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 皇帝の休日






「明日は皇帝になって以来初めての休みだから、昼にパーティを開く。お前も出席しなさい」
 ある日の診察の時、ボロウェは皇帝カナーにそう告げられた。
 すでに彼の即位後二年が過ぎている。
(せっかくの休みになぜパーティなど催すのだろう、この人は)
 ボロウェは心中で呆れながら、「畏まりました」と返答した。

 皇帝に時間の余裕ができたのは平穏無事な証拠だ。ただし、精力的なカナーには単調すぎる仕事が続いていたのだろう。
(戦を起こすよりはいいが)
 カナーの思想は、やはり力の論理でできている。「余裕があるから軍を動かす」と言いかねない男だ。
 だが軍を預かっているアネスに対しては、
 今はまだ、雌伏の時。
 と話しているそうだ。雄飛のときにはどれだけ大きい戦をするつもりだろう。カナーの代になってから、トネロワスン帝国の国力はさらに増している。


 廊下で、部下に指示を出しつつ、早足で他へ向かうアネスを見かけた。相変わらず多忙のようだ。
 アネスは剣を振るえば向かうところ敵なしだが、諸方から大量に持ってこられる書類の扱いは苦手らしい。この職にあって長いので今では滞りなく片せるが、カナーほどの手際の良さは望めない。
(昨日熱があったが大丈夫かな)
 廊下の隅からボロウェはそっと眺めた。
「ボロウェ」
 だが宮廷には他にいない背の低さのボロウェは目立ってしまい、すぐに見つかった。
 アネスは近寄ってくると、ボロウェの腰を引きよせてギュッときつく抱き締める。
 そしてすぐに離した。
「元気出たよ。ありがとう」
 急な抱擁。それに加えて至近距離でそう微笑まれて、ボロウェは腰が抜けそうになった。
「大丈夫か」
「……ああ」
 そうは言ったが、足が覚束ない。アネスがボロウェの肩を支えて心配そうに見る。
「本当に大丈夫だ。忙しいのだろう。早く行ったらどうだ」
「ああ……。じゃ、家でな」
 去り際アネスは、壁に背を預けているボロウェの耳に口を寄せて、いたわる様な声をかけた。そうしてマントを翻して、宮廷の廊下を颯爽と行ってしまった。
 元気出たよ、と言ってもらえたことが嬉しい。ボロウェの体も、ポカポカしてきた。軽い足取りで次の診療に向かう。
 疲れているようだが、あれだけ力強く自分を抱きしめられれば大丈夫だろう。そう考えて、体に残るアネスの感覚を思い出して、ボロウェは真っ赤になってしまった。



 家に帰って、夕食をすます。アネスはボロウェよりも少し遅くなって、別々になった。だがボロウェはアネスの配膳をして、食べる姿を正面に座って眺めているので、別々とは言わないかもしれない。
 アネスがスープの皿をとった時、ボロウェは少し緊張した。アネスはすぐに彼の必死な視線に気づく。スープをすすって、
「おいしいな、これ」
 というと、ボロウェはぱっと嬉しそうな顔をした。
「あの、ミシェアさんに教わって、それだけ私が作ってみたんだ」
(やっぱり)
 分かりやすい。もう一口スプーンにとった。
(スープの味付けは難しいだろうに、俺の好みの味だ)
 ボロウェの料理の腕がアネスの舌に近づいたのか、その逆かはしらないが。そのうちボロウェの料理がアネスの基準になってしまうかもしれない。


 風呂上がり、アネスは濡れたボロウェの髪をタオルで拭いてやった。
 アネスはボロウェの髪に触るのが好きだ。そしてたまに頬をいじる。きっとアネスから見て自分は間抜けな顔をしているんだろうな、と思いながら、アネスと近い距離にいるだけで、ボロウェは心が弾む。
 ボロウェの体で、アネスが触ったことのない場所は一つもない。
 たまにアネスに触れてもらった感覚を思い出して、それだけで幸せな気分になってしまうことがある。頬を撫でられている時を思い出したときは、頬が緩むぐらいですむが、言えないようなところを弄られている感覚を思い出したときは……。
 アネスといるときに思い出したときは、つい期待するような目でアネスを見てしまう。きっと物欲しげな情けない顔をしているんだろうな、と思うが、アネスはいつもそれに気づいて、優しく体中を撫でてきてくれる。欲しかった場所を撫でられた時、
「ん……」
 と小さくボロウェは声を出す。か細い、けれど甘えがかすかに含まれた声。アネスはそれに気づくと、その場所をゆっくり触れて、愛してくれる。

 今、アネスが撫でてくれているのは、少しボロウェの柔らかい髪がかかった、首筋だった。やさしい手にぐっと力がこもり、引き寄せられ、アネスの唇が触れる。熱い吐息と唇にくすぐられて、ボロウェは全身がぞくぞくした。
 ソファから浮かせてしまった尻に、アネスの手が添えられて、そのまま持ち上げられるような感覚があって、ボロウェはソファに横にされてしまった。その上にアネスがのしかかる。
「あ、……っ」
 アネスはまだ首を攻めてくる。ボロウェは恥ずかしくて手で避けたくても、手はアネスに掴まれていて動けない。服の襟がゆるく開かされ、鎖骨から上、彼の前に晒してしまっている。恥ずかしくてしょうがないのだが、「だめだ」と言う気には絶対にならない。
「……っ、は……」
 胸がいっぱいで苦しそうな声だけが出て、むしろ隠せない喜びが響く。「嫌だ」と言ってやめられてしまうのは、怖さと寂しさがあるが、「嬉しい」と言ってしまったその先には、恐さと甘さがある。前者に比べ、嬉しさを隠そうとする意思は、少し、弱い。
 首筋に口付けの跡。前の跡が消えそうなのに気付いて、もう一度濃いのをつけておいた。ボロウェは服を襟までしっかり留めるので、ここでも他の者に見られる心配はそれほどない。
 アネスは自分の跡を残したボロウェを見て、微笑んだ。それに反応してボロウェは息を飲む。アネスはボロウェが自分の笑顔にとても弱いことに、もう気づいている。そんな反応が、たまらなく愛しい。
「ボロウェ、俺のこと愛しているか」
 畳みかけるようにそう質問すると、ボロウェは目に見えて動揺する。それから、真っ赤な顔を背けて、
「好きだ……」
 と言う。かすれた声。それが出てくる唇に口づけをする。軽くついばんだだけなのに、もうその目は昂ぶって潤んでいる。その目をまっすぐ見ながら、
「ボロウェ、愛している」
 とアネスは言った。恋人なら当然の、ちょっとした愛の言葉。なのにどうしてか、
(いじめているみたいだ)
 ボロウェは感情の昂ぶりによって、そろそろ本気で泣きそうだ。それをこらえる顔が子供っぽい。アネスは笑いそうになりながら、落ち着かせるように髪を撫でた。

ようやく落ち着いたころ、
「もっと甘えてくれ」
 と言った。
 人間の中でたった一人生きていくのに仕方ないが、肩の力を張り過ぎだ。同郷のクントはできたやつなので、彼が都に住んで、ときたま会うことになれば少しは息をつけるかと思ったが、何歳も年下の彼にはいまいち弱音を吐けないようだ。
(せめて俺が甘やかしてやりたい)
 それに、ボロウェの甘えた顔は可愛い。たまに見せてくれる、全身でアネスに頼っているような様子が、アネスに全てを差し出しているようで、満たされる。



 カナーご自慢の新庭園で、パーティは行われた。
 アネスは挨拶しなければいけない数人に話しかけて、すぐに退席するつもりだった。そのためボロウェの側にいない。
 黄色い薔薇のゲートの下にクントがいた。友人のライトエルフの女性と話している。彼女はボロウェと同じ宮廷医師のエキアリスだ。
「知り合いだそうだな」
 エキアリスが宮廷医師になる前、都に一人金もなくて、露店の優しいおばさんに拾ってもらい働いていた頃、出会ったらしい。
「はい。このパーティにも、エキアリスさんが『軍医者で優秀な者がいる』と陛下に紹介してくれたので来られたんですよ。『優秀』ですって! ボロウェさんはしょっちゅう陛下と会っているくせに一言も話してくれてなかったみたいですが」
 エキアリスに笑顔を向けた後、ボロウェに恨みっぽい視線をよこした。
「皇帝がたかが軍医者の、しかも異形の民のことを知りたがるとは思わないだろう」
 ボロウェは冷静に言い捨てる。
「はい。私もそう思っていました。けど、異形の民のことを知りたいとお声をかけていただいて。緊張ですごくドキドキしてしまったのですが、陛下はとても話しやすい方で……」
 エキアリスは嬉しそうに顔を赤らめた。美形揃いのライトエルフから見ても、カナーは魅力的らしい。


 ある兵士の一声で、華やかな宴の空気は変わった。
「陛下! 申し上げます」
 他国がトネロワスン帝国の属国デトイに攻めてきたという知らせが届く。
「行くぞ! 軍を編成する」
 赤いマントを翻して、カナーは宴の中心から、出口に向かう。華やかな宴には緊張が走った。
 だが、彼が出口でくるりと振り向き、
「将以外の諸君は、どうぞゆっくり宴を楽しんでくれ」
 余裕気の笑みとともに、優雅に会釈をすると、宴には安堵の溜息がもれ、また楽しげな会話であふれた。
 皇帝の影響力をまざまざと見せつけられて、クントは感心する。だが隣のボロウェは、
「何故あんな楽しそうな顔で戦争をできるのだろう」
 俯いて、暗い顔をしていた。カナーのああいったところは未だに慣れない。クントも戦争と聞いて、帝国に蹂躙された故郷を思い出さないではないが、
(恨んでいるけど、恨みじゃ飯は喰えないからなー)
 強力な力が国の安定をもたらすのを、評価はしていた。そしてその皇帝は異形の民を虐げていない。とりあえずはそれでいいではないか。

「クント、何をしている。お前も軍の者だ。基地で待機していろ」
「あ、そっか」
 アネスが、カナーの後を追い会場を出ようとしているところで、クントを見かけ声をかけた。
「ボロウェ、行ってくる」
 というよりボロウェを見つけて、ついでにクントに声をかけにきたみたいだ。この後すぐに行軍がなされるであろうし、デトイまでなら往復十日はかかる。その間会えないのだ。
「気をつけて……」
 ボロウェはアネスの顔を見ることができなかった。暗い感情が、ぐらぐらと胸を焼く。
 その時、ボロウェの頬に柔らかい感触があった。少し周りがざわつく。ふっと顔をあげると、すぐ近くにあったアネスの目と視線がぶつかった。ボロウェが顔を上げたので、アネスはその頬を両の手で掴んだ。そしてアネスは目を閉じて、口付けをする。
 最初の頬への口付けで、アネス将軍と、その正面にいる小柄な異形に注目していた周りは、驚いた。綺麗に着飾った貴族の女性何人かが、複雑そうに顔を伏せる。
 すぐ近くで見ていた、クントはいたたまらなくて視線をあさっての方へやる。エキアリスはぽかんと口を開けて二人を見ていた。
「必ず帰ってくるよ」
 すぐに口を離したアネスは、ボロウェの髪を一撫ですると、何事もなかったかのように会場を後にした。ボロウェはしばらく茫然としていたが、周りが自分のことを噂しているのに気づくと、
「か、帰らせてもらう」
 真っ赤になって会場を逃げ去った。
(あの元気な走りっぷりなら問題ないな)
 暗澹としていたボロウェに対する、アネスなりの励まし方だったのだろう。時間がないので“かなり”強引な方法になってしまったが。

「あのー」
 ぐったりとしたクントに、エキアリスが話しかけてきた。
「有角人って両性類なんですか?」
「へんな生物の分類作らないでください。両生類と雌雄同体という言葉はありますが。違いますよ。ボロウェさんはれっきとした男です」
(この人は……本当に自分より医師試験の成績が上だったのだろうか)
 エキアリスは額を指で押さえこんで、何やら考え込んでいる。そしてポンと手を叩いた。
「なるほど! 有角って結構“りべらる”なんですね。ライトエルフの男性達は、人間達に男女問わず綺麗だといわれますが、ものすごい拒絶をしますよ」
「……俺が知っているそういうのは、ボロウェさんだけです」
 ぼんやりした性格のエキアリスと話していると、クントは気が抜けてしまう。


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 トネロワスン帝国の旗が、緑の大地を埋め尽くす。
 デトイに踏み入った帝国兵、数十二万。デトイの守備兵の五倍の兵数を用意してきた敵国の、さらに倍の数だ。

 この世にトネロワスン皇帝カナーを脅かすことができる力などあるのだろうか。
 人間には手に入らないかもしれない。
 だが、そんな力を当たり前のように持っているものが、魔族にはうじゃうじゃいる。
「今はまだ、雌伏の時」
 今は、この休日がわりの人間同士の戦を楽しんでいよう。

 眼下に蠢く、デトイを攻める軍団を見据えて、カナーは采を振るった。

〈終〉


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