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 風そよぐ丘 2






 アジサはレシエマを抱き込んだ。
「どうなさったのです。やはり寒いのですか」
 裸でべったりの状況で、のんびりしたこと言うのを笑う。
 やっと、アジサの下半身の異常に気づいたようだ。

「いけません!」
「わッ!」
 レシエマは、体を俊敏にアジサの下に潜り込ませて、腕を掴み勢いをつけて投げ飛ばした。アジサはとっさに受け身をとろうとしたが、水の上だったので逆に全身を打ち付けた。ブワッと鼻と口から入った水を咳き込んで吐いてから、抗議の声を揚げた。
「アジサ殿に悪魔がとり憑いたから払ったまでです!」
「なんだそれ!」
「大神官様が言ってらっしゃいました!男性に悪魔が入り込むと、股間に角が立つそうです! それを見たときは『殴り飛ばし蹴り飛ばし投げ飛ばして払ってやれ』と! これのことだったのですね」
―……余計なことを!)
「ああ、悪魔とはアジサ殿のような公廉な方にもとり憑くのですね」
「……悪魔……。真っ当な営みだぞ。大聖堂の禁欲何て教えよりよっぽど」
「なっ、教えを順守することは未熟な我々には必要なことなのです! まだ悪魔がとり憑いていらっしゃるのですね!」
「もうない、ない。見れば分かるだろ」
 岸に上がって全身を見せてやる。アジサのモノはやる気を失っていた。
 どうにもレシエマとは合わないと感じた。

「……一人にしてください」
 レシエマの言葉は可愛くない。
「帰り道はわかりますか?」
「大丈夫です」
「それでは、スープを温めて待っております」


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 激しく打ちつける滝の刺激で、じくじくする。
 レシエマもこの歳になると、悪魔にとり憑かれた男が相手に何を犯すか、聞き知っている。大神官はその醜悪さからレシエマと自分自身を守ろうと、ああいう風に教えたことを理解している。
 しかし、アジサが悪魔にとり憑かれたままにしていたら……と想像して、何故かレシエマの股間にも角が立った。慌ててアジサに気づかれないうちに、一人にしてもらったのだ。
 大神官に、一人きりの時にする悪魔払いを、教えてもらっている。実践するのは初めてだけど……。
 滝から生ずる轟音と霧の中で、それに打ち込んだ。


 朝食を一緒にとったアジサは、すっかり涼やかな表情に戻っていた。
 だがレシエマは、未だ醜悪な妄想を止められず、悶々としながらスプーンを動かしていた。自分を情けなく思う。

 ―やはりアジサの方が神官として適任である。
 そう思い至ると、先ほどまで、修道院を掃除していたことを思い出した。
 アジサに神官の道を歩んでもらうため、まず説法の場を浄めなければと考えたのだ。「彼は絶対神官になるために生まれたのだ」と確信しているリシエマは、ウキウキと掃除しに向かった。アジサはそれを止める。
「定期的に掃除夫を頼んでいるので、貴方の貴重な時間を費やすことはありません。フィゾに仕える大切な修行の旅をお続けください」
 レシエマからほうきを取りあげて旅装を持たせた。
「いえ、この修道院に奉仕すれば、必ずやフィゾ教に利をもたらします!」
―優秀な神官を迎え入れる形で。)
 ほうきを取り返されたアジサは、何故かゾッとした顔をしていた。


 修道場内の椅子やらを一度外に出し、天井の梁に梯子を掛け、はたきを振るった。巧みに光源を計算して建てられた修道院に、舞い上がる埃。口と鼻は布をマスクにして避け、目は出来るだけ細めた。

 下から、ゴホッ、という声がした。
「大聖堂の神官様ですね。俺達、アジサさんに雇われて手伝いにきました」
 数人の男達がレシエマを眩しそうに見上げている。
 彼らに梯子から降りて挨拶した。
「では早速始めましょうか。アジサに、『なんとしても今日の日中に終わらせ、神官様を追い出』……ゴホン、心残りなく帰れるようにしてさしあげろ、と言われていますので」
「私のために―。本当に優しいお方ですね!」
 男達は苦笑いした。

 一緒に働き回りながら、アジサのことを聞いた。
「アジサ殿のお母様は、王都の方なのですか」
「そう。でもエズレイで修道士になる、っていった夫についてこなくて。アジサと親父二人きりで帰ってきたよ」
「その頃、この辺りじゃフィゾ教は無名で。親父さんの信者は、アジサだけだったんで、そりゃ熱心に教え込んでさ。アジサの奴、八つの時には、聖典を全部暗記していたよ」
「や! 八つで……。でも、そんなに熱心に勉強なさっていたのに、どうして神官にならなかったのでしょう」
「親父が出てってからは、全くフィゾ教に関わっていないみたいだし。親父に褒めてもらいたくて頑張ってただけだったんだろ」
「あいつが神官なんて想像つかないな」
「尼僧を誑しこむんだろうな」
「うわっ、そこだけ想像できる」
 男達の談笑は、レシエマの耳に入ってこなかった。
 アジサはフィゾ教に興味がないと思っていて、聖典などの知識はレシエマがこれから教えようとしていたのだが。
(私が彼に勝ることって、もしかして一つもないんじゃ……)
 肩を落とし、雑巾で同じ場所をずっと拭いていた。


 四、五日かかるのを覚悟していた掃除は、本当に日中に終わった。
 レシエマはお礼を言って、男達に帰ってもらった。町の馬車乗り場に案内する、と気を使ってくれたのだが、アジサに挨拶するまでは帰れないと断った。

 いまは一人、納戸で珍しい書や呪具を見つけてはいじっていた。
 本をめくる。だがぼーっとして、頭に入ってこない。
(この書も、アジサ殿は暗記したのかな)
 胸がチクリと痛んだ。

 ―思い出すのは、大聖堂での日々。
 戦争孤児だったレシエマは、三歳で王都内のフィゾ教会に保護された。十歳で正式に修行僧の身分になり、精進し、王都の中心にそびえる大聖堂に迎えられた。そこで大神官の愛弟子になり、ついには神官に着任した。
 努力するたび、周りが認めてくれるのが嬉しかった。フィゾの神は、きっとレシエマを見ているのだ。

 だが、大聖堂の神官職を得たことで、もう出世は当分ない。上は大神官職たった一つで、定員は一名だった。
 次の目標は、ぼんやりとした霧の向こうになった。
 それにつられ、ぼんやりしていく、自分の信心を疑った。そして、自信がなくなった気がする。
 アジサの傍にいて、憧れとともに、劣等感があった。いままでなかったことだ。


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 アジサは町から修道院への坂を登っていた。昼を過ぎて、丘の上は陽光で暖かくなっていた。
 先程まで、昨日約束をすっぽかした女と町の広場にいた。謝りついでにデートを、というところで、清掃を頼んだ男達が訪ねてきた。
 レシエマがアジサの帰りを待っている、と聞いて仕方なく戻る。
「はあ、お偉いさんは、小市民が接待にどれだけ気疲れしているか、分からないのか」
 今日の最終の馬車は夕方だ。それまでに町に連れてきて、次の目的地へ送ってしまいたい。

 修道院の中は整然としていた。歩けばバフッバフッと埃があがったのが、カツンカツンと澄んだ足音が響くようになった。
 レシエマを探すと納戸にいた。納戸は半地下で、壁に囲まれてヒンヤリしている。そんな中でレシエマは眠っていた。
 狭い机にうつぶせていた。机の上に、何を遊んでいたのか、この部屋にあったとおもわれる銀色の天秤が置かれ、青銅のコインと真珠を両の皿にのせていた。ゆらゆらと動いている。

「レシエマ様、起きてください。レシエマ様」
 重たそうな瞼を開けて、こちらを見る。
「掃除、ご苦労様でした」
 優しく微笑みかけて、彼の手を引くと、素直に立ち上がった。まだぼうっとした様子だ。
「荷物はまとめてありますよね。馬車乗り場にご案内します。今から行けば、町で、お茶でもごちそうする時間を取れそうです」
レシエマは頷いた。


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 丘から谷へ、風が吹き、草がなびく。ここに建つ修道院。
「やっぱり、アジサ殿は修道士にならないのですか」
「なりませんよ」
「あの修道院は閉鎖したまま?」
「誰か運営したいという人がいれば、貸し出してもいいですが。この辺りじゃいなそうです」
 町への道すがら話した。
「アジサ殿」
「なんでしょう」
「フィゾ教を恨んでいますか。―お父上を旅立たせてしまったから」
「……。……十年以上前のことです。そんな気持ち忘れてしまいました。エズレイの町はフィゾ教のことを思い出させることはありませんから」
「修道院が目に入っても?」
「別に、あれはただの建物でしょう。建築費、随分かけたらしいですからね。綺麗で、結構好きですよ」
「そうですか。フィゾ教自体には、もう興味がないんですね。アジサ殿は絶対良い神官になれそうだと思って、アピールしてみたのですが」
 レシエマは軽く笑った。アジサは苦笑いする。
「興味がない方もいらっしゃるんですね。こんなにもいっぱい……」
 眼下のエズレイの町を見渡した。


 門番と挨拶を交わし、町の中に入った。レシエマが馬車の時間を確かめる横で、馭者があくびをしていた。少しゆっくりできそうだ。カフェに行こうと、賑やかな通りに出る。穫れたての果物を売り歩く農民や、今夜の劇場の宣伝をする芸人が、声を張りあげていた。
 カフェに入り、外にはりだした席に座る。アジサはレシエマの好みを聞き、店員に声をかけて注文した。
「今、アジサ殿は、何かお仕事をなさっているんですか」
「ここから東に行った町に図書館があって、そこで翻訳の仕事をしています。昔とった杵柄ってやつで、そういうの得意ですから」
「似合うような似合わないような」
「楽で、お金も入っていいですよ。長時間書物と向き合っていて、無口になりますが」
「ふ、やっぱり似合いません」
「失礼な。ところでレシエマ様はこの後どちらに。王都への直通便がある街ですか」
「いえ、もう少しだけ、フィゾ教の影響の薄い土地を旅したいと思います。王都には、その後まっすぐ帰ります」
 レシエマは、アジサの目を正面に見た。

「本当は王都にいたくなくて旅に出たのですが。アジサ殿のおかげです。帰るめどが着きました」
「?」
「アジサ殿に会って、フィゾ教しか知らなくて、フィゾ教を本当に理解できるのかな、と思ったんです。頭を冷やして、もう少し考えてみます」
「? ええ」
―ありがとうございます」

 そう言って、レシエマはアジサの手を取り、瞼をふせて、指先に口づけをした。
 ―祈りを捧げるように。
「では、出発しますね。見送りはここまでで結構です」
「え、はい、お気をつけて」
 レシエマは立ちあがり、もう一度アジサをしっかりと見つめた。
「アジサ殿。……。王都には、貴方の好みそうな美しい建造物が多くあります。―気が向いたら、遊びにきてくださいね」
 そして、アジサの答えも聞かず、行ってしまう。
 白いうなじの後ろ姿が、夕日色に染まっていた。


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 修道院に着いた時、すっかり暗くなっていた。
 暗い室内にランプの光を灯す。
 ふと、目に入った聖典。
 久しぶりに頁をめくった。

〈終〉