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 杉林の帰り道 1






 桶の中の冷たい水に手を入れて、肌を突き刺すような痛みに少年は眉をしかめた。それでもすぐに歯を食いしばって、野菜を洗った。


 日が暮れるとほとんどの店の戸は閉まる。
 だが料理屋や遊女屋からは賑やかな人の声が聞こえた。左右の店が競うように提灯を照らす道。
 揚屋に男が数人入っていった。二本の刀を腰に差して、着物の着方は雑で大きく胸を肌蹴ている。男たちは出迎えた主人に先に来ているはずの仲間の名前を告げると、案内されて階段を上がっていった。

 彼らが奥へ入ったのを確認してから、また一人の男が店に入った。


「どうなさいます。うちと馴染みの店にいるいい娘を連れてきましょうか」
 揚屋の主人はにこにこして、一人っきりで酒を飲んでいる妙な男に話をかけた。整った髷や、座った横に置いてある大小の刀から武士であることが分かる。
「いや、いい。料理だけ持ってきてくれ」
 武士は主人を見向きもしないでそう言った。主人は笑顔を崩さず部屋を去る。

 板場の前で女将とばったり会い、あの武士の接客について指示を出す。
「妙なお客さんだ。身形もしっかりして歴としたお武家だろうに、この店に来るなんて」
 この店に来る武士は、どこの誰とも知らない浪人や貧乏侍程度ばかりだ。
「遊女も取らないし。料理頼むのにぽんとあれだけ出したから、金がないとは思えないんだがね」
「安い女を使って思い切った閨遊びをしようと思ってきて、怖気づいたんじゃないかい。いらないならいらないでいいじゃないか。そんな客に付き合っている暇はないんだよ」
「そうだな。おい、雪乃助! 木通の間の客はお前一人で見ろ。粗相したら承知しねえぞ!」
 板場の隅で野菜を洗っている少年を怒鳴りつけた。ビクッとして雪乃助は立ち上がる。
「これできたぞ。持っていけ」
 料理の載った膳を無造作に渡す。受け取る雪乃助の手はかじかんで震えている。
「何してる! 零れるじゃねえか」
「すみません!」
 痛みをこらえてがっしり膳を掴むと、木通の間に小走りで向かった。階段を上がっている時に、少し眩暈がした。
 連日、客が居続けて騒いでいたため、雪乃助に休憩が回ってこなかった。昼は食材の仕入れに走り、掃除、布団干し、夜は当然さらに忙しく、客の相手をしたり、置き屋に連絡をつけに走って、合間に調理の手伝い。
 もう三日寝ていない。
 手すりに肘をついて、なんとか転げ落ちずにふんばった。

「失礼いたします」
 男は変わらず杯を手にしている。飲む気もないのかほとんど酒は減っていない。雪乃助は手早く武士の前に食事の支度をして、部屋を出て行こうとした。
「待て」
 振り返ると武士が雪乃助の手首を掴んでいた。耳を貸すよう仕草をされ、膝をついて男に近づく。
「二つ隣の部屋にいる浪人、あいつらが店を出る時知らせてほしい。……このことは誰にも言わずにいろ。ただ出ていったことを伝えてくれればいい」
「は、はい。分かりました……」
 武士は雪乃助の袖の中に手を入れて、金を落とした。

 店の主人の元に戻ると、もらった心付けを差し出した。黙って自分のものにしないように躾けられている。
「運んだだけで、こんなにもらったのかい。何か頼まれたか」
 雪乃助は言葉に詰まった。武士とは誰にも話さないという約束だ。首を振る。
 だが主人は雪乃助が言いにくそうにしているのを見て、
「ああ、あの客、男がいいのか。雪乃助、お前で売れそうなら売ってしまえ。やり方は教えていないが、お前の齢で初めてなら、いまいちでも客も納得するだろうし、客の言うことを逆らわずに聞いていればどうにかなるから」
 と分かった顔をした。
「? ……はい」
 雪乃助には何のことか分からなかったが、多分あまりいいことではないだろう。
 女将に手を引張られ、物置で着替えさせられる。初めて着る肌触りのいい着物だ。花の匂いの香が焚きしめてある。

 木通の間の前に座り、中に声をかけて襖を開ける。
「お酌いたします」
 雪乃助が隣に寄り添って座り、銚子を取り上げると、武士は黙って杯を差し出して注がれた。
 武士はゆっくり飲むので雪乃助は手持無沙汰だ。箸を取ってあーんとやったが、それは嫌な顔をされたのですぐやめた。武士の顔色を窺いながら、腕や膝に触れて優しく撫でる。
(こんな馴れ馴れしいことしていいのかな)
 と思うが、女将に促されたことだ。
 だが武士は雪乃助の存在など全く知らぬ顔で、どこか虚空を見つめている。
「あの、おとこを置いている店、あまり離れていないので、すぐ呼びだせますが」
「……私は男の趣味はない。はじめに、料理だけでいいと言ったはずだ」
 それだけ言うと、武士はまた口を閉ざしてしまう。
 料理が食べ終わりそうなので汁物を出そうかな、と雪乃助は立ち上がろうとした。
「……う」
 軽く頭を起こした揺れで、視界が真っ逆さまに落ちるように揺れる。
「! どうした」
 武士の固い腕が抱きとめた。
「あ、申し訳ありません……」
 自分で立とうとするが、脳が揺さぶられるようで武士の体に寄り掛かったまま動けない。
「顔色が悪い。寝てないのか」
 武士は小さく溜息をついた。そして雪乃助に金子を一枚渡す。
「主人に布団を用意するように言え」

 階段をふらふら降りて、主人に客の言葉を伝えた。主人は金子を見ながら口の端で笑い、
「よし、気に入ってもらうんだぞ」
 と言い、階段を上がっていった。

 帰ってきた主人に言われて木通の間へ。武士は先ほどと変わらず膳に向いている。隣の部屋への襖が開いていてそこに寝具が一組敷かれていた。
「後一刻はあの浪人も帰らないだろう。しばらく寝ていなさい」
 雪乃助は首をかしげた。
「でも、私は仕事があって……」
「あの金でお前の時間を買ったんだ。気にしなくていい」
(どうしてそんなことを?)
 雪乃助は疑問だったが、主人に客の言うことに逆らうなと言われている。武士は立ち上がって雪乃助の肩を抱く。そして布団に連れていった。雪乃助は黙ってそれに従う。
 体が疲れきっていて、武士に布団の上に寝転がされたとたん眠くなった。雪乃助がうつらうつらとし始めると、武士はまた膳の前に戻った。
 彼が酒を注ぐのを見ながら、雪乃助の意識はなくなっていった。



「……おい。……起きたか。そろそろあの浪人の様子を見てきてくれないか」
「ん……、は、はいっ」
 雪乃助は慌てて飛び起きる。
(本当にお客の前で寝てしまった)
 寝る前よりずっとすっきりした気分になっていた。
 眠っている間に着崩れた襟を、しっかり合わせている時、ふいに武士が近付いてきた。
「抱いた跡が全くないというのも、妙に見えるかな」
 そう言って、雪乃助の体を抱きしめた。
「……! え」
 誰かに抱きしめてもらった記憶もない雪乃助は戸惑った。温かくて堅い腕が、拘束する。武士の整った顔がすぐそこにある。彼は雪乃助の首筋に顔を埋めて、そこに唇で触れた。
「あ…、うわ……」
 人に触れられることの少ない雪乃助は、腰が引けてしまったが、武士の堅い腕が放さない。男はちゅうと音を立ててそこを吸う。
 彼は口を離すときに低く息を吐いた。その音で、雪乃助の背がぞくっと震えた。その背に添えられた男の手が、ぐっと引かれ、雪乃助は背をしならせて、のけぞらされる。男は雪乃助の襟の片方に手を掛け、引っ張った。雪乃助の片方の胸板が冷たい空気に晒される。そこに温かい感触があった。
「……?」
 のけ反っていた頭をうっと上げて、雪乃助が見てみると、男が雪乃助の乳首に口を付けて、吸っていた。
「あ……」
 男と雪乃助の目が合う。
「……っ」
 乳首に濡れた感触があった。男が、乳首に吸いついていた口を少しゆるめると、その合間から、彼の舌が見えた。彼の舌が、雪乃助の乳首の先を、突いている。そこは唾液で濡れてしまっていた。
「あ、わっ」
 雪乃助は顔を逸らす。整った顔の男が、舌を伸ばして、雪乃助の胸の小さいのをいじっている。なんだかすごく、見てはいけないことのように見えたのだ。
 男は、雪乃助の視線がなくなるとまた、雪乃助の乳首に吸いついた。目を逸らしても、ちゅちゅっと音が鳴る。柔らかい感触。背筋からゾクゾクと、吸い寄せられるような感覚。
「……うぅ、んっ……」
 執拗な胸の刺激に耐え切れず、全身が震えた。
(な、何これ……)
 意識が、彼の舌の動きに集中してしまう。大きく舐め上げられて、そのあと優しく先の方を、円を描くように舐められる。微細な動きさえも肌が感じ取ってしまう。
(何……、このお侍様は、私に何をしたの……)
 歯を軽く当てられて、唇で摘まれて。
 じんわりと汗ばんできた。
「は…ぁ、…う……」
 吐く息に、熱がこもってくる。
(お侍様の、息も熱い……?)
 雪乃助の背中を抱く腕も、すごく熱い。二人して風邪でも引いてしまったのか。
(大丈夫かな)
 熱で潤んだ瞳に、憂いを加えて、雪乃助は彼を見た。
 雪乃助は息をのむ。雪乃助に向けられた彼の目が、真っ直ぐと雪乃助を捕えていた。侍が…獅子が獲物に狙いを定めた時、こんな目で射抜くのではというような。ドクンと、心の臓がなった。体の熱さも忘れ、雪乃助はただ、彼を見ていた。

 しばらくして、武士は顔を離し、雪乃助の襟を整えた。
「……齢は」
「……え……?」
 雪乃助は呆けていた。
「お前の齢はいくつだ」
 簡単な問いなのに頭が混乱していて、雪乃助の答えはたどたどしくなった。
「…………」
 幼さの残る口調の返事を聞くと、武士は、嫌そうに眉間に皺を寄せ、そっぽを向いた。
「それでは、浪人のこと、頼んだぞ」
「は、はい。見て参ります」
 慌てて部屋を出ていった。

(……かっこいい人)
 廊下にトントンと軽い足音が響く。彼の先ほどの表情を思い出して、胸がトクトク鳴る。
(すごく、男らしくて、かっこいい目だった)
 侍の方も、雪乃助の潤んだ瞳に見つめられた時、息をのんだのだが、雪乃助は気づいていない。




 目当ての部屋に行くと、ちょうど彼らは帰るところだった。急いで彼に知らせようと思ったが、ふと部屋の中に目をやると、
「ひっ」
 見知った遊女がひどい状態で倒れていた。煌びやかな衣装は剥がれ、露わになった肌にはいくつもの痣があった。
「詩乃川さん! どうしたんです」
「う……」
 詩乃川はのそっと起き上った。床についた手も、伸ばそうとした背筋も痛くて、顔を歪めた。
「今、女将さんを呼んできますから……手当してもらいましょう」
「いらないよ」
 もう苦痛の表情を隠し、立ち上がって、服を整えている。
「休まれた方が……」
 心配する雪乃助の手を払った。
「休む? そんなことできるわけないだろう。今月は全然足りないんだ……。今日のうちにあと一人は相手しないと……」
「でも」
「うるさいよ! あんたは……、あたしが二人で一人をやろうってけちな奴らの相手している間、あんたは見目も金払いもいいお侍に可愛がってもらってたんだろ。……畜生っ…」
 彼女はふらつく足取りのまま部屋を出て行こうとする。
「あの、待って」
「触るんじゃないよ!」
 詩乃川は部屋に転がっていた先が割れてしなる木の棒で雪乃助を打った。派手な音がして肩に衝撃が走る。
「あ、ぐっ……!」
 幾度も打たれて、雪乃助は床に倒れ込んだ。裂けた頬に血が滲んでいる。
 詩乃川は、はっとして手を止めた。戸惑いの眼で雪乃助を見下ろしていたが、彼がぐっと頭をあげようとすると、ほっと息を吐いた。だがすぐに、その息を唇を噛んで飲み込み、足音を立て、部屋を出て行った。

「何があった」
 浪人のことを知らせに戻ると、侍は一瞬眉をしかめ、雪乃助の肩にそっと手を置いた。
「なんでもありません。彼ら、出て行きました」
 そう言って、雪乃助は俯いた。
「……そうか。助かった」
 男は立ち上がって刀を佩く。
 部屋を出ていこうとした彼が、
「お前、名は?」
 と振り向いた。
「雪乃助です」
 雪乃助が返事すると、
「そうか」
 そのまま急いで、彼は店を後にした。


 一人になって、雪乃助は泣いた。
 詩乃川はにこやかな人ではないが、客から貰った甘い菓子を、「嫌いだから」と内緒で雪乃助によくくれた。雪乃助が礼を言うと、「要らなかったからあげただけさ」と耳を赤くしてそっぽを向いてしまうのだ。
 店主が詩乃川さんが愛想なしのうえ不美人だって言っているのを聞いたことあるけど、雪乃助には化粧したお姉さんは皆美人に見える。
 もらった菓子を店の人に隠れて食べるときだけ、雪乃助の胸には優しい気持ちがあふれた。
 だが、先ほど受けた酷い仕打ちを思い出す。
(嫌われてしまったんだ……)
 あの菓子が貰えないのなら、何のためにここに―。
 他に行く場所がないからだ。答えはすぐに出るのだけど。
 自分の体を抱いて、縮こまった。

 ふと、あの武士に抱きしめられた感覚を思い出した。
(なんだったんだろう。あの部屋にいた客を気にしていたみたいだけど)
 彼のことを考えていると、打たれた痛みが軽くなるような気がする。
(また、きてくれるかな)





 朝、昨日の客がはけた頃、
「へえ、へえ。浪人の風体の二人組? うちに寄っていきましたけど……」
 店の主人は表口で、町方と思われる男と話していた。
「え! 殺された! へえっ!」
 しばらくして、その男は出ていった。主人と女将が話すのが、壁越しに聞こえてきた。
「ばっさりとやられたみたいだよ」
「物盗り? 辻斬り?」
「財布の中は雀の涙ほどだったみたいで、まあ、抜かれたのか元から無かったのか知らんが。ただ妙なのは、あの浪人達の方でな。身の上を改めようとして調べてみると、どうも……」
 芋の皮を剥きながら聞いていた雪乃助は不安になった。
(あの人ほとんど同じ時刻に出ていった……。巻き込まれてたら……)

「あ、お客さん、まだ店は開けていないのですが、……へ、へえ、ちょいとお待ちを!」
 また他の客が来たようだ。今度は女将が中に入ってきて、部屋を一室用意して通す。
 しばらくすると雪乃助も呼ばれた。女将が上機嫌で部屋の戸を開ける。

「やあ、君が雪乃助か」
 そこにいたのは、知らないお侍だった。
「は、はい」
「こんな小さな子かい? ああ、まあ、小さいからいいのか」
 侍の言葉に戸惑っていると、一緒に部屋にいた主人が声をかけた。
「雪乃助、こちらは灘様だ。お前を引き取ってくれるとおっしゃっている」
「私を」
 初めて会った人なのにどういうことだろう。主人に目を移すと、彼の前にある袱紗の上に積まれた小判の量に驚いた。そこへ侍が言った。
「昨日お前が酌した武士。分かるかい」
 すぐに分かる。あの人のお知り合いか。
「はい、はいっ」
 雪乃助はコクコクと首を振った。
「あいつがお前を気に入って、一緒に暮らしたいって言っている。意味は分かる?」
「は……、い?」
「どう? お前が嫌ってんなら、この話は無かったことにしてもいいけど」
 主人はぎょっとした顔をした。こんな大金を返すつもりはない。昨日男が帰った後、雪乃助の体に、情交の痕の他に、打たれた痕ができたのに気づいてはいたが、雪乃助を脅すように睨んだ。
 ところが雪乃助は気づきもせず、ただ嬉しそうに、
「行きます! あの人のところ」
 と答えた。


 灘が「では後日」と去ろうとするのを、雪乃助は引き留めた。少ない荷物をバサッと包んで、すぐに出ていく。
「そんなに楽しみなのかい」
 灘が笑う。
「はい。あの方、すごく格好良くて、優しくて、またお会いしたいと思っていたんです。それがこんな……、嬉しい…」
 頬が緩む。
 実感が湧かない。体がふわふわして、灘が歩く後ろをついていっているけど、あの人のもとに駆け出してしまいたい。あの人の腕の中に飛び込んで、見つめあいたい。手に抱いた荷物をぎゅっとする。あの人に舐められた胸の辺りを刺激してしまい、ピクっと反応してしまう。
「十峰は結構、朴念仁だよ。期待するよりは味気ない生活だろうけど。ま、ああいう店にいるよりはいい」
「十峰……」
「あいつの名だよ。十峰林陽(とみねりんよう)。俺の親戚が剣の道場を開いていて、そこで師範代をしている」
「剣術の先生でしたか」
 それであんな研ぎ澄まされた目をしているのかな。
(十峰…林陽先生……)
 彼の名を、心の中で繰り返した。



 店から随分歩いた。数刻経った頃、杉林を通る閑静な道、そこにある一軒の竹戸を開き、敷地に入る。玄関前で、灘は声をかけた。
「おーい。連れてきたぞー。……。まだ帰ってないか」
 灘は戸に手をかけて、ガラッと開けた。
「いないのに鍵が」
「そういう奴なんだ。金持ちのくせに。お前と住むようになったら、ちゃんとしてやれ」
「はいっ」

 とりあえず玄関の中に荷物を置いて、また表に出た。
「多分、知り合いの道場に行っていると思う」
 灘について、また人通りの多い道に戻る。

 そこにあった道場は、どこぞの藩士のみではなく、近くの子弟が通っているそうだ。
 竹刀を交わす音は、今はしておらず、幾人かが道場から出てきて帰路をいく。雪乃助よりずっと年上ばかりだが、一つ二つ上くらいの者もいて、道場を覗く灘と雪乃助をじろじろと見て去っていった。
「新しく弟子になる子だとでも思われているかもな」
(十峰先生、ここで教えているんだ。私も習いたいな)
「十峰!」
 道場の中に十峰の姿をみとめて、灘が声をかける。
 十峰がこちらに振りかえる。
「引き取ってきてくれたか」
 雪乃助の胸は高鳴った。夜の灯火に照らされているのと、昼の白い光の下で見るのとでは雰囲気が違うので、緊張してしまう。
「……荷物はどうした」
「ここに来る前に、お前の家に寄って置いてきたぞ」
 十峰は眉間に皺を寄せた。
「何故だ。私はお前の家の従僕として薦めたんだ」
 十峰の言葉に、雪乃助は戸惑った。
「あれ、だってあの金、お前が出したんじゃないか。俺はてっきりお前の従僕にするんだと。この子にもそう言っちまったしなあ」
「一度荷物を持って……、どうした」
 雪乃助は眉を悲しげに寄せていた。
「あの、私、十峰先生のお宅に置かせてもらうわけには」
「……灘が嫌か」
「おい」
「い、いえ、そんなこと。親切な方です! あの、でも……」
 訴えるような目で、だが口を噤んでしまった雪乃助を、十峰は不可解そうな顔でみる。灘が笑った。
「俺が嫌なんじゃなくて、十峰がいいんだよな」
 その言葉に、雪乃助は耳が真っ赤になった。
「……はい」
 恥ずかしくて俯く。十峰は少し思案した。
「構わないが、今日はお前を迎える支度が何もできていないぞ」
「だ、大丈夫です! では先生の家に居させてもらえるのですね」
「ああ、従僕の一人くらいいると助かる」
 雪乃助は喜びを満面にした。



 灘に世話をかけたことをお礼して、十峰の家までの杉林。今度は十峰と雪乃助の二人で歩く。雪乃助は十峰から数歩下がって、十峰の少々の荷物を、胸にしっかり抱えていた。
 十峰が何を言ったでもないが、雪乃助がはりきって、
「お持ちします」
 と受け取ったのだ。
 家に着いて荷物を置くと、十峰の手が頭を撫でてくれた。
「……あ」
「? なんだ」
 十峰は言葉をかけるわけでもなく、ただ何気なく手が動いただけだったが、雪乃助は驚いたようで、それから頬を緩めた。雪のように白い頬は、椿のような赤みが差した。
「どうしたというんだ」
「あの、……撫でて、もらえたから」
 雪乃助のような齢だったら撫でられるのなどよくある事では、と言いさして、十峰は口を噤んだ。あの店の雰囲気ではそうではなかったのだろう。この白い肌も、外で遊べず、夜中心の生活をせざるえなかったからだ。
 柔らかそうな頬に、十峰の指が滑る。じっと雪乃助を見つめ、そして指を下ろす。
「……飯にするか」
「はい! 今、お作りします。台所をお借りします」
「借りる、ではないだろう。今日からお前の家なのだから。……しかし、飯炊きもできるのか」
「はい。お店の手伝いをしていたので。でも……簡単なものだけです。あの、難しいのはこれからちゃんと覚えますから……」
 雪乃助は申し訳なさそうな面持ちで、十峰を上目遣いで見つめた。
「簡単なもので十分だ。すでにそれを覚えているだけで助かる」
 雪乃助はほっと肩の力を抜く。
「雪乃助」
「は、はい」
「気を張る必要はない」
「?」
 気を張っているわけではない。だってできないことがあると、できるまでずっと叱られるから、だから、できないと言うのは怖くて……。
「私はお前を身請けしてよかったと思っている」
「え……」
 十峰がくれた言葉は、雪乃助には思わぬものだった。
「お前にも、私に買われてよかったと思ってほしい。ここは前の場所とは違う。前のような無茶は、ここではするな」
(無茶?)
「目眩を起こすまで働き続けるなということだ」
 そうだ。昨日、十峰と会った時は本当に辛くて……。
「夜はしっかり休め。体調が悪い日も。家事をするのも覚えるのも、それを踏まえてだ」
「はい……」
 嬉しい、と思った。いつももう少し寝たかった。体が重くて寒気がする日はしゃがみこんでしまいたかった。だけどそんなことをすれば主人の機嫌を損ねるのは明白だった。
 ―それを、この人は最初から認めてくれた。
「先生に買われて、本当に、幸せです」
 胸がいっぱいになって、涙ぐみそうになるのを必死でこらえる。だが十峰の手がまた頬を撫でたから、こらえきれずポロポロと雫が落ちた。


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