Entry

小十佐18禁SS「烏との再会」後編07

続き

その夜はいつになく冷え込んでいた。
俺は城から戻るのが遅くなったため、忍の部屋には行かず、自分の部屋で寝る用意をしていた。
寝着に着替えた段になって喉の渇きに気づき、水を取りに部屋を出る。
凍てつく廊下をきしきしと歩み、井戸へ向かう途中、忍の部屋に灯りが点っていることに気づいた。
まだ起きているのか、と思い、声をかけようかと近付いたのだが――
部屋の中から禍々しい気配を感じた。
虚無僧と邂逅した時に感じたのと同じ、あの妖気だ。
まさかあいつが、香炉を取り戻しに現れたのか――そんな訳はないと思いながらも不安に駆られ、勢いよく部屋の襖を開けた。


「猿飛っ…」
そこには虚無僧はいなかった。
行灯の灯りの中、忍が寝具の上に膝をつき、身を起こしていた。
「……右目の旦那…」
忍の表情は行灯の逆光のためによく見えない。
彼は手に香炉を持っていた。
――いや、正確にはただ持っていたのではない。
彼は袖をまくって左腕を露わにし、そこに針のようなものを打ち込んでいた。針の先は下を向き、先端から勢いよく紅い雫が滴り落ちている。
――血だ。
彼は己の血を香炉の中に注ぎ込んでいた。
「…何を…している」
俺は掠れる声で忍に問うた。
「…旦那…これは…」
忍はいつもの余裕が微塵も見られない、うろたえた声を出す。
「――お前、自分の血を香炉に入れているのか」
「………」
忍は顔を伏せる。
「なんでそんな事をしている…」
返事はない。
なんでそんな事を――
その時、脳裏に僧の言葉が蘇る。


『これは反魂香炉。死者の魂を黄泉より連れ戻すための道具だ』


『満月から数え、次の新月が来るまで毎夜闇の眷属の血を香炉に捧げる。新月の夜、砒霜石、苺、繁縷、藤、梍、槿を粉にして練り、沈水香木に塗りつけ香炉で焚き、反魂の真言を唱える。さすればいかなる魂とて黄泉比良坂を下り、現世に蘇る。実に簡単だ』


――まさか。まさか…


「――お前、真田の魂を呼び戻したいのか」
俺がそう言うと、忍はゆっくりと顔を上げた。
「…あんな僧侶の戯言を本気にしたのか?」
「…本気で信じてるわけじゃないよ、ただ、」
忍がぎゅっと香炉を抱きしめる。
「こうしてると、なんでか酷く落ち着くんだ。――真田の旦那の気配を身近に感じるんだ」
「それは、猿飛…気のせいだ。ただの妄想だ…」
俺の喉はからからに渇いている。
「妄想なんかじゃない…確かに感じるんだ」
彼は俺と視線を合わせる。
彼の目は澄み、常軌を逸した気配はどこにもない。
だが俺は、やにわに彼に対して恐怖を感じた。
この男はあんな怪僧の言葉にすがってまで真田を追い求めている。
毎夜血を流し、怪しげな儀式に身をやつすことでしか彼の心は救われないのだ。
俺という存在は、彼にとって何の救いにもなれはしないのか――
俄かに胸の中に苦い感覚が染み渡る。
「猿飛、しっかりしろ……そんなことをしたって、何にもなりはしねえ」
「違うんだよ旦那、俺は気が触れたわけじゃない。あの坊さんの言うとおり、俺には闇の力が備わってる。だから分かるんだ――この香炉は普通の香炉じゃない」
「…普通じゃないなら、なんだってんだ…」
「それは分からない。本当に反魂の術ができるかなんて分からないけど、何か見たことがないものを見られる気がする。それを俺は見てみたくて――」
「…要は、てめえは真田に会いたいんだろ」
俺は忍を睨んだ。
「………」
忍は黙り込む。
「真田に会いたい一心で、お前は毎夜血を流してたんだろ。そんな針を使って、俺にひた隠しにして」
暗くてしかとは分からないが、彼が腕に打ち込んでいる針は中が空洞になっており、そこから血が滴っているようだった。見たこともない器具で、おそらくは忍びの道具なのだろう。
あの針で腕に小さな傷をつけ、そこから己の血を抜いていた。だから傷もないのに血が減っていっていたのだ。
――碌に動けなくなるほどの量を香炉に捧げたということなのか。
体調を崩すのは当然だった。
「――どうしてそこまで真田に固執する」
忍は答えない。
「主だからか。それとも、」
俺はいちばん問いたくなかった問いを口にする。
「それとも、――お前の、情人だったからか」
忍はゆっくりと、慈しむような手つきで香炉を撫でる。
「…そうだよ。――いや、それだけじゃない」
彼はゆっくりと立ち上がった。
「あの人は俺の主で、恋人で、弟で、子供で、…ひょっとしたら俺の親ですらあったのかもしれない」
彼の目に尋常でない光が宿っている。
「あの人は俺のすべてだったんだ。そんな人を失った俺の気持ちが、あんたに分かるか?」
「……わかる」
わかる、と思った。
俺には政宗様がいる。あのお方を失うなど、想像すらしたくない。
あってはならない事が、忍の身の上に起きたのだ――その苦しみたるや、到底筆舌に尽くせるものではないだろう。
「…いいや、わからないね」
忍は酷薄な笑みを浮かべる。
「俺には何もない。家柄や身分もない、家族もいない。比喩なんかじゃない、俺には本当に旦那しかいなかったんだ……」
彼の目の光から目を離すことができない。
「あんたには地位がある。家族もいる。なにより主が生きている。…あんたなんかに、俺の気持ちは絶対にわからない!!」
彼の咆哮。
俺は言葉を失い、立ち尽くす。
彼が、そんなふうに考えていたなどとは――
「…見てよ、この香炉。俺が血を与えるたびに綺麗になっていくんだ」
彼が香炉を胸の前に掲げた。
不思議なことに、香炉の色が僅かに変わっていた。以前の煤色から黒金色に変貌している。よく見ると以前はあったはずの細かい傷が無くなっていた。
まさか、本当に尋常のものではないのか――
「…あり得ない。目の錯覚だ」
「錯覚じゃない」
「まやかしだ…」
「まやかしじゃない!!」
忍は俺の胸倉を掴んだ。
「旦那、いつだったか魔王さんの妹が魔王を呼び出すのを見ただろ」
昔のことを言われ、俺は急速に記憶を巡らせる。遠い昔、確かにそんなことがあった。
「反魂の術ってのは確かにあるんだよ。俺にそれができるかどうかは分からないけど、試してみたい。そうして…」
――真田の旦那に会いたい。
声には出さなかった彼の本心が、俺の耳に届いた。
「…真田は、死んだんだ」
「………」
「…前を見ろ、猿飛。後ろばかり見ていても何も始まらねえ…」
忍は頭を振った。
「…俺の前には、何もない」
俺は忍の両肩を掴む。
「俺がいる。…俺じゃあ、駄目なのか」
「………」
忍は一瞬躊躇し、つぶやいた。
「…あんたは、真田の旦那じゃない」