
 心臓が可笑しな動きをしちゃって、動悸、息切れ、不整脈?
 飛鳥さんの囁き声が、何を意味するものか解ってる。
 だからこそ、カタカタと小さな震えが止まらない。それでも、この状況から逃げ出したいとは思わない。
 きっと私は、何かの発作に襲われちゃったんだ。だから思考能力なんか何処にもなくて、直感と本能だけが勝手に私を動かすんだ。
「帰りたくない……」

 真っ暗闇でも薄暗がりでも、私が見る分には大差ないけれど、見られているとなれば話は別だ。
 一筋の光も届かない暗闇が欲しい。手探りだけで抱いて欲しい。
 けれど飛鳥さんは、そのことを譲ってはくれなかった。
 五感全てで私を感じたいのだと、恥ずかしがることなく、はっきり告げた。
 そうだ、そうだよね。決してクリアじゃないけれど、私だって飛鳥さんに抱かれた証拠が欲しい。
 目で口で肌で、飛鳥さんを確かめたい……

 だけどやっぱり、不安と羞恥は我が身に襲い掛かってくる。
 三十路のくせに、誰も貰ってくれなかったお蔭で、錆びて干からびた無垢な身体。
 そんな恥ずかしい身体を愛でられるのは、清水の舞台から落ちるよりイタイって。
 だから、経験の有るフリをしちゃおうって考えるでしょ、普通。
 それでも経験が無いから、経験者のフリなんか出来るわけがないっつうの!
「ふぁっ……」
 ところが、意に反して私の身体は、未経験者歓迎だった様子です。
 飛鳥さんの舌にほろ酔い、甘々猫なで声を出しちゃいました。しかも素で。

 胸の輪が、キュって縮むのが自分でも解るの。
 ころんと舌で転がされる度、顎が持ち上がり、仰け反りたくなるんだよ。知ってた?
 だけど、こんな余裕をカマしていられるのも、上半身を攻められているときだけで、飛鳥さんの指が中心に到達した途端、何も考えることができずにパニックを起こす。
「あっ、や、やだっ、やめ」
 けれど飛鳥さんの一言で、息を飲み、我に返る。
「……怖い?」

 この発言は、私が処女だとバレ掛かっているのではあるまいか。
 それは拙い。確か、二十五過ぎた女の処女は重いと、どこぞの雑誌に書かれていたはず。
 体重も然り、重いと思われるのは心外です。私は決して重くありません。
 だからバレ掛かった疑惑を返上しようと、咄嗟に考え付いた出鱈目を正々堂々言いました。
「ご、ごめん。久しぶりだから緊張しちゃって!」
 ところが飛鳥さんは、何かがお気に召さなかった様子で、先程とは打って変わった口調にて、私の台詞に一言した。
「へぇ……」

 これを境に、飛鳥さんの愛撫が、少し乱暴になった気がする。
 でも、何分初めての経験故、こういうものなのだと思うしかないのだけれど。
「いっ! …くぅ、んっ」
 突然、二本指を差し込まれて、その痛みに驚き、危うく叫びそうになった。
 ここまで頑張ったのだから、最後まで経験有る女を演じ切りたい。
 だけど意思とは裏腹に、身体は勝手な涙を、勝手に放出するんだ、これがまた。
 そこで案の定、飛鳥さんの動きが止まり、私の顔を覗き込む。

 かなり拙い。中途半端な叫び声と、この涙の言い訳が、完全に浮かびません。
 どうしよう。早く何か言わないと、飛鳥さんが気分を害してしまうかも。
「え、えっと…、す、すごくいい!」
 む、無理がありますよね。自分でも辻褄が合わないことは承知です。
 ところが飛鳥さんは、何かがお気に召した様子で、ぼやけていても解るほどの優しい微笑を浮かべながら、私の涙を唇で拭い出す。
 そしてその唇が、こめかみを伝い、耳元へ流れ、最後に囁きを齎した。

「愛してるよ、恵美……」

 今、ドカーンって音が聴こえたよね? 何処かで爆発事件が起きたよね?
 一瞬にして全身が一気に総毛立ち、その後直ぐに、全身が一気に熱くなりました。
 内側から、燃えるように噴火しているのですが、鎮火までどれ程の時間が掛かりますか?
 けれど、心配は無用でした。えぇ、直ぐに鎮火できました。

「ごめんね恵美。最初からやり直させて……」
 何で飛鳥さんが謝るのだろう。訳の解らぬ謝罪に、身体の熱が引いて行く。
「う、嘘だった、の?」
 愛してるは、嘘だったに違い無い。当然だ。飛鳥さんが私を愛してくれるはずなど……
「ん? 嘘吐きは恵美でしょ?」
 バ、バレたのか。バレたんだな。この戯けた口調は確実に。

「えっと、その…んっっ」
 言い訳無用とばかりに、突如再開された、仕切り直しのやり直し。
 だけど隠し事を抱かずに済んだ心は、晴れ晴れとして、演ずることなく快感を受入れる。
「ふぁっ、ぁ、ぁんっ」
 飛鳥さんの唇が、舌が、指が、労るように優しく動いては、私の脳までをも蕩けさす。
「……怖い?」
 もう平気。もう怖くない。だから飛鳥さんの問い掛けに、首を横に振って答えた。
 そして、膝が折り曲げられ、腿が開かれ、飛鳥さんの身体がその中へ滑り込む。

 ゆっくりと。でも確実に、飛鳥さんの高まりが、私の中へ沈む。
「んんんぁっ」
 痛い。痛いけど、繋がった悦びの方が遥かに勝る。
「恵美…愛してるよ、愛してる……」
 キスの合間に、飛鳥さんが何度も何度も囁いてくれる。私の痛みを呑み込みながら、何度も何度も。
 私だって愛してる。私の方が愛してる。
 だけどそれを言葉にできなから、代わりに涙が零れ落ちるんだ――


 果てた身体を寄せ合いながら、ウトウトとまどろむ私に、飛鳥さんが囁いた。
「ごめん恵美…ダメだ……」
 そして、その言葉と同時に、飛鳥さんの唇が、指が、寝ぼけた私の身体に降り注ぐ。
「……ん? なぁに…んんっ」
「全然足りない。もっと…恵美が感じるまで、もっと……」

 何度も何度も繋がった。飲むことも食べることも忘れて、何度も何度も愛された。
 飛鳥さんは、その度に果てるわけではなく、私の苦痛が無くなるまで、優しく激しく抱き続ける。
 セックスと汗の香りが部屋を満たし、淫靡な空気に満ちた密室で、飽くこと無く絡むんだ。
 気付けば、二度目の朝がやってきて、気付けば、感度の可笑しくなった身体が絶頂を叫ぶ。
「んっ、あ、ああ、んっ、あぁぁぁっ!」

 果てたことで窄まった視界は、一瞬だけクリアな映像を脳へ流し込んだ。
 それが、愛しげに私を見下ろす、野田課長の顔だったなんて、口が裂けても言えやしない……
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