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 月夜 3






「殿が、来ていらっしゃるのですか」
 半刻後、帰ってきた彦十郎は従僕に客のことを知らされる。
「はい。ですが彦十郎様はご挨拶には及ばないと」
 ちくりと胸が痛んだ。
「そうですか……。おもてなしの料理などで、何か手伝うことはありませんか。貴方一人では大変でしょう」
 康一郎の屋敷では今、風邪が流行り、休みの者や早く帰してしまった者ばかりで、今は彼一人しかいない。
「有り難うございます。肝心の酒が足りなくなってしまって。私、ひとっ走り分けてもらいに参りますので、旦那様達から呼ばれたら、そこにある料理と酒を座敷にお出ししてくれませんか」
「いえ、私が酒を分けてもらってきましょう。貴方はここにいてください」
 崇信は多分自分の顔など見たくもないのだろう、と思い、そう言った。
「そんな、彦十郎様、勿体のうございます。仕事の後でお疲れでは」
「ちょっとそこまででしょう。ほら、空瓶を貸して下さい。行ってきます」
 小走りに外へ行ってしまった。

 しばらくあと、調理場に立っている彦十郎に、康一郎が話しかけてきた。
「殿は?」
「酔ってしまっているよ。送っていくから、お前も刀を差してついてこい」
 康一郎は護衛は一人より二人がいい、と思って言ったことだが、彦十郎は辛そうな顔をした。康一郎はその様子を訝しそうに見る。
「お前、殿の不興を買うようなことをしたのか?」
―。あの、殿が何かおっしゃって……」
 彦十郎は怯えた。
「いや、詳しいことは聞いていないが、お前にあまり会いたくない素振りだった」
「叔父上……、申し訳ありません……」
「何があった」
 彦十郎は息をつめて、黙った。
 康一郎は一族の、それも自分の面倒を見てくれている人だが、主の閨事に関わることを話してもいいものだろうか。能戸にはすぐにばれてしまったので話したが。
 それに、彦十郎個人にとっても、自分の醜態に死にたいほどの恥ずかしさを覚え、崇信に嫌われたことに切り裂かれるような痛みを覚えるのだ。
 彦十郎の暗い顔を見て、康一郎は、
「まあいい。したことには反省しているのだろう」
 と言い、彦十郎は「はい」と答えた。
「殿は言葉などで謝って許すような方ではないが、一応機会があったら謝罪の言葉は伝えておけ。あとは、仕事で挽回するしかあるまい」
 康一郎は気落ちした彦十郎の肩を叩く。
「大丈夫だ。お前ならきっと気に入られることができる」
 そう言った康一郎の目は真っ直ぐだった。元気づけてくれる叔父の言葉に、彦十郎の胸は熱くなる。
「はい……。必ず……!」
(そうだ。側にいる方法は一つではない。殿と一つの、この土地と民のために仕事ができるなら……!)
 ずっと暗い色だった彦十郎の瞳に、小さな火が点った気がした。康一郎は静かに笑うと、座敷で未だ杯を傾ける崇信を迎えに行った。


 崇信はしばらく放っておいただけなのに、眠ってしまっていた。それを康一郎が引きずって外に連れ出す。
「冷えますね」
 彦十郎は、眠ってしまっている崇信に少し安心して、その肩に自分の羽織を掛けた。目を閉じた彼の端正な顔を、頬を赤くして盗み見る。
(こんな近くでまた、お顔を拝見できるなんて)
 寝入っているところを見せるほど、康一郎が信頼されているということだ。彼に感謝しつつ、羨ましいと思った。
「本当に寒いな。ちょっと待ってろ。俺も羽織を取ってくる」
 康一郎は崇信を支えていたのを、彦十郎に任せる。とん、と崇信の頭が彦十郎の肩に乗せられた。
「え、そんな……っ」
 康一郎について従僕も行ってしまい、玄関の外に崇信と二人残される。
 寄りかかってくる崇信がずり落ちそうになるのを、彦十郎は慌てて両手で支える。抱きしめるような形になってしまい、眠っている者を相手に彦十郎は真っ赤になった。
(温か…い……)
 恋しい人の体温が、じんわりと伝わってくる。
「殿……」
 小さく呟くと、崇信が身じろぎした。彦十郎は緊張に身を強張らす。
「その声……、お月か……」
「え」
 半分寝ているのか目を開けない崇信の口から、知らない人の名が呼ばれた。
 そのとたん、崇信の手は彦十郎の両頬を挟み、ぐいっと引っ張る。
「!」
 ぶつかるように唇と唇が合わせられた。突然のことに放心してしまった彦十郎だが、崇信が深く口を交わらせようとした感触に、体中が火を噴いたように熱くなった。
「と! の……ん……」
 やんわりと引き離そうとするが、崇信が彦十郎を抱きしめる力の方が断然強い。相手は酔っ払っているとはいえ、彦十郎の方は主君に逆らうわけにはいかないし、一度は望んで抱かれた人にこんなことをされて、腰砕けになりそうなのだ。だが、
「お月、可愛いな」
 と崇信が薄っすら目を開けてうっとりと告げた言葉に、彦十郎は背筋が凍った。
(誰……)
 戸惑う彦十郎に構わず、崇信は彦十郎の腰に添えていた手を下にやって、袴越しに尻を掴んだ。
「あ! う……う」
 崇信の唇は、乱れ始めた彦十郎の襟の中にふれていく。あの夜の快感を思い出して、彦十郎は膝の力が抜けてしまった。崇信に押し倒されるように、砂利と庭草の中に沈んだ。
「お月、やっと会えた……。もう逃がさん」
「違います! 殿!」
 彦十郎は感情的な高い声を上げた。愛しい人の腕の中なのに、違う人の名を呼ばれて、突き刺されるような心の痛みに耐えきれない。
「ご容赦を……、殿……!」
 泣きそうな声で懇願するが、帯に手をかけられる。酔いのせいで上手く解けず、強引にひったくるように取った。
「あ、お待ちを……!」
 袴がずり下げられた。膝を立てて脱げないようにするが、股間を見せるような格好になってしまった。
「どうした―。って何してやがる!」
 戸を勢いよく開けて、康一郎が出てきた。
「叔父上!?」
 崇信の肩を掴んだかと思うと、投げ飛ばした。垣根に当たって崇信は倒れた。
 起き上がらない。心配そうに彦十郎が近付くと、眠っていた。
「い、いいのですか。主を投げるような真似……」
「酔いつぶれているし、明日には覚えていないだろう」
 康一郎は、彦十郎の着物の前を合わせ直した後、崇信を米俵か何かのようにひょいと担いだ。
「このようなことをする方とは思わなかったんだがな……。お前は家で待っていろ。それと一応、今後できるだけ殿には近づかないようにしておけ」
「はい」
 彦十郎は震えた声で答えた。康一郎は従僕に、彦十郎についていてやるよう指示し、崇信と共に行ってしまった。

 康一郎は崇信を抱えて、城への階段を上がる。警戒に当たっている者たちが驚いた顔をしてこちらを見る。
「おや、能戸さん。まだいらっしゃったか」
「殿が小者に一言『酒を飲んでくる』と伝えただけでいなくなってしまっては、帰りたくても帰れませんよ」
 苦りきった顔で能戸は答える。
 ちょうどその時崇信が目を覚ました。
「能戸、良いことがあったぞ」
「はいはい、それは良かったですね」
 康一郎は崇信が酔うところは初めて見て、実は戸惑っていたのだが、能戸は軽くあしらっていた。
「お月の唇を吸ったんだ。前と同じく、柔らかくて、控え目でなー」
「お月? 誰です」
「さあ、本当の名前は知らん。月夜に会ったから適当につけた」
「え、彼か。会えたのですか」
 崇信はそこまで言って、がくりと首を落とした。そして寝息が聞こえてくる。しかたなく能戸は康一郎に何か知らないか聞いてみた。
「よく分からんが、うちの軒先で彦十郎を押し倒していましたな」
「なっ、また懲りずに彦十郎殿に迷惑を掛けたのですか」
 崇信に向かって声を荒げたが、もう寝入ってしまって起きることはなかった。康一郎は能戸の言葉が引っ掛かった。
「彦十郎と殿は何かあったのですか」
 その質問に能戸はぎくっとする。一枝家の大事な若者を崇信がぞんざいに扱ったのだ。
「それは、その、言いにくいことでして」
 曖昧に答えると、
「では彦十郎に直接訊きましょう。私も一枝家を預かる者として、主家との不和の原因になるものは知っておかなければならない」
 と康一郎が言うので焦った。それは彦十郎の心の傷をえぐることになりかねない。
「いえ、いえ、言います。殿は今、想い人がいるのだが、それに関わらず彦十郎殿と閨を共にしたんです。最近の彦十郎殿の様子がおかしいのも、そのせいのようです」
 康一郎は呆れたような顔をした。何があったかと思えば、色恋の騒ぎだったのか。
「殿にはもう二度と彦十郎殿に近づかないよう言っておくので、気を悪くしないでくだされ……」
「とんでもない。男のくせに不満を持つ彦十郎の方が悪い。武士である以上、主君の命に従う誇りを持つべきだ」
「彼はまだ若い。貴方のような十全な武士の心を求めるのは……」
「大丈夫。あれも一枝の男です。能戸さんは気になさるな。時間がかかろうと、彦十郎が自身で納得するに任せましょう」
 康一郎の力強い言葉に、能戸の顔にほんの少し微笑みが漏れた。



 季節の変わり目、春の終わりに暴風雨が訪れる。
 嵐の中、侍達は領内の橋や堰、民の被害の様子を交替で見て回った。若くて体力があり、一枝家で鍛えられただけあって馬術に長けた彦十郎は、特に遠い場所までの警戒を引き受ける。
「少し休んでいけ」
 穏やかな顔した老年の上役が、びしょ濡れになった合羽を交換している彦十郎を労わる。
「はい、では、あと大山の方だけ見て戻ります」
 そう言ってまた馬に乗って駆けて行った。
(少しでも役に立たねば)
 激しい風の中巧みに馬を操る。
 千津のもとへまた見舞いに行った崇信は、突然の嵐を受けて、対応のために急遽城に戻ってきているはずだ。戻ってきた時に彼が忙殺されないよう、今できることをやっておきたい。

 いくつかの土砂崩れが起こっていたが、幸い、人のいない場所で、危急の対応をしなければならないわけではない。嵐が止んだ後で十分だろう。
 大山は小高い丘がいくつか集まった土地で、どこも緩やかに起伏している。丘を切り開いた道では、両側の斜面から水が道に集まり、足元を泥水が川のように激しい勢いで流れている。危うそうで彦十郎は何度も馬を降りた。
(側溝が必要だろうか)
 雨天時に戦でもあったときに、主要の道は使えないと困る。
「!?」
 足が何かに引っ掛かり、前に倒れてしまった。驚いた馬に踏まれそうになって、慌てて避けた。馬は雨水を撥ねて走り去ってしまう。彦十郎の方は、手をついた右肘までと、腰から下が泥水を被った。
「なんだ」
 ズキズキする足を気にしながら、泥水の流れの中を手探りに調べてみると、太い木の根っこが飛び出していた。おそらく大雨の度に土が削れてしまったのだろう。
 走っていってしまった馬を追いかけるため、立ち上がろうとするが、引っかけた右足首に激痛が走る。
「くっ……。捻ってしまったか?」
 どうやらそのようだ。
(困ったな。こんな足では、嵐の中、一番近くの人家にも行けるかどうか)
 とりあえず、足を引きずりながら大きい道へと向かう。
 やはり思うように歩けない。雨が、急にとても冷たく感じた。
(同僚の方々に迷惑をかけてしまう)
 行き先は伝えてあるため、大山を見回って戻ってくる時間の大体の予測はつくはずだ。彦十郎の帰りが妙に遅いとなると、心配させてしまうだろう。
「情け、ない……」



 崇信は、千津の夫に任せてある城から、真っ直ぐ主城に向かっていた。風雨で視界が悪く、出歩くのは危険だが、いざという時、領内各地との交通が整っている城にいた方がいい。

 先刻まで、婿と大喧嘩を繰り広げていた。千津が懐妊したとようやく知ったからだ。千津が同席しているときは、彼女の体調を思い、二人とも大人しくしているが、その分彼女がいないと、とことん罵り合う。ついに婿は、あろうことか主君に、
「若いくせして妹しかない枯れ爺ぃが!! 妻でも側女でも色小姓でもさっさとおいて、二度と俺と千津の甘い仲を邪魔しに来るな!」
 と言ってしまう。崇信もまた、
「俺だって相手の一人ぐらいいるわ! ……一か月も会えてないが。それより今"千津"と呼んだな! いままで俺の前で"千津様"と呼んでいたのは嘘か!」
「呼んで悪いか! 千津は俺の妻だ。俺のものだ。一か月も会わないようなお前とお前の情人と違って、俺と千津は毎日想いを確かめ合っているんだよ!」
 掴みあい殴り合いが始まろうとした時、―がたんと木窓が揺れた。風が妙に強くなっている。
 そう気づいたとたん、二人とも、国の要を預かる侍の顔に戻り、崇信は一つ二つ指示を出して、婿は神妙にそれを聞き入れた。面倒な挨拶はせず、すぐに崇信は城を出た。

―……?」
供揃いの後ろの方で、叫び声のようなものが聞こえた気がした。強く地を打つ雨の音に消されて、よく聞こえない。視界も悪い。
「ぎゃあ……!」
「!?」
 今度はしっかりと聞こえた。護衛の者は一斉に身構える。
(襲撃……。何者だ……)
「うぐっ」
 隣に馬を並べる家臣に、矢が当たる。
「水野!」
「……大丈夫です。この風雨の中では大した威力は出ません。それより、おそらく今のは殿を狙ってはずしたものでしょう。気を付けてください」
 家臣のふくらはぎに刺さったかと思った矢は浅く、自然に抜けて地に落ちた。
 襲撃者たちが押してきて、囲まれつつあることに気づく。



 彦十郎は木々が頭上を覆う道を歩いていた。もうすぐ主要路に出る。そこで数刻も待っていれば、嵐とはいえ一人二人は通るだろう。
 ふと、誰かの舌打ちの音が聞こえた。辺りを見回すと、道を外れた林の陰に、人影があった。助けてもらおうと声を掛けようとして、彦十郎ははっとした。
 人影は侍で、こちらには気づかずに背を向けて、主要路の方を向いている。その手には矢をつがえた弓があった。嵐で見えにくいが、狙う先にいるのは、岡川家の侍達だろう。
 彦十郎は止めるため駆けだそうとしたが、ここまで無理をさせてきた右足が動かない。仕方なく音を立てぬようゆっくりと近づく。男のすぐ後ろまで来た時、
(殿!)
 狙っているのが崇信の一行だと分かった。
 素早く刀を抜いて、目前の男を背中から刺した。男は声もあげられずに倒れる。
 彦十郎はすぐに崇信の加勢に駆け寄ろうとして、動かない足が遅れて転んだ。今度は左腕も泥だらけになる。それに構いもせず這ってでも進もうとする。
「殿!」
 声は届かない。崇信は向かいくる敵に、自ら刀を抜いて応戦していた。前後左右からくる敵に全く隙を与えない。
「強い……」
 彼が刀を振っているところを見たことがなかったが、康一郎並、いや、それ以上の腕前だ。
(私が行っても邪魔なだけだ……)
 足が動かないのではどうしようもない。歯噛みして、
(だが、お役に立ちたい……!)
 と拳で地面を叩く。
「?」
 妙な感触がすると思ったら、弓が転がっていた。先ほど斬った男のものだ。
「この雨の中……、使えるか?」
 右足は動かせないが、痛みをこらえれば踏ん張りはきく。彦十郎は弓を構えた。

 どれだけ崇信が強かろうと、これだけの人数を相手にすれば崇信も刀も疲労する。いや、敵はそれを計算に入れて大人数で迫ってきているのかもしれない。
「吉畑、後ろ!」
 家臣の背後に刀を振りかぶった男に気付く。崇信自身三人の敵に囲まれて助けに行けない。刀が振り落とされようとしたとき……、
「ぐっ!」
 その男の目に矢が突き刺さった。男がよろめいた隙に家臣は振り向き、その男を斬った。
「誤射か?」
 運が良かったのか。
 だがまた矢が、襲撃者の一人の首を掻き切る。頸動脈をいったようで、血を吹き出して倒れた。
「おい、矢はもういい! 味方に当たっているぞ!」
 一味の男が林の方に大声で言ったが、そのとたん矢が強風に乗り飛んできて、男の喉に刺さった。近くにいた崇信の家臣がすぐさまその男を斬る。
 彼が一味の指揮をしていたらしく、曲者たちの動きは乱れた。崇信勢が盛り返し始める。
 風雨の中、また別の馬蹄の群の音が聞こえた。崇信方も襲撃者も新手の存在に気づき強張る。
「どうした! と、殿! ご無事ですか。加勢します!」
「一枝!」
 崇信の目に映ったのは、康一郎とその配下の十騎ほどだった。
 襲撃者は標的に味方が加わったうえ、名高き一枝康一郎ということで、逃げに入った。だが騎馬の者たちが一人たりとも逃さなかった。


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