幸佐SS「森の中」02
- 2011/07/13 05:11
- Category: 幸佐::SS「森の中」
俺たちはそのまま老人が長を務めるという忍の里へと向かった。
そこには俺のように、身寄りを失ったところを白雲斎に拾われ、忍の修行に明け暮れる子供が何人もいた。
俺は里についたその日は休養を取らせてもらえたが、次の日から厳しい修行の日々に叩き込まれることになった。
修行は俺の想像をはるかに凌駕するつらいものだった。これは助けてもらったなんてものじゃない、別の地獄に堕とされたようなものだと俺は白雲斎を呪った。でも俺にはもう戻る所がない。ここで耐え暮らすしかないのだ。
連れて来られてしばらくは、毎晩声を殺して泣いた。そんな俺を気にかけ、慰めてくれた子供がいた。それがかすがだった。
かすがは俺と同い年か少し年下くらいだったが、ここに来て長いようだった。物心ついた頃にはすでに里にいたらしい。
子供たちが雑魚寝をする寝所の片隅で歯を食いしばり嗚咽をかみ殺していると、決まってかすがはそっと傍にやってきて俺の頭を優しく撫ぜた。そうしていつも「じきに慣れる、皆そうだ。それまでは耐えろ」と俺の耳元で囁いた。
かすがの言うとおりだった。毎日の修行に耐えるうち、じきに俺は泣かなくなった。子供の順応能力は高い。ほどなくして俺はこの環境に慣れた。開き直ったというのもある。白雲斎の爺さんの言う通りなのだ、世の中になぶり殺しにされないためには生き抜く術を身につけるしかない。
俺はそこそこ素質があったらしい。めきめきと実力をつけ、瞬く間にかすがを追い越し、十になる頃には里でも有数の術の使い手になっていた。白雲斎の爺さんも俺を次代の主力として扱うようになった。そうして十四の時、俺は信濃真田家で働くことになった。
俺は真田の領地である上田城に赴き、真田の次男坊の護衛を務めることになった。なぜそんな重大な任務を外の忍に、しかも若輩者の俺に任せることになったのか疑問だったが、真田は忍使いで有名な家であり、白雲斎の名を信用してのことなのだろう。さらに不安定なところのあるという次男に年の近い家来を作って情緒を安定させるという目的もあってのことらしい。
真田といえば、あの甲斐武田の第一の家臣だ。その真田の次男が情緒不安定などと、そんなことでこの乱世を乗り切れるのか。俺はそんな所に勤めて大丈夫なんだろうかと少し不安になった。
しかし、俺はいい加減里での暮らしに飽き飽きしていた。里にいると、自分は結局白雲斎の爺さんの掌の上で踊らされているだけなのだということを否応なしに思い知らされる。もう里で悶々としているのはたくさんだった。どんな名目でもいいから外に出たかった。だからこの話にも乗ったのだ。
まあ、とりあえず行ってみて、やばくなったらケツをまくればいい。俺は当初はそんな軽い気持ちでいた。
上田城に着いて面倒な手続きや家臣たちとの顔合わせを済ませた後、いよいよ俺の主となる人間と引き合わされることになった。
事前に聞いた話では、まだ八歳の子供ということだった。護衛の任務というが、要は半分は子守ということだ。情緒不安定な金持ちのガキの世話……会う前から俺はややげんなりしていた。俺は若いとはいえ里随一の実力を持つ忍なのだ。すでに実戦経験も数多く積んでいる。その俺がガキの子守とは……
世話役の家臣に連れられ、主の部屋へと連れて行かれた。中に入ると、すでに真田当主とその次男坊が上座に座して俺たちを待っていた。
「待っていたぞ。おぬしが白雲斎秘蔵の忍か……名は」
真田当主に尋ねられ、俺は簡潔に答えた。「佐助と申します」
すると突然、当主の横に座していた次男坊がすっくと立ち上がった。そしてずかずかと俺の傍まで歩いてきた。
これには当主も俺もぎょっとした。「これ、弁丸、座らぬか」という当主の言葉をまるきり無視して、次男坊は俺の前に片膝をついた。
「おぬしなのだな、今日から某の護衛をするという忍は」
次男坊は目をきらきらと輝かせ、父親からの新しい贈り物が嬉しくて仕方が無いといった表情で俺を見た。
「え、は、はあ、まあ」不覚にもうろたえてしまい、要領を得ない返答をした俺の手を次男坊は鷲掴みにし、彼の胸の辺りに当て両手でぎゅっと握り込んだ。
子供とはいえ、いきなり初対面の忍の手を握る侍なんて聞いたことがない。あまりのことに声も出ない俺に次男坊はにっこりと笑いかけた。
「某、真田弁丸と申す。今日よりおぬしに命を預ける。よろしく頼む」
次男坊の手は火のように熱かった。俺は呑気にも、ああ、子供の体温だ、と頭の片隅で考えた。
俺の主となった弁丸様は、事前に聞いていた評判とはずいぶん違う子供だった。
情緒不安定という噂だったがとんでもない話だった。確かに外見上はひどく線が細い。顔つきも女児のようで、見た目だけなら繊細そうに見える。しかし実際にはまったく繊細ではない。むしろ豪胆というか、有り余る気力体力を持て余しているのだ。そのために主の取った行動が他人の目にはしばしば奇行として映る。寒い日に裸同然の格好で外を走り回る、勢い余って家宝を壊す、突然ふらっといなくなる等、主はひとときもじっとしているということがなかった。自分を抑えきれないことがしばしばあるという意味では不安定なのかもしれないが、俺が想像していた人物像とは大きくかけ離れていた。
主はまた、見た目に反して怪力の持ち主だった。腕力だけならすでに俺を圧倒していた。武芸に秀で、性格は単純で明るく、これと思い立ったらすぐに行動に起こさずにはいられないところがあった。初めて顔を合わせたときにすでにその性質は表れていた。
「あの時、お前が俺の家来になると思ったら嬉しくていてもたってもいられず、思わず手を握ってしまったのだ」
と後に照れながら言われた。彼は己や他人の身分をあまり気にしない性質でもあった。
それにしても、有り余る体力で一日中飛び回っている彼の面倒を見るのはなかなか骨の折れる仕事だった。暗殺や諜報より大変とは言わないが、まったく別の性質の困難さがあった。
それでも、暗殺や諜報に比べれば楽しい仕事ではあった。彼の快活さは人の心を綻ばせる。むしろ俺はこの楽しさに慣れてしまうことを恐れた。時々当主の昌幸様に命じられる忍本来の任務に向かうときはむしろほっとした。ぬるま湯に浸かって牙が錆付いてしまってはかなわない。
それと俺は、主自身について懸念していることがあった。彼は明朗で優しい。それはいいのだが、誰彼にでも優しすぎる。身分を気にしなさすぎる。彼はたやすく他人に感情移入し、人と共に笑い泣きすぎる。
主はいずれ武将として人を使わねばならない立場になる。人を使うということは、時には人を見捨てる、切り捨てる判断もしなければならないということだ。そのときに彼の優しさが仇となりはしないか。俺は内心彼の資質を心配するようになった。
それでも結局のところ俺は忍だ。真田が傾けば里から撤退の命令がかかる。気楽なものだ。
あくまでも仕事の手は抜かず、しかし他所の家事情を見物するような物見遊山気分で俺は真田での日々を過ごした。