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 月夜 1






 山野は穏やかに春を迎えていた。
 岡川家城下の一画、屋根の上の雀も寝ぼけた声でチュンチュンと鳴いている。その屋敷の、暖かい日差しが落ちる縁側。その奥で三人が、向かい合って座っていた。縁側を通って女性が茶を持ってきた。「どうぞ」とにっこりとそれを差し出す様子に、それなりに親しい仲だと分かる。
 女性はこの家の奥方。まず茶をすすったのがその主人。主人に向かって二人座っているのが客だ。
 客の二人のうち、まずどうしても一方に目がいってしまう。彼は、岡川家家臣、一枝康一郎。正座していても威圧感を感じるほど、堂々とした体躯をしていた。盛り上がった筋肉、厳つい顔には刀傷の痕が大きく残っていて、いかにも歴戦の武人といった観だ。実際、彼は岡川家の軍事力を大いに支える将だった。
 その横にこじんまりと青年が座っていた。康一郎と並ぶと少年にさえ見えてしまう。
「彦十郎殿、大きくなったなあ」
 だが屋敷の主人は目を細めて、青年、彦十郎にそういった。
「能戸様のおかげにございます」
 彦十郎は手をきちんとついてお辞儀をした。折り目正しい様子に能戸は満足した。
「三津傘城へ行かれる前は、康一郎殿の掌に乗れてしまいそうなぐらい小さかったのに」
「それは言い過ぎだろう、能戸さん! こいつだって十を過ぎていましたよ」
 康一郎は豪快に笑って、彦十郎の背をドンと叩いた。思わずよろめいてしまう彦十郎を見て、
(決して言い過ぎではないと思うがなあ)
 と能戸は思った。
「それで、頼みたいこととは」
 能戸が聞くと、康一郎も彦十郎もちゃんと座り直した。頼みごとがあるというのが能戸の屋敷を訪ねてきた理由だ。
「彦十郎にお勤めを紹介してほしいんですよ。こいつが岡川家にお役目をもらう前に父親が死んで、叔父である私が世話しようとも思ったんですが。私は武一本できましたが、彦十郎は頭が良く、文も向いている。それなら能戸さんのような方に面倒をみてもらった方がいいと思いまして」
「ふむ」
 彦十郎の父は、岡川家の領地の北に位置する三津傘城を任されていた。父が三津傘に向かった時ついていった彦十郎は、それからずっと父の下で働いていたため、主君である岡川当主とは面識がない。
「いいでしょう。明日か明後日、お呼びするよ」
「お願いできますか!」
 康一郎はパアッと顔を明るくした。
「彦十郎殿は私にとっても孫のようなものだから。立派な青年になってほんとうに良かった」
 能戸もほくほくとした顔でそう言った。二人の暖かい視線を受けた彦十郎は照れた。


 その日のうちに、能戸は主君に会おうと登城した。岡川の主城は小高い山の地形を生かして造られている。その坂道をいつも登っている能戸は年の割に健康だった。
「失礼致します、殿」
 城の中心にある間が、主君が執務を行っている場所だ。能戸が入ると、主は書状を書いているところだった。
「なんだ」
 低く通る声。主は筆をスッと置き、能戸の目をまっすぐ見た。彼の一つ一つの動作に品があり、誠実そうだ。
 岡川崇信という。
(凛々しい若者は見ていて爽やかになる)
 能戸はそんなことを考えながら、崇信に一枝彦十郎のことを話した。
「一枝の甥か。お前はどこがいいと思う」
「普請役の松島が半月後に異動の予定です。そこに入らせればいいかと」
「少し間があるな」
「それまで殿の小姓として置いてはもらえませぬか。引き継ぎのために五日前になりましたら、普請役に移るように私から言いますので」
「分かった」
 話を終えると能戸は出ていった。崇信はまた書類に目を落とす。
「一枝の甥か……。がたいのいい奴なのだろうな」
 とぽつりと呟いた。


「殿の小姓役にしてもらえるのですかっ」
 康一郎にそう聞くと、いつも静かな彦十郎には珍しく、興奮した様子だった。若い家臣達には、若くして領主として申し分ない才を持つ現岡川家当主を、尊敬する者は少なくない。
「精一杯お努めします」
 彦十郎はキッと顔を引き締めて誓った。だがすぐに嬉しそうに顔を綻ばせてしまう。彦十郎が大人になってから、こんなに無邪気な笑顔は見せたことがない。康一郎はやれやれと安心した顔をした。
(十日もせず普請役に移されることは黙っていよう。その方が小姓役に気合いを入れて臨めるだろう)

 だが翌日、彦十郎が登城したとき、崇信はいなかった。
「妹御様のお具合が……?」
 家臣に嫁いでいた、崇信の妹、千津が病で臥せているらしい。その家臣の城まで見舞いに行っているそうだ。千津は崇信の唯一の同腹のきょうだいで、大切にされていた。
 先輩の小姓が供をし、彦十郎は留守を任された。
 そして崇信に顔を合わせることもかなわないまま、幾日か過ぎたころ、崇信が帰還した。


 月夜だった。
 崇信は寝所で横になっていた。だが考え事のせいで頭が冴え、眠くならない。
「千津……」
 妹はまだ病床にいる。側にいてやりたかったが、いつまでも城を留守にするわけにはいかず、戻ってきたのだ。
 明日からまた、溜まっている仕事を片すために、無理にでも寝なくてはならない。だが体が落ち着かない。むくっと上体を起こした。
 明障子の向こうに人影が見える。小姓が当番で控えているのだろう。月がぼんやりと影を移し、背筋を伸ばして座っている姿が分かる。
 声をかけた。
「はい」
 凛とした声。幼さはないが、若若しい声だ。
「入れ」
 障子がスッと開いた。その隙間から月の光の筋が部屋に落ちる。逆光で顔がよく分からないが、多分あまり会ったことはない者だ。背丈があり前髪がないので子供ではない。清潔な印象を持っていた。
(こやつなら……)
 しばらく彼をじっと見つめていた。そして、
「伽をせよ」
 と崇信は躊躇しつつそう言った。いままで小姓にこういう役目をさせたことはないが、今夜は汗でもかいて早く眠ってしまおうと思った。崇信に妻や側室はいないため、すぐに用意できる相手というと、小姓になる。
 え、と彼が呟いた気がした。さすがに戸惑っているらしい。しかしすぐに、
「畏まりました」
 と言った。感情を押し殺しているかのような声だった。
 彼はにじり寄って部屋の内側に座り、障子を閉めた。また室内は障子越しのぼんやりした光しかなくなった。
「もっと近くへ」
 彼との距離が縮まる。ちょうどその時、雲が出てきたのか、急激に暗くなった。
 目の前にいる男の顔が見えない。
 布団のすぐ端に座っている気配がして、手を伸ばした。肩を掴む。しっかりと張った肩だ。妹への心配を振り切ろうとしている今、女性的なものを感じない相手は、ちょうどいい。
「悪いな。できるだけ早く済ます」
 腰をぐっと抱いて引き寄せる。帯を探りつつそれを解く。袴が腰からずり落ちた。
「立て」
 整然としたものを好む崇信は、布団の上でぐちゃぐちゃに服を脱がせたくはなかった。
「はっ」
 彼は焦って立ち上がった。足もとに落ちた袴を軽く畳んで布団の外に置く。崇信は何も言わなかったのに、そうしているのを見て、彼もきちんとした性格なのだと分かった。崇信の手が小袖の帯にかかった。彼は主の手を煩わせまいと自分で解こうとした。触れた彼の手は震えていた。
「いい。私が解く」
「はっ、失礼しました。出すぎた真似を……」
 ビクッと彼は手を離した。
「別に謝ることはない。私が脱がせてみたいだけだ」
 少し、欲望が湧いてきた。だが崇信はそれが表情には出ない。
 さっと、雲が晴れたのか、薄明りで相手の様子が分かるようになった。彼は恥ずかしそうに俯き加減だった。本当はすっかり隠れてしまいたいのだろうが、主君を前にそのようなことはできない。
「…………」
 帯が取れて両肩に下がっているだけの小袖を剥いだ。白い襦袢が暗闇に浮かぶ。それも剥ぐと、若々しい肌と白い褌があった。崇信の手が晒された胸板を撫でた。触られた彼は「んっ」と声が漏れてしまいそうになるのを堪えた。
「引きしまった筋肉をしている。姿勢もいいし。弓が得意だろう」
 ポンっと堅い胸を叩いた。
「……はい」
 荒くなってしまいそうな息を抑えようとするせいで、声が弱々しくなってしまった。
(恥ずかしい)
 脱がされている青年、彦十郎はそう思って震えた。憧れの人に肌を見られて、それに興奮してしまっている。
(体よ、静まれ……!)
 そう願ったが、崇信が褌を掴んだとたん、ドクンと心臓と腰が震えた。悲鳴を上げてしまいそうになるくらいの衝撃だが、主のやることに悲鳴をあげるなど不忠なことは絶対にできない。彦十郎は唇を噛んで我慢した。
「すまない。嫌であろうが我慢してくれ」
(嫌だから我慢しているわけでは)
 熱くなって乱れてしまいそうな自分を、必死で自制しているのだ。
(殿……、…との……)
 彼の人の手が這うのを感じる度、彦十郎は気が遠くなるほどの胸の苦しさが襲う。

 崇信のことは、父について三津傘に行く前から、城下で見かけていた。まだ岡川家は崇信の父の代だった。
 お前が大きくなる頃には崇信様に仕えることになるだろうね。
 父と康一郎にそう聞いていた。
 父も叔父も、命を賭して主君に誠忠を捧げている。数々の武勲と、戦で傷ついた大きな体から溢れる誇り。そんな彼らのようになりたいと思った。
 十一の時、城下を離れることとなり、その前に崇信の姿を目に焼き付けた。いつか帰ってきたときにはあの方に仕えるのだと、志を堅くするために、遠くから彼を見つめていた。その頃から崇信は凛々しい顔立ちで背は高く、彦十郎には憧れの対象だった。そんな崇信を見ることは、幼い彦十郎なりに自分に課した義務であると共に、ほんのりと甘い楽しみでもあった。
 三津傘での日々。
 そこそこ背は伸びたが、康一郎ほどの豪傑の体を手に入れることは難しいだろうと思い、槍よりも弓の鍛錬に力を入れ、文章や算術、古典や歴史も学んだ。主君に、崇信に仕える資格のある者になろうと必死だった。瞼に写る崇信の傍で働くことこそ、彦十郎が求める未来だった。
 ―そして今。

「……あっ…!」
 憧れの人の手で、彦十郎の体を隠す最後の布が取られてしまった。崇信の視線がその下にあったものに注がれる。彦十郎が冷静な顔をせねばと強く念じているにも関わらずに、そこはあからさまに興奮していた。
 情けなくて、それでもどんどん熱いものがその先へと押し寄せてきて、彦十郎の膝はガクガクと震えて立つのが困難になってきた。
「申し訳…ありません……」
 彦十郎は従者でありながら浅ましい体を恥じながら謝った。
「大丈夫だ。今寝かせてやるからな」
 崇信は、もう立っていられない、という意味で謝ったと思ったらしい。彦十郎に向って優しく微笑みかけると、手早く己の衣を脱いでいった。ためらいもせず次々と肌を露わにする崇信を見て、彦十郎は真っ赤になった。暗いため悟られはしないだろうが。
 褌がするりと崇信の股から離れたとき、またドクンと体が反応した。二人とも一糸纏わぬ姿で、唯一また出てきた、月を遮る雲の闇だけを纏っている。
 彦十郎は、崇信の下にいってしまう視線をなんとかずらそうとする。目を逸らすのは失礼なため、顔を見ようと思うのだが、彼と目が合うと、高ぶった感情で涙目になってしまう。
 目の前には、ずっと見つめていたが、見ることは叶わなかった主君の裸体。
 彼を守るため彼より逞しい体になりたかったが、長身で引き締まった筋肉のついた彼の体には叶わない。
 崇信は、泣くのをこらえていそうな彦十郎の様子に、チクッと胸が痛んだ。男でも女でも、家臣に夜の相手をさせた経験がないため、まだ迷いがある。
 だが崇信は一度やると決めたことは、どんな小さなことでもやり通す性格だったし、ジリジリと体を焼く欲望がもう我慢できそうになかった。
 彦十郎を両手で引き寄せる。限界だった彦十郎の足はもつれ、崇信の厚い胸板にぶつかってきた。その体は、熱いのに震えていて、崇信は温めるように抱きとめた。
「すまない……。大切に抱かせてもらう」
 彦十郎は崇信の逞しい腕に支えられて布団の上に仰向けに寝かされた。崇信が彦十郎の肩の辺りの布団に手を置いてのしかかる。
 また月が出てきた。
 彦十郎が見上げる崇信は光を背にしていて、顔は影になっている。日の出ている外で見た顔は、あまり笑いはしないが優しそうだった。だが今は別人のようだ。まるで男らしい欲望が堰を切る寸前のような、怖さを秘めている。
 反対に、彦十郎の顔は月の光にさらされていた。すでに火照った体。息をつめて上下するしなやかな筋肉を張った胸。涙を湛えながらも、しっかりと主君を見上げる瞳。
 崇信は唾を飲む。
 片手で己の体重を支えつつ、上掛けの布団を引く。胸元から下の布団の中は、二人からも見えないくらい真っ暗になった。冷たかった布団の中の空気は、一瞬で熱がこもる。
 掌で手をついていたのを、肘でついた。崇信と彦十郎の距離は、もうほとんどない。崇信は彦十郎の瞳をもっとよく見たくて、唇を涙の溜まった眼尻につけて、吸った。
「……は…」
 彦十郎の口から、吐息が漏れる。崇信は反応が嬉しく、目元だけでなく頬や顎や首筋にも口づけを与えた。声を出してしまうのを堪えている彦十郎には、身悶えするほど甘い拷問だった。小さい声がどうしても出てしまう。崇信はその声が聞きたくて、わざと口と口は合せなかった。
「ん…あ……」
 自分と大して変わらない低い声。だがそれに情欲の靄がかかっているだけで、どうしてこんなに色っぽく、可愛く聞こえるのだろうか。
 崇信は人を、可愛い、などと思ったことは妹に対してくらいしかない。いままでそれくらい無頓着だった。だが今は……、
「欲しい……」
 自分に組み敷かれている男が欲しくて堪らなかった。行儀よく息を抑えているだけでなく、喘いでほしい。自分の前で乱れた姿を晒してほしい。ギラギラとぬめった男根を天に向けて、股を自分に向かって開いてみせてほしい。
 「欲しい」と呟かれた言葉に、彦十郎は衝撃を受けた。自分は主君の溜まった種を吐き出す先、というだけの存在だと思っていたのに、
(私を欲してくれるのですか)
 心が震える。その時、布団の中の下半身がグッと擦れ合い、
「あ…あっ!」
 と大きい声を出してしまった。咄嗟に口を押さえようとやった手を、パシッと崇信に掴まれた。かわりに崇信の唇で、口を押さえられた。
 胸が張り詰める。
 息ができない彦十郎の口を、崇信はなかなか離してくれなかった。舌はまだ使わない。唇で啄んでいくだけだ。暖かくて、柔らかい唇で。彦十郎は気持ち良いが、息ができなくてどんどん体が痺れていく。
「……呼吸をしろ」
「は……っ!」
「返答をする前に息を整えろ」
 崇信は少し頭を上げて、彦十郎と距離を取った。苦しそうに息をする彦十郎の髪を撫でる。胸も撫でてやると、心臓がバクバクいっているのが分かった。
「するのは、初めてか?」
 答えは頷くか首を振るかでいい、と言うと、彦十郎は頷いた。崇信の胸の内に少しばかりの喜悦があった。
「そうか。それは、私としては嬉しいが、お前には酷だったな」
 そういうと彦十郎は首を振った。
「決して…、そのようなことは、ございません……」
 表情は情欲によってトロンとしていたが、まだ言葉使いはしっかりしていた。
「家臣が、主の命に服すのは、当然のことです。そこに酷も何もございません」
 まだ整わない息を飲みつつ、そう言った。
「臣下の勤めだからこのようなことを? 主人ならば私以外だったとしてもするのか」
 崇信は落胆した。彦十郎は眉を悲しげに寄せて、首を縦に振った。
「ですが私は、ずっと殿の臣になりたい、と、思っておりました……。殿に憧れておりました。貴方の下に行きたくて、狂おしいくらい……」
 勤めなどではない、と崇信は分かった。先程から重なっていた胸板。今が一番、彦十郎の心臓が大きく鳴っている。
「殿に、こういうことを…してもらいたいとも、…きっと…、憧れておりました……」
 そう言うと、いままで崇信から逸らさなかった瞳を、ついに逸らした。体を丸めて、恥ずかしげにしている。
「申し訳ません……。臣下の分も弁えず、出過ぎた願いを……!」
「いや、意地の悪い質問をしたのは私だ。許せ」
 彦十郎の顔を隠す腕を掴んで、優しく取り払った。彦十郎は隠していたいのだが主に抵抗はできない。唇を震わせている、情けない顔を晒した。崇信はその唇に口づけをしてくれた。
「私を、好いているのか」
 その問いに答えていいのか迷ったが、勇を振り絞って、頷いた。
「愛い奴だ」
 崇信は嬉しげに目を細めた。
「こんなに誰かを可愛いと思ったことなど、他に千津しかいない」
 彦十郎は驚くとともに戸惑った。崇信の妹思いは有名だ。そんな方と同列に思ってもらえるというのか。
「不満か? まあそうか。すまん、妹と同程度というのはなかったな」
 彦十郎の戸惑いを崇信は勘違いしている。恐れ多いくらいだと思っているのに。
「だが、男のお前なら、ずっと側にいられる。永遠に私の従者でいることも……」
(永遠に……?)
 その言葉に、全身が期待で震えた。
「今宵は初夜だ。お前が私のものになるための」
「殿……」
 彦十郎が無意識に唇を動かした。その上に、崇信は親指をのせ、
「これも私のものだ」
 と言った。唇に触れた手を動かし、首筋に這わせた。
「ここも」
 その手は、肩を撫でながら胸板に向かい、心の臓の辺りを幾度も撫でてから、乳首に爪を軽く当てた。
「ッ……あ」
「ここも……」
 崇信の手が、布団の下の暗闇の中に入っていく。
「ここもだ」
「あ、あっ……!」
 彦十郎の体が大きく反応した。上にかかった布団が揺れている。
「ここも私の……」
 暗闇の中でピチャと水音がする。彦十郎は身を捩った。
「殿……、もう……」
「もう、何だ」
 崇信の手は布団の中に隠れたまま。水音と、彦十郎の喘ぎ声は止まらなかった。
「もう……、早く……」
 崇信は彦十郎の言葉を待った。
「早く、殿のものに、してください……」
「この程度では私のものになったことにはならないか?」
 彦十郎は真っ赤になって、顔を枕に伏せてしまおうとする。
「ああ、ごめん。分かった」
 穏やかな声で彦十郎の頭を撫でた。
「分かった。そろそろいただくとするよ」
 崇信の黒い瞳に、欲望の炎が燃えていた。

 激しく求められて、彦十郎は意識を失った。

 気がついた時、辺りはまだ暗かった。
「……!」
 同じ布団で崇信が眠っている。驚いて声を出してしまいそうになった。
 自分の身づくろいを確かめると、白い襦袢をきちんと前を合わせて着ていた。その中の褌も。自分で着た覚えはない。
(まさか、殿にさせてしまったのか)
 彦十郎は青くなった。土下座して謝りたかったが、崇信は静かに寝息を立てている。
 彦十郎はヨロヨロと立ち上がって、服装を整えると、そっと障子を開けて外に出た。障子の外に、次の交替の小姓が来ていないため、それほど時間は経っていないようだ。
 交代の時間まで、辛いながらも、冷たい廊下に正座していた。


 崇信は習慣の通り、夜明けの少し前に起きた。隣には誰もいない。
(まさか夢ではないよな)
 布団の中を確認すると、一人分よりも確実に多い、種の跡があった。
(朝までいてくれればいいのに)
 今夜にでも寝所に呼んだ時は、そう言いつけようと思った。
「ああ、そうだ……」
 崇信は頭を抱えた。
「名を訊き忘れた……」
 これでは呼び出せないではないか。
 まあ自分の小姓なのだからすぐにまた会う機会はある。その時訊けばいいことではあるが、迂闊だった。やはりあの夜、自分の判断力は低下していたらしい。
 そんな酷い状態の崇信の慰めに、捧げられた彼の体の熱さを思い出した。己の体に残る彼の感覚を反芻した。そのようないかがわしいことを考えていても、面には出ず、涼しげな表情のままなのが崇信だ。


 一方、彦十郎は朝から、急に真っ赤になったりして、康一郎などから変な目で見られていた。
 今、城内の能戸の部屋に呼び出され、びくびくしていた。崇信に抱いてもらったことがもう知られて、怒られるのではないかと思っていた。
「あの、能戸様。どういった御用でしょう」
「おや、叔父殿には聞いておらんのか」
「? いえ、何も」
「小姓役、御苦労。今日から普請役に移ってもらうことになった」
「……。え……」
 彦十郎は、反応ができなかった。
「殿との話はすでについている。仕事が変わっても励むのだぞ」
「……はい…。申し訳、ございません……」
「は? 何故謝る。ここは頑張りますというところだろう」
「……はい。頑張り、ます……」
 彦十郎は視線を虚ろに漂わせた。
 殿との話はすでについている。
 その言葉が頭の中でガンガンと鳴り響く。
 その間に交じって、遠くで崇信の優しい声が、
『ずっと側に』
と言うのを聞こえた気がした。


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