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小十佐18禁SS「烏との再会」前編08

続き
ある夜、俺は酒と肴を持って忍の部屋を訪れた。
「いい酒が手に入った。付き合え」
「晩酌かい?俺でよけりゃ酌をするけど」
「ああ、頼む」
俺は忍が猪口に注いだ酒をぐっと呷った。
「足の調子はどうだ」
「あんまり良くないよ。いろんな毒消しを試してみてるんだけど、どうもね…」
忍は自分の左足を擦った。
「こんなに治りが遅いのは珍しい。今まで真田の旦那を支えるためにだいぶ無理をしたし、強い薬にも手を出した。だからひょっとしたら、」
そこまで言って自分の猪口に口をつけ、酒を一口含んだ。
「ひょっとしたら何だ」
俺が問いただすと、彼はごくんと酒を飲み干した。
「…身体の限界がきてるのかもなって」
忍は限界まで肉体を酷使する。長生きできる者は少ない。任務で命を落とすのはもちろんだが、術や薬を多用することで寿命自体が縮むのだ。
「寿命なんかどうだっていいけど、身体が思うように動かないのは困るなあって。まあ、術でどうとでも補うけどね」
「…過酷な生業だな」
「忍だもの。これが普通だよ」
それにしてもおいしいお酒だね、となど言いながら彼は猪口をちびちびと舐めている。
そんなに量を飲んでいないはずなのだが、彼の頬はほんのり色付いている。
実は酒に弱いのかもしれない。少し意外な心地がした。
「足以外はもうほとんどいいしね、もうじきここをお暇するよ」
「無理するな。すっかり良くなるまでは養生してろ」
「そうもいかないでしょ。こんなところでいい物食ってごろごろしてたら、駄目になっちまいそうでさ」
忍は空になった俺の猪口にまた酒を注ぐ。
「猿飛」
「何?」
「ここを出た後、真田の仇討ちになんか行くなよ」
「は?」
「徳川に手を出すなと言っている。仇討ちなんざ時間の無駄でしかねえ。絶対にするな」
忍はぽかんと口を開けていたが、やがてくっくっと笑い出した。
「何それ?俺様里に戻るって言ってるだろ?信じてないの?」
「お前ならやりかねねえと思ってな」
「なんだそりゃ…忍が仇討ちなんかするわけないだろ?武人ならともかく、忍と主の間には契約しかないんだよ?そんな筋違いなことする道理がねえよ」
変なこと言う御人だねえ、と忍はまだ笑っている。
「…お前と真田の間には、主君と忍の関係を超えた絆があっただろうが」
「確かに真田の旦那は俺によくしてくれたし、俺も旦那が好きだったよ。でもそれはあくまでも仕事の上だけでのことさ。それ以上の絆なんてないよ」
嘘だ。こいつと真田の関係はそんな生半なものではなかった。
武田信玄が病魔に冒されて後、衰退の一途をたどった真田家。人材も大量に流出していた。
雇われの身でありながらその真田家に残り、己の肉体の限界を超えてまで主を支え続けた。
仕事の上だけでの関係ならば、そんな理に適わないことをする道理がないではないか。
「…そういや、真田の旦那も同じことを言ってたよ」
ぽつりと忍がつぶやく。
「真田が?」
「うん、『俺の仇を討とうなどとは思うな』って言ってた」
「いつだ?徳川にやられた後か?」
「そう。『俺亡き後は自由に生きよ。ただ永らえ、俺の見ることのできなかった世の行く末を見届けてくれ』って言ってさ、それっきりだったよ」
「そうか…」
「最期なのにさ、忍に向かって自由になれだとか、長生きしろだとか、…ほんと最後まであの御人は忍使いがなってなくってさ…」
「真田は器の大きい男だな」
「え?」
「武人や忍といったしがらみを超えて、ただお前という一人の人間のことを見つめていた。そうでなけりゃそんな事言えやしねえ」
俺がそう言うと忍は顔を伏せた。
「いざという時に既成の枠に囚われないという意味では、真田は俺や政宗様を凌駕するものがあった。その点については、俺はいつも感心していた」
「…いいや」
俯いたまま忍びが俺の言葉を遮る。
「…そんなんじゃないよ。あの人はただ単純なだけなのさ。自分の思ったことを言い、やりたいことをやる、有体に言えば子供なだけで」
首を垂れてじっとしている。その表情は陰になって伺い知ることができない。
俺はふと、忍が今どんな顔をしているのか見たくなった。
彼の顎を掴み、ぐいと顔を上げさせる。
「なっ…」
忍が声を上げる。
俺は驚きに目を見開いた。
忍は眉根をきつく寄せ、仄かに色付いていた頬はさらに鮮やかに紅潮している。
目には涙が浮かんでいた。
「…離してよ」
忍は顎を掴む俺の手を右腕で払い、顔を背けた。
強い事を言ったつもりはなかったが、俺の言葉の何かが彼の心を刺激してしまったらしい。
「…すまない。踏み込んだ事を言った」
詫びを入れたが返事はなかった。
少しの間の後、忍はくるりと振り向いた。その顔はもういつもの人を食った顔つきに戻っている。しかし目尻にはやはり赤みが残っていた。
「ごめんごめん。最近ちょっと涙もろくってさ。気を使わせちゃってごめんね」
「……」
「場がしらけちゃったね、仕切り直そうか。旦那、お酒どうぞ」
忍が徳利を差し向けてきたが、俺は応えなかった。
「…どうしてそうやって自分の心根を隠そうとするんだ、てめえは」
「え」
「なぜ悲しいのに悲しいと言わねえ。辛いのに辛いと言わねえ。そんなことしてたらお前は追い詰められるばかりじゃねえか…もっと己の心を表に出しやがれ」
「……」
忍は徳利を床に置いた。
「…俺様忍なのに、そんなことできるわけないでしょ。…無茶言わないでよ」
伏せられた彼の長い睫が小刻みに震えている。
生業のせいなのか生来の性格によるものなのか、こいつの心の殻は酷く強固だ。
ただ、真田のことになった時だけ隙を覗かせる。
そんなにも真田が大事なのに、その事実すら隠そうとする。
「…てめえは里に戻るというが、新しい勤め先を宛がわれたとして、いまさら真田以外の主に仕えられるのかよ」
俺が聞くと、忍は首を振って、
「できるさ。俺様は忍だぜ?金さえ貰えば何だってできるんだ」
項垂れたその有様とは真逆のことを嘯く。
政宗様の言う通りだった。こいつの言う事はほとんどが嘘なのだ。
「…猿飛」
俺がなおも言い募ろうとすると、忍はそれを遮り、
「悪いけど今日はもう一人にしてくんないかな?これ以上あんたの相手をしてると、どうにも…ヘマをやらかしちゃいそうでさ」
「……」
「…頼むから」
「…わかった」
俺は膝をついて立ち上がった。
「出すぎた真似をして悪かったな。でもこうなったのも何かの縁だ、困った事や案ずる事があれば気兼ねせずに言ってくれ」
「…ありがと。でも俺様は大丈夫だから」
忍は俯いたままつぶやいた。
俺は部屋を出てずかずかと廊下を歩いた。
途中ですれ違った使用人がぎょっとした態で脇へ体を避けた。きっと俺は今とても恐い顔をしているのだろう。
何が金さえ貰えば何でもできるだ。真田の話をするとき、自分がどんな顔をしているかわかっているのか。
あんな兄が弟を案じるような、母が子を慈しむような、己が情人を想うような――
身も心もぼろぼろのくせ、必死に取り繕って己の本心を明かそうとしない忍が何故だか酷く腹立たしかった。
去り際に肩越しに見た彼の項垂れた背が、ずっと脳裏から離れなかった。