Entry

小十佐18禁SS「烏との再会」後編12

続き

床を這う冷気がひたひたと頬を撫でる。
その冷たさに、意識が少しずつ現の方へと戻ってくる。
傍らで身じろぎする気配がし、俺は完全に目を覚ました。
ゆっくりと身を起こす。行灯の明かりが部屋に影を作っている。
――今は真夜中であるらしい。
あの後俺は彼と幾度も交わった。その後少しまどろんでしまったようだ。
俺は頭を軽く振り、眠気を追い払う。部屋の端に座る彼の姿を認める。
彼はこちらに背を向け着物を着替えている。木々の葉を模した模様の装束を身に纏い、草鞋の紐をきつく締めている。
彼が森の奥で発見された時に身に着けていたものだ。
「その服…直したのか」
「うん、少しずつね。暇だったしね」
鉢金や甲賀手裏剣は発見時に大破していため装備していないが、それ以外は自分で修繕したのだろう。
そうしていると、真田が生きていた昔に戻ったような錯覚を覚える。
「…行くのか」
彼の背に声をかける。彼は「うん」と小さく頷いた。
「脚は大丈夫なのか」
「ああ、もうほとんどいいよ。毒は大体抜けた。それにもう、たとえ脚が悪くても大丈夫なんだ」
言いながら彼は香炉を麻袋に仕舞い込んでいる。
香炉はいつの間にか、それ自身がほのかに青白い光を放つようになっている。彼の血をさらに吸ったのだろうか。
その光を見ていると、言い様のない不安が胸の奥底から湧き上がってくる。
本当にあんな得体のしれない香炉の導く通りに、彼を送り出してしまってよいものなのか。
彼が現世と異界の間に堕ちるのを、みすみす見過ごすことになりはしないのか。
俺はとんでもない過ちを犯そうとしているのではないか――
俺の不安をよそに、身支度を終えた彼が振り向いた。
「そんな顔しなさんなって。ケリがついたら戻るって約束したでしょ?忍は引き際だけは間違えないんだ。深入りしすぎて戻れなくなるようなへまなんてしないからさ」
そう言って微笑む。
本当だろうか。――本当は、彼はやはり真田の霊魂と一つになることだけを望んでいるのではないか。
何もかも信じられず、己が底無しの沼に沈んでいくような錯覚を覚える。


遠くで烏の鳴き声が木霊する。
それを聞いた忍がすっくと立ち上がる。
「…俺、もう行くよ」
その表情は研ぎ澄まされ、鋭い気迫に満ちている。
――今宵は新月、刻は丑三つ。忍が最も得意とする時刻だ。
そうして、現世と異界が最も接近する刻でもある。
彼が雨戸を開け放った。厳しい冷気が部屋の中に吹き込む。
彼が右腕をすっと横に伸ばす。
ひゅっという音と共に一陣の疾風が吹き、気づくと彼の腕に大きな烏が止まっていた。
両羽を合わせて五尺はあろうかという大烏。
「…その烏は、」
「うん。やっと戻ってきてくれたよ。――随分と時間がかかった」
烏がばさりと一つ羽ばたきする。彼が闇に包まれた空を仰ぎ見る。


――彼が行ってしまう。
俺は駆け寄り、後ろから忍を抱きしめた。
「…猿飛」
「何?」
「死ぬなよ」
「………」
「俺は本当は香炉だの反魂だの、そんなものはどうだっていいんだ。お前が前を向いて笑えるようになれば、それでいい」
「………」
「お前がやりたいと思うことを好きなだけやればいい。…それでも、絶対に生きていてくれ。それだけは約束しろ」
俺はあえて嘘をつく。
――本当は彼の好きになどさせたくなかった。手離したくなかった。
彼と共にいられるなら、奈落の底でも構わなかった。
――それでも、手を放さなければなければならないのだ。彼が羽化してくれると、今はそう信じるしかない。
「…あんたに拾われなかったら、俺、どうなってたんだろうな…」
彼に回した俺の腕の上に、忍がそっと己の手を重ねた。
「ねえ、もしも…もしも万が一なんだけど、俺が戻らなかったら、俺のことは早く忘れてくれよな。別のいい人見つけてくれよな」
「………」
「俺、あんたにだけは幸せになってほしいからさ……いたたっ」
俺は両腕でぎりぎりと彼を締め付ける。
「ふざけんなよ、てめえ」
「旦那、痛いって。マジで痛い」
「お前は絶対に戻ってくるんだろ。…だったらそんな約束は無意味だ。くだらねえ事言うんじゃねえ」
「ふふふっ」
忍が肩を震わせる。
「…俺、変わるのが怖いよ。本当は真田の旦那を過去になんかしたくない」
息を潜めるような彼の声。
「――それでも俺、行って来るから」
腕の中で彼が身を捩り、俺の方に向き直る。
爛々と緑色に輝く瞳。
彼は俺の左頬、古傷の辺りを指でなぞった。
彼の顔がゆっくりと近づく。耳元で彼が囁いた。


「ありがとう」


その瞬間、部屋の中に竜巻のような突風が吹き荒れる。
腕の中の彼の身体が掻き消える。
「佐助っ!!」
俺は彼を掴み直そうとし、しかしその腕は虚空を切る。
俺は部屋を見回す。部屋には無数の黒い羽根が舞い散っている。
――彼の姿はもうどこにもなかった。
俺は呆然と、音もなくゆっくりと舞い落ちる羽根を眺めていた。