Entry

小十佐18禁SS「烏との再会」後編20(完)

続き

窓から薄明かりが差し込む。
俺は顔を顰め、ゆっくりと目を開けた。
頭を振り、部屋を見回す。
――まだ夜が明けたばかりのようだ。空の向こうが薄暗い。
忍は窓辺に腰掛け、割れた香炉を手に持って眺めていた。
「もう起きたのか。早いな」
声をかけると、忍が微笑んだ。
「おはよう。…なんか目が覚めちゃってね、ぼうっとしてた」
忍は香炉を傍らに置いた。
「…その香炉、」
「ああ、時々眺めるんだ。なんだか懐かしくってさ」
優しい手つきで香炉の割れ目をなぞる。
「…本当にもう元に戻らねえのか」
「うん。何度か血をかけて試したんだけどね」
「何だったんだろうな。その香炉も、あの僧侶も…」
俺が溜息まじりに呟くと、彼がこちらに顔を向けた。
「…あのさ、右目の旦那は笑うかもしれないけど…」
「…?なんだ?」
「俺さ、…この香炉を割ったの、真田の旦那なんじゃないかなって思うんだけど」
「………」
「あんた、どう思う?…まあ、馬鹿げた空想なんだろうけどさ…」
「いや、俺もそう思う」
「俺様だって、本気でそんな………え?」
俺の答えを聞くと、忍は目を丸くした。
「その見事な太刀筋、真田のものにそっくりだ」
「………」
「それに、あいつほどまっすぐな男はいねえ。成すべきことを成し、すべてを終えてからこちらに来い位のことはあいつなら言うだろうよ」
「……ほんとに、そう思う?」
「ああ」
「……そっか…」
忍が嬉しそうに微笑む。
彼は香炉を麻袋に詰めるとそれを手にぶら下げ、おもむろに立ち上がった。
「ねえ右目の旦那、俺様ちょっと外の空気を吸いに行きたいんだけど。一緒に行かない?」
「あん?…ああ、いいぜ」
俺は寝床を出て乱れた浴衣を正した。
彼と並んで部屋を出た。見ると、彼は少し足を引きずっている。
「身体がつらいのか」
「…まあ、ちょっとね」
「…すまん」
「謝るんならもうちょっと手加減してよねぇ」
忍は笑い、握り拳で俺の胸を軽く叩いた。
俺たちは宿屋の玄関から外に出た。宿屋のすぐ前には大きな川があり、そこに赤い大きな弓なりの橋がかかっている。
忍は橋の中程まで行き、欄干に手をかけた。
空が少しずつ明るくなり、その光を反射して水面が細やかに輝いている。
「綺麗だね」
「…ああ」
俺も忍の傍に立ち、二人並んでしばらく川を眺めていた。


やがて忍が手に下げていた麻袋を右手で持ち上げた。
「……ありがとね。さよなら」
そう呟くと、いきなり右腕を大きく振り被り、麻袋を川へ向かって放り投げた。
「なっ……」
麻袋は綺麗な弧を描き、どぼんと大きな音を立てて川に落ちた。
しばらくの間水面に浮かんでいたが、やがて流されながら沈んでいき、じきに見えなくなった。
「…いいのか、猿飛。…あれは、」
俺は忍の顔を見た。――その顔は、澄み渡った空のように晴れやかだった。
「うん、もういいんだ。…なんとなく捨てられなくて持ってたけど、あれを使ってできることはもう全部したから」
「…そうか」
忍は川を見たまま言葉を繋げる。
「…俺さ、やっぱり真田の旦那が好きだ。あの人は今でも俺のすべてだ。…あの人を過去にするなんて、できないよ」
「………そうか」
心臓がずきりと痛む。
しかしその痛みすらも、今となっては懐かしく慕わしかった。
「…でもね、旦那。…生きてる人間の中ではあんたがいちばん好きだ」
「…猿飛……」
「我ながら虫がいいよなって思ってる。……それでも、」
忍が身体ごとこちらに向き直った。
「好きだよ。片倉の旦那」
まっすぐに俺の目を見据える。
その目は朝日を浴び、様々な色の光を湛えている。黒や褐色、緑、その他にも言葉で形容し難い色を浮かべては消える。まるで万華鏡のようだと思った。
――不意に俺の目の奥が熱くなる。
俺は乱暴に彼を抱き寄せ、彼の頭に手を置き、顔を俺の肩口に埋めさせた。
「なんだよ旦那、急に…」
彼が抗議の声を上げる。
「いいから、…しばらくこうしてろ」
「………」
彼はすぐに大人しくなった。
――俺の目はたぶん、今少し赤くなっている。それを彼に見られたくなかった。彼を抱きしめる腕に力を籠める。
心の奥底にある、堅く鎧っていた部分が緩やかに氷解していくのを感じる。
何かが報われたような気がした。
――俺のこれまでの苦しみは、彼に捧げた心の数々は、空しいものではなかったと、そう思っていいのだろうか。
「…俺さ、ややこしいよ?」
肩口に顔を埋めたまま彼が言う。
「知ってる」
「また真田の旦那がどうとか言って、あんたを苦しめるかも」
「…かもな」
「またあんたのところを飛び出したりして、あんたの生活を引っ掻き回すかも」
「大いにあり得るな」
「そんなでも、いいの?…本当に?」
「言っただろう、…佐助」
俺は彼を抱きしめたまま、彼の頭を撫でた。
「俺はお前と共に苦しみたい。…一生を、そうやってお前と一緒に過ごしたいんだ」
「…うわあ、熱烈な告白……俺様、蕩けちゃいそう」
彼がくぐもった笑い声を立てる。
口ぶりはおどけているが、俺の背に彼の指が強く立てられた。
「……ありがと…」
そうして俺たちはずっと、遭難した者同士が互いを温めるように抱きしめ合っていた。


――彼の言う通り、これからも俺たちは様々な苦難に見舞われるだろう。
お互いを見失い、傷付け合うこともあるかもしれない。
再び共にいられなくなるようになるかもしれない。
それでも、そのたびに俺は彼を捜し求めるだろう。
地を這い、のた打ち回りながら彼と歩む未来を求める。
――そうしていずれ来る最期の時に、なんだかんだと言って彼とたくさんの時間を過ごした。そう思えればいい。
俺は熱を持った両目で、彼の髪越しに川を見る。
川は昇りゆく朝日を浴び、力強く黄金色に輝いていた。