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◇◆ JUSTICE APOLLO ◇◆
 何かが地を蠢く、異様な気配に目が覚めた。
 けれど目の覚めた自分を、これほどまでに呪ったことはない。
 暗闇の中、開いた目の隅に映る、先の割れたY字の紅細い舌。
 ケラチン質な湿ったウロコに、横這いするしなやかな筋肉。
 見間違える訳がない。それでも思う。これは錯覚であって欲しいと。

 一匹どころの騒ぎじゃない。数え切れない程の蛇が私の部屋内を埋め尽くし、最早ベッドにまで這い上がったそれは、上掛けを挟み、私の上を蛇行する。
 金縛りなどと言ったものではない。ただただ恐怖で全身が硬直し、脳も働かない。
 今此処で失神できたら、どれだけ私は救われるだろう。
 これから起こるであろう更なる苦痛を、味わうことなく死を迎えられたはずだ。
 それなのに、こういう時に限って湧き上がる強靭な精神が、立ち向かえと告げている。

 縦長の瞳孔が鼻先ほど間近に現れ、その細く長い舌を出し入れしながら、私の様子を伺い始めた。
 それも無数の瞳孔。無数の舌が、だ。
 けれど、瞬きをしたら終わる。そう確信を抱いたとき、不意に私の上半身が浮いた。
 背中がうねと動く。
 肌から伝わるその感覚で、夥しい蛇が連なり、私の身体を起き上がらせたのだと悟った。
 中まで潜りこんだ蛇等が、上掛けをも捲る。膝下を潜る蛇等が、足を持ち上げ回転させる。
 こうして私は蛇に操られ、無批判のまま動き出す。

 鱗の擦れ合う不気味な音が、静寂な廊下に響き渡る。
 けれど私は恐怖を忘れ、その中へ身を投じていた。
 彼等で埋め尽くされた廊下が、瞬間だけ足型の空間を象る。
 だから私は、其処目掛けて足を伸ばし、道しるべと化す彼等と共に進み続けた。
 まるで濁流のように、うねりをあげて、彼らが観音扉をこじ開けて行く。
 そして導かれた先は、大きな鏡の置かれた禁断の間だった。

 グランドは、二度とこの鏡を使ってはならないと私へ言った。
 私はバールに、決して訪れてはならないと。このままこうして人間界で、その生涯を閉じるべきだと。
 当然私は、その理由をグランドへ問質した。何故なんだと、何度も、何度も。
 けれど返ってくる答えは同じだ。『お前は知らなくて良い』ただ、それだけ。
 その言葉も、その行動も、私を守るものだと知っている。そしてグランドだけが、一人傷つくのだとも。
 私は、それが許せない。それが耐えられない。傷つく時ほど一緒がいいんだ……

 グランドはこのことを、知っているのだろうか。
 蛇。それはエスプレッソの神だ。守護神クジョーの眷属として、使役されると伝わっている。
 それも数えることなど出来ない、無数の白蛇。
 そんな神々が、私を迎えに遣ってきた。この出来事をどう解釈したら良いのだろう。
 エスプレッソ。否、グランドの危機。そう考えたら、急に震えが止まらなくなった。

 ところが私の予想に反して、彼等は金色の布を捲り上げて行く。
 金色の布。それはバール中央に聳える、神殿への扉。
 王家の者でも、早々に足を踏み入れることが許されない、神聖なる巨殿。
 そこに何が待ち構えているのだろう。考えても私には思いつきそうにない。
 それでも行こう。誰かが私を必要としているのならば、迷わない。突き進め――

               ◆◇◆◇◆◇◆

 気づけば、重々しい岩扉の前に佇んでいた。
 あれほど蠢いていた蛇等の姿は、ただ一匹を残して見事なまでに姿を消している。
 そしてその残された一匹の蛇が、石の扉に刻まれた窪みへ、するするとその身体を滑らせた。
 すると大地を揺るがす程の振動と、豪雨の始まりのような音を立て、その扉が徐々に開いて行く。
 そこで私は俯き続けていた頭を上げ、虚勢を張りながら、神殿の中へ足を踏み入れた。

「何これ、何なのこれ……」
 記憶にある神殿。思い描いていた神殿。そんな想いは見事に裏切られた。
 何処も彼処も光り輝いていたはずの其処は、どす黒く嫌悪漂う色に染まっている。
 まるで神殿全体が、灰を被ったように燻され、心なしか空気まで重い。
 思わずその場に立ち止まり、神殿内へ隈無く目を走らせたけれど、異形な何かが襲い掛かってくるような突拍子も無いことは起きたりしなかった。
 否、異形な何かは、既に私の隣に居るのだから、これ以上を求めるのも可笑しいはずだ。

 隣を進む一匹の蛇は、窪みを潜り抜けると同時に、その実体を失った。
 けれど半透明のビニル袋のように、煮え切らない不確かさで、未だ私の傍に居る。
 ところが、神殿の中核であろう場所まで辿り着くと、ビニル蛇はビニル加減のまま、みるみるうちに大蛇と姿を変えて、私の顎を外させた。
「な、何なのあんたまで……」
 神殿の円柱程まで、太く肥えた胴体。そんな大蛇を見上げながら、バジリスクを思い出す。
 視線を合わせた者は石になってしまうと言い伝わる、蛇の王様だ。
「ま、まさか、ここまで来て、私を石にしようって言うんじゃないでしょう、ね?」

 上から口調、半分。怖さ半分。そんな言い回しで呟いたものの、当たり前だが当の蛇様は知らぬ存ぜぬで、中央の女神像を舌で指し示す。
「あの女神像が何なのよ? ん? あの水晶って、確かリアル茶バネの……」
 女神像まで走りより、疑惑の物体を間近で眺め見る。
 胸の窪みに埋め込まれている、金細工が施された雫形の水晶。
 これはベルの兄であり、我が婚約者であるアルファードの物だったはず。
 そこでまた、無意味と知りつつも、大蛇を見上げて予想を告げる。
「ということは、リアル茶バネが此処に来たってことよね?」
 すると、ちろちろと揺れ動いていた先割れ舌が、その言葉と同時に口の中へ収納された。

「あんた、そのジェスチャーは、当たりってことね」
 当初の怖さは、もう微塵も感じない。それは、半透明な姿が怖さを軽減させているのだと思う。
 否、それだけではない。確かに薄気味悪さはあったけれど、蛇等もこの大蛇も、私に危害を加えるつもりなど端から無いと解るんだ。
 それはエスプレッソの守護神が、白蛇だからかも知れない。
 そこまで考えて、漸くこの大蛇が何者なのかを悟った。
「ちょ、ちょっと待ってよ…若しかしてあんた、クジョーなの?」

 性懲りも無く、また独り言を呟いてから、慄く。
 私のこれまでの言行は、余りにも神を粗略にし過ぎではなかろうか。それは愚弄の域に達する程……
「あ、いや、クジョー様でしたの?」
 とりあえず、言い直す。今更とは思うが、言わないよりは増しだ。
 そこで恐る恐る見上げれば、鎌首を擡げた大蛇が笑った。否、笑った気がした。

 何となくではあるけれど、今、ベルの気持ちが解った気がする。
 これまで私は、見えない何かと戯れながら声を上げて笑うベルのことを、変人としか思わなかった。
 大体、霊などと言うものは、不気味なだけの存在であって、面白可笑しいはずがない。
 それなのに、今の私は大蛇の傍で安らぎを感じる。妙な楽しささえ覚えている。
 あれもこれもと、全てを話し聞かせたくて堪らないとすら思うんだ。

 守護神クジョー。強大な神通力を得た白蛇の神。
 戦いの神クレスを一途に想い続けた神の化身とも、神々の王ラノン神の怒りに触れ、化け物に姿を変えられてしまった悲劇の神とも謳われる神。
 けれど、こうした沢山の俗説があるものの、その根底は変わらない。
 クジョー神の原点は、全て予言の神である、アポロ神に繋がる。
 今の私たちに、真実を知る術はない。
 だけど私の直感が告げるんだ。この二神を同一してはならない。二神は同一ではなく対なのだと……

 直感などと言うと、エースを思い浮かべるから至極心外だ。
 それなのに、こうしてバールに舞い戻ると、否が応でも第六感が騒ぎ出す。
 そう言えば昔も、こういったことが度々あった。
 そしてそれをグランドに話すと、決まってグランドの顔が青褪め
『いいかビオラ、そのことを誰にも溢してはいけないよ』
 こう言いながら、何度も私を嗜めるんだ。
 私はそれを、グランドと二人だけの秘密と喜び、誰にも告げたことはない。
 でも若しこれが、そんな単純なものではなく、私の直感が訴えるものだとしたら、私は一体……

 悶々と考えあぐねながら、大蛇に釣られて歩み進んでいた。
 だから不意に訪れた暗闇で我に返り、さらにその先へ広がる光景を目にして足が竦んだ。
「ど、何処まで続くのよ、この階段…底が見えないじゃないの……」
 深い闇の果てまで続く階段。これはまるで地獄の入り口だ。
 ところがそこで、大蛇が私を見つめた後、自身の背中側胴体を舌で指し示す。
 若しかして、否、若しかしなくとも、これは背に乗れといった動作ではなかろうか。
「はぁ? あ、いえいえ、そんなことは恐れ多く……」

 だから丁重にてお断りを申し出たけれど、言葉の途中で、大蛇の尾が私へと伸びる。
「ちょ、ちょっと待って、い、いやぁっ!」
 そしてその太い強靭な胴で私の身体をぐると巻き、有無を言わさず一気に階段を滑り降り始めた。
「ひ、ひぃ〜っ」
 コースター。否、レールが無いのだから、急勾配を猛スピードで滑る橇が正しいかも知れない。
 しかも、階段の凹凸を拾う振動と幾重にも続く螺旋が、さらなる恐怖を煽る。
 何処までも橇滑りは終わらない。息が持たず叫び声が尽きて途切れても、息を吸うことさえ出来ないまま、ぐるぐるぐるぐるとそれは続く。

 それでも、出し抜けに、突然に、いきなりに、終わりは遣ってくる。
 平坦な地に着いた瞬間トグロを解いて、腹側の半透明な鱗を立てながら大蛇が急ブレーキを掛ければ、弥が上にも私の身体は宙を舞い、前方の壁を直撃した。
「い、痛ぁっ! イテテ、あぁもう!」
 だから、大蛇が神と言うことも物の見事に忘れ、罵り声を浴びせたところで、聞き覚えのある深い声が私の耳に届く。
「ビ、ビオラ? 何故お前が……」

 戸惑いを隠せない口調の主は、此処に居る予定のアルファードではない。
 というよりも、アルファードであってくれれば良かったのにと、心から思う。
 否、それは半分正解だ。声のする方向へ視線を投げれば、アルファードが居た。
 けれどその隣には、居て欲しくなかった人物が、眉間に皺を寄せて佇んでいる。
「グ、グランド! いや、その、えっと……ひっ」
 言い訳が思いつかず、しどろもどろで答えながら、尻餅ついた身体を持ち上げる。
 けれど突如目の前に現れた、これまた半透明な巨大獅子に驚き、数センチ浮いたはずの腰がまた床に落ちた。

 獅子から視線を確実に外し、回りそうにない頭を必死で回す。
 半透明の白い大蛇がクジョーならば、半透明の巨大獅子もまた、神の域に達する者ではないか。
 そして獅子神と言えば、ココアの守護神ルーティーだ。そうだ、それしか思いつかない。
「あんた、ルーティー! …さ、さまですの?」
 けれど獅子は私の言葉が聴こえないようで、明らかな無視にて私の匂いを嗅ぎ続けている。
 それでも次の声でその儀式は終わり、獅子は巨大な身体を優雅に翻す。
「クジョー! ビ、ビオラ?」

 矢張り大蛇はクジョーだったのだと思う反面、私の名を呼ぶ声が、疑問符なことに腹立った。
 だから苛立ち半分、疑問半分で、暢気に笑顔を振り撒く声の主へと言葉を投げる。
「なんで茶バネが、こんなとこに居るのよっ」
 けれどベルの返答は、その気質が故の相変わらずなものだった。
「お? あ、いやぁ、なんででしょう?」
 この女は、私の神経を逆撫でするのが究極に上手い。さらに、お節介を焼かせるのも上手い。
「自分のことでしょうがっ! 全く、どうしてあんたはそうやって……」

 私たちの会話を遮るように大蛇がベルの元へ滑り寄り、ベルもベルで怖がる素振りなど全く見せないまま、その胸にしかと大蛇を抱きとめた。
 そんな抱擁シーンを見て、嫉妬に似た感が私の中を走り抜ける。
 どちらに、どんなやきもちを妬いているのかなど解らない。
 それでもその苛立ちが爆発し、意思に反した言葉が口をつく。
「ちょっと茶バネ、その大蛇は、あんたが気安く触れるような霊じゃないのよ!」
 ところが何か気に障ることでもあったのか、未だ私の傍に居た獅子が、その撓る鞭のような尾で、私の顔先を弾いた。

「痛っ!」
 思わず声を荒げたけれど、叫んだ後で気がついた。
 全く痛みを感じない。つまり獅子の尾は、私の身体を摺り抜けたと言うことだ。
 可笑しい。大蛇には触れられた。現に此処まで、大蛇の背に乗って滑り下りてきたのだから。
 それなのに何故、獅子には触れることができなかったのだろう。
 確かにこの場合は、触れられなくて良かったと思うべきなのだが、そう考え始めると何かが解せない。
 そんな物思いに耽る私へ、さらに可笑しな現状を招く言葉がグランドから放たれた。

「ビオラ、お前には姿が見えているのか?」
 お前には見えている。その言葉から察するに、グランドは彼らが見えていないのだろうか。
「グランドには見えてないの?」
 だから咄嗟に聞き返せば、困ったように顔を歪めるグランドが呟いた。
「いや、クジョーだけは見えている。鱗の一枚一枚まで……」

 化け物と罵り続けたベルの能力を、手に入れてしまった自分が許せないのだろう。
 一瞬だけ素早くベルに視線を走らせ、気まずそうに目を逸らす。
 けれどそんな沈黙を破ったのは、能天気女のベルではなく、思慮深いはずのアルファードだった。
「自分が情けなくなるな。何一つ見えていないのは俺だけか……」
 言葉の通り、自身を蔑み、嫌悪に浸る音調。
 完璧さが売りのアルファードから漏れたそんな言葉に、私の何かが反応した――

 不意に生ぬるい風が吹き、獅子の毛並みが機敏に逆立つ。
 大蛇の瞳孔は是までに無いほど縦長に細まり、その瞳で私をしかと見据えた。
 来る。得体の知れない何かが来る。そう感じた瞬間、心臓がドクンと大きく唸りを上げる。

『フィンの生まれ変りよ、思い違いをしてはならない。態と見えぬのだ』

 自分の内側から響く声に、震えた。
 ぞくと悪寒が走り抜け、それと同時に口が勝手に動き出す。
「フィンの生まれ変りよ、思い違いをしてはならない。態と見えぬのだ」
 声色の変わった私の言葉に訝しむ、アルファードの顔が見える。
「ビオラ、一体何を……」
 けれど私の口は、何者かに操られたまま動くことを止めない。
「見ようと思えば見え、見えないと思えば見えぬ。それが主の秀でた能力――」

 歪んだ時計の針が脳裏に浮かび、それは不揃いな数字を伴いながら、私の中でゆっくりと、逆さまに、回転し続ける。
「あ、ああ、あ、あああ、ああ、あ」
 電池の切れ掛かった玩具の如く同じ文字を連呼し、それを発する度、瞬きをも繰り返す。
 脳が半分に割られて行く感覚。右は得たいの知れない何かに侵略され、耳も目も利かない。
 けれど左では、現実が見える。聴こえる。それだけが救いだ。

 右脳が侵略する者の記憶で埋め尽くされ、その記憶に右目から涙が零れ出た。
 右耳は幾度も幾度も同じ者の名を捉え、終に右半分の口がその名を不器用に語り出す。
「く、れ、…す……」
 獅子と大蛇を両脇に携え、ベルが鋭く息を呑む。
 アルファードが人知れず、背中に隠した武器へ手を伸ばす。
 けれどこんなとき率先して動くはずのグランドは、硬直したまま私を見つめ、そして、今にも泣き出しそうな声で、表情で、優しく囁いた――

「アポロ……」
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photo by ©戦場に猫