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小十佐18禁SS「烏との再会」前編16

続き


あれは武田と同盟を結んでいた頃のことだ。
戦で傷を負った政宗様を武田に預かってもらうことにしたため、俺たち奥州軍はしばらく上田の城に厄介になることになった。
俺は上田の地理を把握するため、方々を一人で散策していた。その時のことだ。
急に目の前に小さくも美しい庭園が開け、俺は誰かの私的な庭に迷い込んでしまったことを悟った。
見ると、満開の桜の木々の向こうに縁側が見える。真田と忍が並んで座っていた。
(ここは真田の庭か)
真田と忍が何を話しているのかが気になり、俺は耳を欹てた。
主従は静かに二言三言言葉を交わしていたが、ふと主が忍の顎に手を沿え、己の唇を忍の唇に触れさせた。
瞬きする間に終わってしまうような、軽く触れ合わせるだけの淡い口付けだった。
唇を離した真田が笑っている。忍への慈しみに満ちた笑顔だった。
対する忍は、困ったような呆れたような、それでいて穏やかな笑みを浮かべた。
よくは聞き取れないが、真田をたしなめるような事を言っている。
二人の口付けはあまりにも清々しく、また尊いものに感ぜられ、俺は見てしまったことに対する謝罪を胸の内でだけ呟いた。
どこか腑に落ちた感覚を抱えながら、そのまま気配を消して踵を返した。


涙を流し続ける彼の気を静めるように背を撫ぜながら、俺は脳裏にあの日庭園で見た満開の桜を思い描いていた。
あの時、この主従にこんな結末が待っていようとは想像だにしなかった。
今は乱世だ。いつどのような終わりが来ても不思議ではない。
しかし俺は、あの日垣間見た尊さだけは壊れぬものであってほしいと、心のどこかで願っていたらしい。


――四半刻も経った頃だろうか。
先刻まであれほどすっきりと晴れ渡っていた空に雲が立ち込め始め、ぽつりぽつりと水滴が落ち始め、やがて激しい勢いの雨へと変わった。
「雨だ…」
泣き疲れて大人しくなった忍がふと顔を上げた。彼の顔は涙でぐしゃぐしゃになっていた。
「へへ、酷い顔だろ、俺様」
手で涙を拭いながら笑う。
「結構酷い雨だね」
先程までのことには触れず、天候を気にしている。おそらくは照れくさいのを誤魔化しているのだろう。
「夕立だ。じきに止むだろう」
「そうだね」
言いながら忍は俺の腕から抜け出した。
ぽっかりと腕の中から彼の体温が去り、俺はそれを寂しいと思った。
「…旦那、なんかごめんね、色々と」
忍は気恥ずかしいのか、足元の小石を爪先で弄っている。
「気にするな。曝け出せと言ったのは俺だ」
「うん……」
それきり、口も利かずに二人で降りしきる雨を見ていた。


俺の予測に反し、雨はどんどん勢いを増していった。
祭の設備を慌てて片付ける村人たちの声が遠くで聞こえる。
「残念だね、せっかくのお祭りが…ていうか俺様たちもどうしよう」
俺様一人だったら濡れて帰っても平気なんだけど、あんたに風邪を引かせる訳にもいかないし、などと言いながら忍は眉尻を下げている。
俺は雨を見ながらしばらく考え込んでいたが、
「猿飛、ついてこい」
忍の手を取った。
「え、どこ行くの旦那」
「すぐにわかる」
俺は彼の手を引いて拝殿の階段を降り、雨の中に飛び出た。


俺たちは雨の激しく降りしきる中を走り、拝殿から少し離れたところにある軒に飛び込んだ。
忍が身体に付いた水滴を身体を振るって落とす。
「ここは?」
「この神社の社務所だ。ここで傘を借りるぞ」
戸を開けて社務所に入ると、社務の者たちが「これは、片倉様」などと言いながらがたがたと席を立つ。
「さっすが旦那、顔が広い」
と忍が脇から冷やかしを入れてくる。
俺は渋い顔をして、
「ここは片倉の家の昔馴染みなんだ」
とだけ返事した。
そうこうしているうちに宮司が奥から出てきた。
「これは片倉様、ようこそお越しくださいまして…」
丁寧に頭を下げる宮司を手で制し、「屋敷に戻りたいので、悪いが傘を貸してほしい」と手短に用件を伝えた。すると、
「それはなりません、片倉様」
と宮司が首を横に振る。
「なんでだ。明日家の者をやって必ず返す」
「そうではありません。このような凄い雨の中、傘を差したとて何の足しになりましょう。どうか我が社にお泊りください。大した持成しはできませんが、雨宿りくらいはできますゆえ」
「いや、そんな厚かましいことはさすがにできねえ」
「片倉様。お外をご覧ください。この雨の中お帰ししたとあっては、私が叱られてしまいます」
見ると、今や雨は豪雨といっていいほどの勢いになっている。さらには暗雲のために、辺りはすっかり暗くなっていた。ごろごろと音が鳴っているので、じきに雷が来るのかもしれない。
「それか、せめて駕籠を呼びますか」
「いや、急用があるわけじゃねえんだ。そこまでするほどのことでもねえ」
俺は顎に手を当てて思案を巡らせる。
屋敷までは徒歩ではかなり距離がある。彼は足が本調子ではないし、確かにこの中を無理に帰るのは得策ではないだろう。
この際、宮司の厚意に甘えるべきなのかもしれない。
その時宮司が「ただ一つ、片倉様」と話しかけてきた。
「なんだ」
「ただ今盆の行事のために、部屋の多くが物置代わりに使われておりまして、ご用意できるのが一部屋しかありません。お連れの方と同室でお休みいただくことになってしまうのですが、よろしいでしょうか」
と至極恐縮しきった表情でこちらを伺っている。
忍と同室。
思考が一瞬止まった。
思わず彼の方を見ると、彼は頭の後ろで手を組み、我関せずといった態で社務所の中をきょろきょろと眺めていたが、俺の視線に気づくと俺の方に顔を向け、「ん、何?」と言った。
「……お前、俺と同じ部屋に泊まることになっても平気か」
「え、なんで?俺様そんなの全然構わないけど。右目の旦那こそ俺なんかと同じ部屋で寝るの嫌じゃない?」
忍はきょとんとしている。
「…いや、俺は別に気にしねえ」
俺は努めて声を抑えて言った。別の嫌な予感が胸の内をじくじくとざわめかせていたが、懸命に抑え付けた。
別に、居候の男と同じ部屋で寝るだけだ。旅行や遠出などに出ればいくらでもこんな事態はあり得る。何もおかしな事はない。何も……
「片倉様、どうか私の顔を立てると思って」
と宮司も平伏せんばかりの勢いで頭を下げている。
――もうどうにでもなれ。
俺は観念して一晩泊めてもらうことにした。
宮司は飛び上がらんばかりに喜び、では準備がありますのでと言い残し、風のように走り去った。
「良かったー、やっぱこの雨の中帰るの正直やだったんだあ。ありがとね、旦那」
忍は嬉しそうに笑っている。
俺の気も知らずに気楽なもんだ、と俺は心の内で渋面を作った。


社の者が用意してくれた食事を済ませると、後はもう何もすることがなくなった。
行灯の薄明かりの中、外ではまだ雨の強い音がしている。
「なんか疲れたね…もう寝よっか、旦那」
「…そうだな」
忍は並べて敷かれた布団の片方に潜り込んだ。
俺も布団に入り、忍に背を向けて横たわった。先刻から心臓の鼓動が妙に高鳴っているのだが、懸命にそれを無視した。
一体何だというのだ、俺は。この男と同じ部屋で寝るくらいで、こんな……
「右目の旦那」
突然忍に声をかけられてどきりとした。
「…なんだ」
「本当にいつもありがとうね。感謝してる。あんたに拾われて良かったと思ってる」
「…急にどうした」
「どうにかあんたに恩返ししたいんだけど、大したこと全然できなくて、ごめんね」
忍はそれだけ言うと黙り込んだ。
「…猿飛」
声をかけるが、返事はない。
そっと顔を伺い見ると、彼はもうすうすうと静かな寝息を立てていた。
今日は本当にいろんな事があった。肉体以上に精神が疲弊していたのだろう。
先刻まで己が身を包んでいた緊張感が急速に和らぐのを感じた。
そうだ。今夜のこともこいつとの他愛無い思い出の一つになる、ただそれだけのことだ。
「…ったく、寝顔だけはあどけなくて可愛いな」
俺は忍の頭をそっと一撫でし、自分の布団に潜り込んだ。


半分覚醒した脳裏で、俺は何かの感触を覚えた。
誰かが俺の身体に触れている。
遊女のように細やかな手つきで、俺の身体を撫でている。胸を、脚を、そして下腹を。
それはまるで慈しむような柔らかい手つきで、俺は痺れるような快感を覚える。
巧みな手管で俺のものをやわやわと撫で擦る。急激な射精感が腹の底から湧き上がってくる。
これは夢か。感覚の鮮明な夢なのか。
いや違う。あまりにも鮮明すぎる、これは――
「やめろっ!!」
俺は急速に覚醒し、腕を振って身を翻した。
腕に何かが当たる感触があり、傍らにどさっと倒れこむ音がした。
ふらつく頭を振り、俺は自分の身体を見た。
着物は肌蹴られ、下帯も緩められて半裸の状態になっていた。
何者かに寝込みを襲われたのだ。俺としたことが、こんな状態になるまで目を覚ますことすらできなかった。
「…誰だ、てめえは……」
俺は傍らに蹲る者を伺い見た。
行灯の薄明かりの中、そこにいたのは、
赤い髪の忍だった。