目次へ



 影の恋 1






 新緑に隠れるくすんだ緑。
「何か動いた」
 鴬が飛びたっていくのを、目で追う。しゃがんでいた腰を浮かした。
「……あ」
 頭上にあった木の枝にぶつかってしまった。もう一度しゃがもうとするけど、
「う……」
 髪がひっかかっている。手を上げて髪を少し引いてみる。手元が見えないし、枝に取られた髪がまるで緩くならない。中腰の姿勢が、つらくなってきた。

「どうした」
 葉の光に重なった影。一人の男がこちらを覗き込んでいる。常でさえ整った彼の顔に、木漏れ日が光を加えている。
「どうしたんだ、宝(ほう)」
 宝は彼に見蕩れて固まってしまっていた。
「あっ、えっと、髪を引っかけてしまって」
 主に対して礼を取るためお辞儀しようとして、髪のせいでつっかかってしまった。
「意外と抜けたところがあるんだな」
 吹き出された。恥ずかしい想いで顔を伏せると、彼が屈みながら木の下に入ってきた。宝の前で膝をつき、髪に触れる。
(……!)
 鼓動が跳ねる。
 指先、それから掌まで、すうっと髪を梳いて、その中の体温に触れる。身震いする。毛を逆撫でられるのは、獣だけでなく人間でも落ち着かない感覚になるようだ。
「綾(りょう)様にそのようなこと、していただかなくとも……」
 綺麗な衣に土が付いてしまう。だが遠慮の言葉に返されたのは微笑みで、
「少し時間がかかりそうだ」
 聞き逃したかのように、彼は手元に集中した。
「は、はい」
 主の優しさを無下にすまいと、宝はじっとした。けれど心臓がどくどく鳴るのは止められない。こんなに近い距離に緊張を感じずには居られないのだ。

 宝は烙(らく)家の使用人で、綾―烙綾は烙家の嫡男だ。
 烙家はこの地、黄藩の重要な富家である。烙家の裁量で多くの人が安定した生業をなしている。屋敷は広く使用人の数も多いので、特段の技能があるわけでもない宝とは滅多に顔を合わせない。正直に言うと、名前を憶えていてくれただけで、嬉しくてたまらない。
 こんな距離、ほんの子供の頃以来だ。緊張しても仕方あるまい。

 もう一つ問題が。
 半端にしゃがんだままで、足の痺れが抑えられなくなってきた。
「足が震えている。私に掴まるといい」
「ですが……」
主従の関係に気を使い、躊躇しているうちに、
「ほら」
綾の片手が背に回る。とん、と押されて綾の胸に倒れた。
「……っ」
「私の腰に、手を回して」
頭の中が真っ白になりそうだ。
 ……おそるおそる手を伸ばし、ぎゅっと捕まった。足は楽になったけど、心の臓がすごい音を立てて、顔が熱い。
 宝が動かなくなると、綾はまた宝の髪に手をやる。正面から後ろの方の髪をいじられる様子は、抱き寄せられているようだった。
 緊張してしかたないのに、
(綾、様…)
彼の胸板に触れた頬は自然と緩んだ。

「すまない。髪紐を切るよ」
「はい、構いません」
そう答えた途端、二人の間がさらに狭まった。頭を押さえられて、そこに綾が唇を寄せる。一瞬何が起こったのか分からなかった。彼が顔を離すと、暗い緑色の髪紐を咥えていた。
(歯で……)
彼が、こんなにも自分に近い場所に噛みついたなんて。真っ赤になった顔を上げていられなくて、彼の胸に顔を押しつけた。
 綾は髪紐を己の袖に入れ、ほどけた髪に手櫛を入れた。
 その手の動きは非常にゆっくりで、けれど引っかかっているわけでもなく、静かに落ちていく。慎重な動きの割に、あっけなく指が抜けていった。それだけのことで、宝はどうしようもなく焦らされた。

 綾の家の庭園は広く、ここからは母家の黒瓦の屋根がわずかに見えるだけだ。
 二人しかいない空間を、木立が作りあげていた。
「取れた」
「……あ」
 体の力が抜ける。ぺたんと地面に座った。
「ありがとうございます……」
「どういたしまして」
 今度は、くしゃっと手早く髪を梳いてくれた。
「お前の髪は柔らかいな」
「……そうでしょうか」
 返答に困る言葉はやめてほしい。嬉しいのに、綾を直視できず視線を逸らす。

 木の下を出て、背伸びをする。宝は綾の前にひざまずいて、彼の膝についた土を払う。
「ところで、どうして木の下にいたんだ」
「そうでした。これを……」
 宝は袖から小さな布袋を取り出した。
「これは……」
 そこから取り出したのは紫翡翠の細工物だった。
「見つかったのか」
 昨日、綾の亡き母の形見の紫翡翠が失くなった。
 綾の両親は遅くに生まれた長男をとても大事にした。それゆえ綾は孝行者に育ち、母の形見を大切にしている。
 家の者に頼んで散々探したのだが、紫翡翠は見つからなかったのだ。
「豆豆(とうとう)のよく通る場所を探してみたんです。そしたら」
 烙家の愛猫の豆豆は、屋敷のどんなところも縦横無尽に入って回っている。
「そうか。引き出しに入れておくべきだったな」
 紫翡翠に傷がついていなくてよかった。愛猫を多少なりとも恨んでしまうところだった。
「はい。袋の土を落としたら、あとでお届けいたします」
「ありがとう」
 宝は頭を下げ、この場を離れようとした。

 その腕を、綾が掴んだ。
「ありがとう。昨日もう探さなくていいと言ったのに、諦めずに探してくれて」
 紫翡翠を持った手に、綾の手が重なった。
「これはお前との思い出の品になりそうだ」
 手を合わせたまま、見つめ合った。穏やかな風が、おろしてしまった髪を揺らす。周りの時は確かに動いているのに、二人は長い間、見つめ合ったままだった。





 烙家に届いた手紙の分配を終え、宝は帰り支度をする。
 光沢の戻った布袋を手に、使用人頭に話しかける。綾にこれを渡すことを請けおってくれた。
「お願いします」
 裏手の戸から出て、番をしている同僚に会釈をして道を進む。空になってしまった手が心許なく感じたけど、今日そこに触れた熱を思い出すと、両手いっぱいの感情が溢れて、ぎゅっと手を閉じた。



 道端で店を閉めようとしていた農家を呼び止め、野菜を少しばかり買った。果物も勧められたけど、贅沢はいけないと思い、断った。
 粗い麻の布で包み、また歩き出そうとすると、急に馬の蹄の音が近づいてきた。
「わっ!」
 後方から三頭の騎馬がすぐそこを走り抜けていった。危うくぶつかるところで、体の平衡を崩して、野菜を道にぶちまけてしまった。
「大丈夫かい」
 野菜を売ってくれた男が声をかける。
「は、はい。ほら無事です」
 野菜を拾って見せた。
「果物を買わずに正解でした」
 やわらかい果物では潰れていたかもしれない。男は笑って同意した。

「あれが噂の常(じょう)家の手下かね」
「そのようですね」
 馬に乗っていた男達は、揃いの頭巾をしていた。常家の身辺警護を任された者に配られているものだ。

 常家は黄藩の富を支える有力な家だ。遠く帝の御座す都で位をいただき、それは烙家よりも高いらしい。
 宮殿のお墨付きを傘に、過度の小作料の取り立てや、ならず者達をつれての強引な取引など、評判が悪い。
 土地の者は常家を嫌い、烙家に従ってその身を守ろうとすることもある。烙家としても相手を救い、それを取り込んで己の勢力を伸ばせるかもしれない良き機会だが、常家とは争いたくない。都の派閥を利用されては、烙家とて立場が危ういからだ。
 烙家は今、当主である綾の父が病を抱え、表に出ることが少なくなっている。黄藩のことは御曹司である綾が切り盛りしているが、都での工作はできない。
 今はただ、彼らの明らかな暴行を取り押さえるしかできない。常家に抱き込まれている県令が無視できない証拠を添えて。

(私に何かできればいいのに)
 そう思い耽りながら足を進めていると、
「あっ」
 女性が倒れているのを見て、駆け寄った。老齢に差し掛かったくらいの……。
「小母さん!」
 隣に住んでいる幼馴染の母親だった。
「ああ、宝や、いいところに。ちょっと肩を貸してくれないかね。足が痛くって」
「もちろん構いません。……もしかしてさっきの馬が」
「お前も見たのかい。本当に困るねえ」
 小母さんは眉根を寄せてため息をついた。


 作った夕飯を小母さんにお裾分けしに行って、誘われたので一緒に食卓を囲んだ。
 同じ長屋だが、男兄弟を育てていたせいだろう。宝の家と違い、土壁や木の柱に随分傷がある。
「母さん! 大丈夫かっ!」
 急に戸が開いて、危うく里芋を喉に詰まらせそうになった。
「あら、凱(がい)」
 息子の帰宅に驚いて、小母さんは宝の顔を見る。
「動くの大変そうでしたから、一応伝えた方がいいと思って」
 幼馴染の凱は貴家に仕え、特に気に入られ、常に傍にいられるよう屋敷に部屋をもらっている。実家には月に何度か帰るだけだ。

「常家の奴らめ……」
 詳しく話を聞いて、凱はぎりぎりと歯を噛みしめた。
「凱、箸噛むの行儀悪いよ」
「う、悪い」
 宝が注意すると、凱はばつが悪そうに箸を下ろし、好物の煮豆をよそる。
「宝の豆はやっぱり旨い」
「嬉しい。今日帰ってくるか分からなかったけど、作って良かった」
「宝が女の子だったら凱のお嫁に欲しかったんだけどねえ」
「え、でも凱には」
 言おうとして、凱に膝をぶつけられた。

 小母さんには座っていてもらい、凱と洗い物をする。
「この前の人、小母さんには言ってないの?」
「ああ。言うなよ、まだな」
「うん」
 数か月前に町中で偶然凱が女性を連れているところを見かけたのだ。綺麗で育ちの良さそうな人だった。
「まだってことは、そのうち言うんだ」
 照れ隠しで凱にはたかれた。……暴力の手は早いのに。
「お前こそどうなんだよ」
「あ、うーん……」
「もういい加減に烙家の御曹司のことは諦めたんだろう」
「…………」
「お前まだ……っ」
「う、うるさいなっ。いいだろ、想ってるくらい」
 凱は呆れたように首を振った。
「何がいいんだ。もう十年もあそこで働いているのに、いまだただの使用人だろう。まるで気にかけてくれていないじゃないか」
「僕は凱みたいに武術ができるでも頭がいいわけでもないんだから仕方ないだろ。十年働いているっていっても、齢は新入りの子と変わらない。その頃から居られたのは、子供だった僕を綾様が拾ってくれたからだ」
「……いつまでも恩を感じることはないんだぞ。もう充分に烙家に尽くしたんだ」
 宝は俯いた。
「恩とか、充分とか、そういうのじゃ…ないよ」
 洗った皿を立てかけなくちゃ。けれども、体が縮こまって動けない。
「……悪い」
 凱の言葉に首を思いっきり左右に振った。そういう動作はできるけど、手を伸ばせない。身を守るように小さくなるだけだ。
「好きでいるだけ。そのくらい、いいだろ……」
 報われるとか、報われないとか考えたくない。
(だって……決まっている)
 この十年、想い続けても、想い続けても、ずっと眺める距離は埋まらなかった。その意味を深く考えたくはなかった。


目次