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幸佐SS「森の中」03

続き
あれは俺が十八、弁丸様が十二の頃だ。俺の部下の忍が戦で受けた傷を化膿させてしまい、命まで危ぶまれる事態となった。
彼は優秀な忍で、特に目をかけていたので死なせたくはなかった。しかし治すには大量の薬が必要だ。備蓄している分だけでは到底足りない。薬は貴重品だ。忍一人のために、備蓄している薬を使い果たすことはできなかった。
「俺が薬師に城中の薬を全部使うよう掛け合ってくる」と意気込む弁丸様を俺は引き止めた。
「なぜ止める!!佐助!!」
「国のためにならないからです。忍は基本的に使い捨てだ、忍の方もそれを承知の上で仕えている。過剰な情けはかえって互いのためにならないんですよ」
「奴を失うのは惜しい、奴を助けることは真田のためにもなろう」
「そのために薬を全部失うなんて馬鹿げてる。昌幸様や弁丸様が負傷したとして、当分治す術がなくなるんですよ?弁丸様も人の上に立つ人間なら、もう少し冷静に物を考えてくださいよ」
「…俺にはみすみす人を見捨てることなどできぬ!!」
そう言うなり弁丸様は部屋を飛び出して行った。
俺はしばらく放っておくことにした。明らかに主の言い分の方が不合理なのだ、これは主が人の上に立つということについてあらためて考えるよい機会だ。夕餉には戻るであろう弁丸様を捕まえて、その時にまだごねるようならきつく言って聞かせればいい。
しかし事態は俺の予想を大きく上回る展開を見せた。部下の忍が山の麓でこれを見つけましたと言って弁丸様の手拭いを差し出したとき、俺の肝は一気に冷えた。
彼は山に入ったのだ。おそらくは薬草を手に入れるために。
馬鹿な。無謀すぎる。山中駆けずり回ったところで、必要な量の薬草を集められるはずがない。種類も足りない。それに今は春先、この辺りの山には気性の荒くなっている熊が出る。いくら彼が年に見合わぬ剛力といえど、気の立った熊と渡り合って無傷でいられるかどうか。彼が不慮の事故にでも遭ったら俺や俺の部下の立場はどうなる。ひいては里の立場は。
思うなり俺は地を蹴り空を駆けていた。腹立たしかった。どうして俺の主はこんなに無謀で、考えなしで、愚かなほど人に情けをかけるんだ!!


ついてきた部下たちに捜索の指示を出した後、俺自身もすぐさま山に入り、分身を四方に放った後に木の枝から枝へと飛び移り主を探した。
「弁丸様!!返事をしてください!!」
俺は甲高い声で叫んだ。どうか俺の声が届いてほしい。
限界まで目と耳に意識を集中させた。人の気配を取りこぼさないように、音を立てずに山を駆けた。
見つからない。冷たい汗が流れた。普段は暑苦しいほど存在感を主張してくるくせに、どうしてこんな時に限って気配すら感じられない。
「弁丸様!!」
叫んだ。返事はない。
「弁丸様!!」
俺は喉が潰れんばかりに叫んだ。頼むから届いてくれ。一心に祈った。
主の声が聞こえない。もうすぐ日が暮れる。
恐怖がじわじわと腑の底からせり上がってくるのを感じた。こんな感覚は実戦でも味わったことがなかった。
あってはならないことが起こってしまう。致命的なものが失われてしまう。
冷静になれと自分に命じた。左腕にに右手の爪を食い込ませ、痛みで冷静さを保ち、次の手を打つべく考えをめぐらせた。
と、その時、
「……け!佐助!!」
聞こえた。
かすかにだがはっきりと、主の幼い高い声が。
「弁丸様!!」
俺は声のした方角へ一気に跳んだ。


主は木を背にして仁王立ちになっていた。彼の目の前には熊がいた。ずいぶんと体格の大きい熊だ。殺気立っている、雌熊だろう。最悪だ。
熊が右腕を振り上げた。俺は咄嗟に間に入り込み、弁丸様の身体を抱えて跳躍した。
熊の爪が俺の右肩を掠めた。血が出たが構う暇はない。身を翻し苦無を投げた。苦無は熊の眉間に深々と刺さり、熊はその場に崩れ落ちた。弁丸様を地面に置き、熊が絶命したのを確認し、俺はまた主の元へ戻った。
「ご無事で何よりです、弁丸様」
呆然としていた主は、俺が話しかけるとはっと我に返ったようだった。
「佐助、助かった、礼を言う。ちょうどいいところに来てくれた、お前も俺と一緒に薬草を探して…」
言い終わらないうちに、俺は主の頬を叩いた。
主は何が起きたのか分からないようだった。今まで俺はずいぶんと主に対して優しく接していたし、忍が主に手を上げるなど通常ならばあり得ない。しかしもう堪えることができなかった。
「あんたの無謀な行動のおかげで、何人の人間が身を裂くような思いを味わったか、あんた分かってるのか?俺様がどんな気持ちであんたを探し回ったか」
「佐助……」
「あんたは特別な人間なんだ。あんたの代わりはどこにもいない、真田になくてはならない人間なんだ。自分の命をいたずらに危険にさらすような真似は二度とするな」
俺は主の打たれて赤くなった頬に手を当てた。
「……手を上げてしまって申し訳ありませんでした。どんな処分でも受け入れます、だからもう城に戻ろう。日が暮れちまったら危険だ」
主はうつむいて、目を潤ませ口をへの字に曲げて身体を震わせ、押し黙っていた。そうしてしばらくの沈黙の後におずおずと口を開いた。
「……俺の方こそ悪かった。お前の言う通り、俺はいつも考えが足りない」
つぶやくような声でそういうと主は顔を上げ、まっすぐに俺を見つめた。
「それでも俺は助けたかったのだ、俺に関わりのある者たちを。下々の者たちのために限界まで身を削らぬ主に、果たして人々はついて来てくれるのだろうか?なあ、佐助」
主の潤んだ力強いまなざしを見ていられず、俺は思わず目を逸らした。彼の言っていることは相変わらずめちゃくちゃなのに、何故か気圧された。
「…お前の言う通り、俺のやり方がまずかったのは分かっている。でも俺にはこうすることしかできなかった……お前にはいつも迷惑をかけてばかりだな」
「いえ……」
「これだけしか見つけることができなかった」
主は腰につけた袋を開けてみせた。そこにはささやかに痛み止めや毒消しの薬草が入っていた。
「帰ってあいつに使ってやりましょう。弁丸様がじきじきに集めてくださったと知ったら、きっと泣いて喜びますよ」
「そうだろうか……」
「さ、もう日が暮れる、急がないと。俺の背に乗って」
「しかし、お前は肩を怪我しているではないか」
「こんなのかすり傷のうちにも入りませんよ。さ、早く」
俺はためらう弁丸様を強引に背負い、山道を駆け下りた。