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 黒躍る 番外編






「私は荒木家の臣です。帆野家に鞍替えするつもりはありません」
「帆野家じゃなくて、俺に仕えてほしいんだって」
「同じことです」
 いま、佐一郎は口論の相手、芳把の館にいる。荒木の臣としてだ。


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 ようやく帆野が落ち着きを取り戻し、芳把も善十郎につきっきりではなくなった。
 久々に芳把が設けた茶の席に、荒木が出向くこととなった。場所は芳把個人の領内にある館で、帆野城下より近い。芳把から、佐一郎も是非一緒にと、言付けがあったと聞き心が弾んだが、同時にもやもやしたものも溢れてきた。
 芳把は佐一郎の知らないところで、荒木にとんでもない取引を持ちかけていた。荒木の欲しがる異国の高級品の数々と、佐一郎を交換しようとしたのだ。
 荒木が、佐一郎の意思を聞いてからと、お茶を濁してくれて幸いした。だが芳把はまだ諦めていない。佐一郎は芳把に望まれるのは嬉しかったが、男の胸次として、物で買われるのが許せなかった。


 茶がよくわからない佐一郎は会には出ず、芳把の館に着いてから荒木家の馬をみていた。そこへ芳把が話しかけてきて、冒頭のように喧嘩になった。
「馬の世話には下男をつれてきているだろう。堅苦しい席ではないからおいで」
「堅苦しくなくても面白くもないのです。それより馬と一緒の方が好きです」
「俺と一緒じゃ不満なのか」
 芳把は眉間にしわを寄せた。
「そういうわけではないのですが。荒木家で知も武もいまいちな私が誇れるものは馬術だけだから……」
「俺の下にくれば、全ての面で寵愛してやるのに」
「私は荒木家の臣です。帆野家に鞍替えするつもりはありません」
「帆野家じゃなくて、俺に仕えてほしいんだって」
「同じことです。ところで会の主人がいつまでここにいるつもりですか」
「いま行く……。後でもう一度話そう。必ず」
 真剣な目で見つめてきた。佐一郎の心がぐらりと揺れる。
「……わかりました」
 芳把は少し安心した表情をした。
「じゃあ。―暇なら馬を走らせてくるといい。この丘から見える範囲は全て俺の領内だから」
「いいのですか。国外の者に領内を見せて」
「佐一郎殿は味方だ」
 芳把がいってしまうと、館を出て馬に乗った。
 丘を下ると、すぐに人家はまばらになり、畑も少なくなった。一面の草原を駆け、春の草花の上を跳躍した。国元ではこれほど平らな土地は滅多になく、佐一郎は気に入った。



 茶会が終わり、荒木と彼に同行した加瀬の二人は、用意された部屋でくつろいでいた。
「芳把の奴、佐一郎がいなくて心ここに在らずだったな。あの根性曲がりが、ああ素直な反応をするとは可笑しい」
「ああ、道理で。湯が温くて、腕が鈍ったのかと思いました」
「お前こそ鈍いな。茶の熱い冷たいには気づいて、人の恋情には気づかぬか。私もそれで苦労させられたものだ」
「何年前の話ですか」
「今も大して変わらぬわ」
 昔、加瀬は城下一の美形と有名だった。三十を過ぎた今でも、整った顔立ちをしている。それを荒木が、他に懸想する者を蹴散らして落とした。互いに妻を娶ってからはその関係は途絶えたが、いま、加瀬に妻はいない。
 荒木は悪戯心が湧いた。
「仕事以外で、二人きりになったのは久しぶりだな」
 右手で加瀬の手を握り、左手で着物の裾を割った。
―芳把殿の館ですよ」
「あいつは気にせんさ。それに同僚が近くにいない方が開放的になれるんじゃないか」
 抱き寄せ、額に、髪に、耳に口づけすると、加瀬は顔を背けた。首筋が赤く染まっている。その姿に荒木の胸は思わず跳ねた。
―入れてもいいか」
 尻の割れ目を指でなぞる。加瀬は驚いて止めた。
「何を馬鹿なことを。若い頃と違い痛くて回復に時間がかかるのに。この後馬で帰るのですから」
「今晩は芳把に泊めてもらおう」
 そう言って下帯を解く。
「やめ―」
「荒木殿。相談がある……。お、すまん。後でまた来る」
 芳把が戸を開け、またすぐに閉めた。加瀬は血の気が退いた。
「ほら、あいつは気にもかけんだろう。前に酒が入った時、お前がどうよがるか教えたことがあるからな」
「な、なんてことを」
 加瀬は開いた口が塞がらなかった。


 会に招いた知人達が帰っていく。芳把は見送って館の中に入ろうとした。ちょうど佐一郎が焦った様子で戻ってくる。
「申し訳ありません! つい遠くに行ってしまって。主はまだいますか。待たせてしまったでしょうか」
「客室に通して休んでもらっているよ。待っている風ではなかったけど」
「すぐに詫びてきます!」
「いまは……、いや、うん。行っておいで」
 佐一郎は奥へ急ぎ足で入っていった。
 芳把はのんびり自室へ向かっていると、廊下のあちら側から佐一郎が顔を火照らして、よたよたと歩いてきた。芳把は笑いをこらえながら話しかけた。
「荒木殿は?」
「え、と、ちょっと、取り込み中で」
「そうか。しばらく俺の部屋にいるといい」
 佐一郎は頭を抱えながら頷いた。

 風が通るように部屋の戸を開け、佐一郎を畳の上に座らせる。
「それで? 組みつ解れつのところを見たのか。それとも嬌声を聞いたのか」
「! やはり分かっていたのですね! 行ってこい、などとよくも……」
「悪かった、悪かった。壮年同士の褥なんか見たくないよな」
「そんなこと言っているのではありません」
「でも、それ見て真っ赤になっていた佐一郎殿、可愛かったよ」
 怒りで拳を振りあげた。慌てて芳把が取り押さえる。
「本当に悪かった。佐一郎殿のいろんな顔を見たかっただけなんだ」
 捕らえた腕をひっぱり、佐一郎の体を抱く。熱い胸の中で、佐一郎は何も言えなくなった。
「……あの日―俺を想ってくれると言っただろう。だけど傍にいてくれない」
「私は荒木の臣で……」
「俺は君が必要なんだ。もう善十郎を憎む心はない。―だけど苦しい。毎夜夢で、直己が憎しみの目で俺を見てくる。逃げても逃げても追ってくるんだ」
 芳把の体が震えていることに気づき、佐一郎はそっとその背を撫でた。
「佐一郎殿。傍に……傍にいてくれ……!」


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 日が暮れる前に、荒木の一行は帰り支度をした。
「なんだ。泊まっていけばいいのに。加瀬殿も辛いだろう。俺は佐一郎殿がいてくれれば、いつまででも構わないぞ」
「お前が言えた義理か。お前と、あの後佐一郎にも見られて、加瀬が流されそうだったのに正気に戻ってしまったよ。芳把殿なら人払いしてくれるものと思っていたのに」
「う、失敗した」


 日が傾きかけた草原を、一行は進んだ。加瀬が荒木を避けているようだったため、佐一郎が荒木と馬を並べ話し相手になった。
「殿、芳把殿とのあの話を受けていただけますか」
「芳把殿の下にいくのか」
 荒木は頬を和らげた。その優しげな笑みを佐一郎は、
(なんだかんだいって友人なのだな)
 と感じた。
「だが、それなら先程芳把殿にされた相談は無駄になったな」
「相談とは」
「どうすれば佐一郎の心を手に入れられるか、と聞かれ、『恋文を送り続けてみろ』と教えたんだ」
―恋文」
(なんとも捨てがたい……。離れていれば、あの筆で私に宛てた文が来る……、しかし芳把殿を一人にさせたままでは……)
 悶々とする佐一郎に加瀬が気づき、荒木をとがめた。
「なんの嫌がらせをしたのですか」
「ははは。さあ。親切心のつもりだったのだが」

〈終〉