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 影の恋 3






 そして十年。甘い思い出は、自分の思い出と実感できないほど遠くなった。
(でも昨日は……)
 引っかかった髪を解いてくれた時のことを思い出した。抱きしめられるような格好で……、
(……っ…う、うわあ……)
 彼に触られた肌に、じわじわと熱が込み上げる。うずくまって自分の体を抱きしめる。
「全然無くならないよ……」
 彼を想う気持ちは―むしろ体中が枯渇し、彼を欲している。
 気持ちを切り替えなくては。
「そうだ。今日は早く行かなくちゃ」
ようやく立ち上がり、戸を開けて朝日を浴びて家を出た。



 町の大通りに出て、普段なら東に行くところを西に進む。
「大きいお屋敷……」
 入口から眺めただけでは分からないが、烙家くらいあるかもしれない。
「失礼します。こちらに勤めています胡(こ)凱から言伝を預かって参りました」
 凱は医者を呼んで午後から来ると伝えた。
「それでは」
「あの……」
 宝が出ていこうとすると、女性の声が呼び止めた。
「凱様のお母様は、どのような具合でしょうか」
 凱と良い仲の人だ。ここの勤め人だったのか。それにしては華やかな服装だ。
「あ、私ったら名乗りもせず。鄭美杏(てい みあん)と申します」
「鄭……」
 屋敷を見上げる。鄭家の、お嬢様なんだ。
「足を挫いただけなので、あの、動きづらいようですが大丈夫です」
「そうですか……」
 たおやかで背が高く、凱と並んだら美男美女の対の絵になりそうだ。
「お伝えいただきありがとうございます。お時間があればお茶でもいかがですか」
 道に迷うことを想定して早めに来たから、時間はかなり余っている。だが烙家に早めに着いてもやることは作れるし、相手も社交辞令だろう。断ろうとしたが、
「ご迷惑でしょうか。凱様のご友人と聞いて、お話を伺いたいのですが……」
 控えめに言う頬が、ほんのりと染まっている。
(凱が好きなんだなあ)
「では少しだけ」

 庭に突き出した部屋があり、その露台にある椅子に腰掛けた。
「彼には、仲の良い女性はいるのでしょうか」
 いくらか当たり障りのない話をした後、美杏は不安気に問いかけた。
「えっと……」
 まさにそれはこの人のことだが、どうやらその自覚がないらしい。
(もう、凱は。小母さんどころか本人に伝えていないのかな)
 好きな人と想い合えるなんて羨ましいのに。けれどもあの幼馴染が素直に恋を口に出せるようにも見えない。
 宝が伝えるのは、何か違う気がする。けれど、
「凱は女性とはちゃんと折り目を持って接する人ですよ。女性と二人で会うこともありませんし。もしそういうことがあったら、その人は特別な人でしょうね」
 これくらいは言ってしまおう。
「そろそろ失礼しますね。お茶をありがとうございました」
「いえ、お構いもせず」
 美杏の不安気な表情は見るところ無くなったようだ。

「おや、誰かね」
 庭を男が通りかかった。堂々として風格がある。そして美杏に気軽に声を掛けるということは、
「お父様。こちら胡凱様のご友人の宝様です。胡凱様が遅れると連絡をくださったの」
「はじめまして」
 鄭家の主、鄭嵩(すう)だ。

 鄭家は広く商売を行い、黄藩で多くの土地を持っている。烙家や常家と違うのは、あまり官僚や政治絡みの運動をしていないことだ。黄藩にて影響力のある一家というのは間違いない。

 可愛い娘が、まるで地味で細っこいとはいえ、知らない男といるのは気分が悪いだろう。挨拶もそこそこに立ち去ろうとするが、
「門まで送ろう」
 当主自ら先に立つ。
「え、そんな」
 宝の格好を見ればただの庶民と分かる。それを黄藩に時めく紳士が道を取ってくれるのだ。
「お父様、私が……」
「お前は琴の習練の時間だろう」
「あ、いけない。……それじゃあ、お願いします。宝様、またお会いできたら嬉しいわ」
 美杏は静々と屋内へ入っていった。

「では行こう」
「はい」
「この後は仕事に? 何をしているんだい」
「烙家で働いております」
「ほう、いい家ではないか」
「雑用のようなことですが……」
 鄭嵩は烙家に良い印象を持っているらしい。
(綾様にお伝えしたら喜ぶだろうか)
 烙家は鄭家とは友好的な関係を築きたいと思っている。特に常家によって黄藩の行く末が不穏な今は。
 だが鄭家は他家と必要以上の関わりを嫌う。それゆえ清廉であるのだが、考えが読めない。常家より烙家に好意を抱いていると分かれば、安心するだろう。
(けれど、どうせ綾様と話す機会などない)
 それに伝える必要があるほど、確定的な内容ではない。

「君は娘に何か言ってくれたのかな」
「何かとは」
「最近憂いた気色が多かったのだが、君と話して随分晴れやかになった気がするが」
 宝の励ましが慰めた心など、ほんの少しのものだったと思うのだが。さすがこれだけの財を成す人だけあって鋭い。
「あの、美杏様に想う人がいるということは……」
「知っている。胡凱だろう」
 鄭嵩の顔色を窺う。良いとも悪いとも取れない表情だ。
「多分彼はそういったことには口下手なんです。私が口を挿むことではありませんが、安心していいと」
「胡凱のことは信頼していいのか」
「はい! もちろんです」
 はっきりと答える。
「私にとっても、実の兄弟達にとっても頼れる兄です」
「……そうか」
 鄭嵩は立ち止まって宝を見返す。
「いい男には、いい友人がいるものだな」
「私は、家が隣だっただけで」
「隣とはいえ疎遠になることもある。彼をつなぎとめていたのは君の魅力だろう。今日知らせにきたように、何かあればすぐに力になってやる。そういう付き合いは大事だ」
 意外だ。あまり交流の話を聞かないが、鄭嵩は人との関係を大切に思っているのか。
(だからあえて、損得だけの関係をあまり築かないのかな)
 近付き難かった鄭家の主の人柄に、少しだけ触れた気がした。
「凱は、いい男ですか?」
 少し意地悪な質問をしてみた。案の定、鄭嵩は少し口を尖らせた。
「ん、まあ、事を任せられる数少ない男だと思うが……」
 複雑な気持ちで、言葉尻を濁している。頭ではそう思っても、娘をやるのは、踏ん切りがつかないのだろう。こんな立派な人なのに、微笑ましい。
「胡凱の駄目な点は仕事熱心が過ぎるところだな。あれでは美杏を寂しがらせる」
 二人で笑って門に着き、門番が不思議そうな顔をした。



 町の南門の取引所でのお使いを済ませ、早足で烙家に帰った。
「間に合うかな」
 仕事の報告を終え、上役に遅い昼休憩をとることを勧められたが、宝は次の仕事に取りかかった。
 この時間はいつも取扱いの品や地代の収支報告の点検をしている。内容自体の精査はもっと上の人がするが、その前に単純な書き間違いや食い違いがないか見ているのだ。
 一人で黙々と暗い色の机に広げられた紙面に向かう。戸と窓を全開にしないと薄暗い部屋。だが宝はこの時間が大切だった。
 窓から距離を開けて見える部屋は、綾の執務室だった。木々に遮られながらも、いつもなら綾の横顔が小さく見える。
「いない……」
 もちろん綾の仕事は多岐に渡り、常に執務室に座っているわけではない。当主が病に伏している今、代理で人に会う用なども増えている。
 宝は溜息をつき、仕事に集中しようとした。

「どうかしたか」
 ここに響くはずのない声に驚いた。
「綾様……」
「溜息していたけど」
 綾が戸を閉めて、室内が少し暗くなる。
「いえ、何でもありません。それより綾様はどうしてここへ」
「……」
 綾は壁際を移動している。
「紫翡翠、受け取ったよ。お礼を言いにきたんだ」
「そんな、わざわざお越しにならなくとも」
 口ではそう言いつつ、本当は嬉しくて顔が緩みそうだ。それを隠すため、お辞儀をして顔を伏せた。
「……日差しが強いな」
 窓の簾が下ろされた。簾の裾から漏れる光だけが、部屋の灯りになっている。書面を読むには明らかに暗い。

 そこでようやく、綾は宝に近づいた。
「宝が、届けてくれると思っていた」
「ですが他に綾様に用がある人がいたので、その方がお手を煩わせないかと思いまして」
「……気を使ってくれたのか」
 礼を言いながら、綾の表情は浮かなかった。
「宝は親切でやってくれたんだろう。それを煩わしいなんて思わない」
「分かっています。綾様は優しい方ですから」
 宝が微笑むと、綾が笑い返してくれる。
(う……)
 胸が高鳴って、また緊張して俯いてしまう。
 近い。いつもは遠く窓の外から眺めるだけなのに。
 大人になったのに埋まらなかった体格差。頼もしい体つきに、あらぬ感情を抱いてしまう。
(……!)
 綾が触れるほど近づいてきて、つい一歩後ろに下がった。
「宝?」
 綾がさらに近づいてきたので、また退こうとしたが腕を掴まれた。
「どうして逃げる?」
 動けないよう強く捕まれている。頬に手を当てられ、顔を覗きこまれる。どきどきして体が熱くなる。心が高ぶり、涙が滲んだ目で彼を見上げた。
「私に触られるのは、…いや、か?」
 綾の声が震えている。
「そんなことありません! ただ、あの、とても久しぶりにお話ししたから……」
「昔は私ととても仲良くしてくれただろう」
 覚えていてくれたんだ。嬉しい……。
「はい。身無し子の私を寂しくないよう遊んでくれたこと、とても感謝しています。けれど私が独り立ちしてからは、話すこともなくなったので……」
 言いかけて、言葉を飲み込んだ。
「いえ、なんでもありません」
「宝はそればかりだ。言ってくれ。昔のように素直に」
 昔のように。あの頃のように親しくしてもらえたなら……。
「私の膝で甘えていた時のように」
 すらりとした美少年だった彼は、精悍な男に育った。それでも、優しげな瞳は変わらない。その瞳に今、自分が映っている。泣きたくなるほど嬉しかった。
 綾の指が宝の唇を撫でた。自然と口が開いていく。
「綾様は私のことを忘れてしまったのだと思っていました」
 綾の目が見開いた。
「何を言って……」
「覚えていてくださっただけで、嬉しい」
「忘れているだと……」
「……綾様?」
 綾の顔は、苦しげに歪んでいた。

 だが、その表情はすぐに隠れた。
「……宝。お礼にあるものを渡そうと思ったんだが、私の部屋に置いてきてしまったようだ」
「お礼なんて。会いに来てくれただけで充分です」
 一番のご褒美だ。憧れの人の役に立ちたかっただけなのに、声を掛けてもらえた。
 綾は宝の手を取った。
「どうしても受け取ってほしいんだ」
 低くなった美声に囁かれると、
「……はい」
 素直に頷いてしまった。
「そうか」
「は、はい。今からお部屋に向かえばよろしいですか」
「悪いけどこの後、用が重なっていてね。夜になったら私の寝所に来てくれるかな」
 執務室ではなく私室の方にあるのか。彼の寝起きする場所に入るなんて、緊張する。
「かしこまりました」
「ああ、待っている」
 綾の手が宝を放す。
「それじゃあ、夜に」
 戸を開けて、綾は何故か周りを見回した。宝も見てみたが、誰もいなかった。
「仕事に戻りなさい」
 本館まで見送ろうとしたが、外に出るのを止められた。窓から綾に見つからないよう、その後姿を眺める。
(今夜も会える……)
 この二日の幸福に悶えた。

 綾が通いの使用人に遅い時間の呼び出しするなど、余程忙しい時しかない。けれど宝は、綾と共にいることが少ないため、気づかなかった。


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