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 番外編  仲良し雛鳥 1






 ガグルエの眩い日差しを遮るための深いひさし。
 列柱の間から、陽と砂と、植物の匂いが吹き込んでくる。
 それと……。
「アージュ様。ご飯いい匂いですね」
「ああ、そうだな」
 食欲をそそる小麦の匂い。量にかなり差がある、二人分の食事。
「これは卵ですか」
 こんもりと膨らんだ黄色い食べ物。セブの食堂の手伝いで見かけたことがある。
「そうだ。卵の混ぜ焼きだ」
「混ぜ焼きっ」
 聞いたことない名前の料理だ。
 使用人が配膳を終えて食堂を後にしようとしている。何か言いたげに見える。
「……本当の名前はなんですか」
 リューが訊くと、使用人は躊躇したが、やがてか細い声で答えた。
「……オムレツといいます……」
 オムレツ。何度か聞いたことがある言葉だ。
 アージュをじっと見ると、
「思い出した。そういう名前だ」
 悪びれなく言われた。
「また適当なことっ」
 リューは頬を膨らまし、ふわふわの胸元に頭突きした。

「お食事中失礼します」
 柱廊から食堂へと、鰭耳の男、フィルドが入ってきた。
「アージュ」
 食卓に着いているアージュに話しかける。
「少し待て」
 アージュはオムレツの上に手をかざし、リューはそれを真剣な表情で見守っている。
「……よし。できたぞ」
「わあ、ありがとうございます! 可愛いですっ」
 リューはオムレツの皿を引き寄せて、フィルドに見せた。
「見てください。アージュ様がね、魔力でオムレツに焼印を付けてくれたんです。可愛いヒヨコを描いてくださったんですよ」
「……ヒヨコ?」
 卵の黄色の上に、きつね色の線。
「リューを怒らせてしまってな。詫びなんだ。リュー、機嫌を直してくれたか」
「はいっ」
 笑顔になったリューの頬をアージュが撫でる。
 フィルドは凍りつくような視線で皿を見下ろしている。
「ガグルエを手中にした奇跡の能力を、くだらないことに……」
「あ、遊んでいるだけではないのですよっ。細かい魔力の調整の練習なのです」
「なるほど。細やかさが必要な魔術ですか……、例えばもっと詳細な内容の通信を遠方に送れるようになれば便利ですね」
「でしょう。それに、もっと上手く描けるようになったら僕の持ち物に薔薇を描いてくれる約束なんです」
 リューから薔薇を贈ったことはあるが、アージュからの薔薇のプレゼントはまだだ。
(恋物語の世界みたい。待ち遠しい……)
「やはり遊びじゃないですか」
「はっ―」
 ち、違うのですよ……っ。
 言い訳しようとするが、思い起こせばアージュの魔力には甘やかされてばかりな気がしてきた。
「フィルド、ところで何か用があるんだろう。ザンド地区の件か」
「ああ、待たせたな。上手く片付いたから、君にフォローしてもらう必要はなくなった。というわけで、今日の仕事は終わり。良かったですね、リューくん」
「え?」
 リューは首を傾げた。まだ朝食の時間だ。アージュを見上げると、微笑んで答えてくれた。
「今日は休暇を取る予定だったんだが、一つだけ昨日片付けられなかった案件があったんだ。休めなかった時にリューを落胆させたくなかったから言わなかったが」
「じゃあ今日は一緒にいてくれるのですか」
「もちろんだ」
 リューは食事中にも関わらず、椅子から飛び上がってアージュに抱きつく。
「嬉しいです!」
「私もだ。さあ、まずは朝食にしよう」
「はいっ」


 朝食を食べ終えて、二人で居室へと向かう。
 ちなみにオムレツをとても気に入ったことを、使用人に熱く伝えておいた。

「丸一日ですか。何をしましょう。またピクニックは……、……うーん」
「今の季節は暑いだろう」
 アージュが扇を広げてリューを扇いでくれる。
「アージュ様はしたいことはありますか」
「そうだな……」
 リューはわくわくと答えを待つ。
 いつもリューの大好きな庭園デートに付き合ってくれるが、アージュの好きなことも知りたいのだ。
「街に出てみないか。西側のオアシスが整備されて、水景の美しい場所になったそうだ」
「わあ、わあぁ。行きたいです」
 水景。なんだか言葉の響きが美しい。
 薔薇の花園とはまた別のロマンがありそうだ。
「そこそこ歩くことになる。なんならヴィーに乗っていくか」
 リューはアージュの手を握った。
「アージュ様とおしゃべりしながら歩きたいです」
 嬉しさの隠せない顔で、彼を見上げる。
―っ、分かった。疲れたら私がリューを抱えてもいいから、遠慮なく言うんだぞ」
 微笑み返されて、リューの胸はきゅうとなった。
「ありがとうございます……」
 アージュはやっぱり素敵だ。太陽よりも簡単に、リューの体を熱らせる。
 足元がふわふわとするので、握った手に寄りかかるように体重を預けた。





 正門に比べると目立たない通用門。
 日除けのベールを被ったリューは、ひょこっと外をうかがい、ドキドキしながら足を踏み出した。
 石畳の硬い感触。辺りを見回すと、針葉の低木が並ぶ静かな道。
(外だ)
 久しぶりの生活圏外に、リューは少し心細くなって、続いて門を出てきた男に走り寄り腕を絡ませた。
(この高さ、ちょっと慣れない)
 リューと腕を組める高さに肘がある。
 そして、赤い目が一組。
「いこうか」
 優しい声は特にいじっていなくて、胸がむずむずと喜ぶ。
「はいっ、アージュ様」
 今、アージュは魔力で自分の体を縮めている。そして日除けのベールの下の顔は、幻覚魔術で上の一対の目を隠している。
 そのため普通の魔獣族と変わらない見た目だ。リューが見知っているアージュの兄弟よりも少し小さめの。
「こら、名前を呼んだら変装をした意味がないだろう」
「そうでした。えっとじゃあ……」
 アージュ様は僕の夫だから……。
「旦那様!」
「っ! ……うむ」
 アージュが頬を赤らめるので、なんだかこちらも照れてしまう。
「……リューの名はあまり知られていないからそのまま呼ぶぞ」
「ハニーという言葉もありますよ」
 リューは期待をこめた眼差しでアージュを見つめる。

 アージュはいつもリューのたどたどしい読書に付き合ってくれている。恋愛小説に出てきたその言葉を、二人で辞書で調べたことがある。

「ガグルエで使っている者を見たことがない。目立つ」
「そうですか……」
 リューがしゅんとすると、アージュは少し屈んだ。リューの耳に顔を近づけ、低い声で囁いた。
「周りに人がいない今だけだぞ」
「?」
 少し緊張しているような吐息。
「ハニー……」
―きゃぁあああ!」
「静かに」
「はは、はい」
 ハニーッ……ハニー……っ!
 自分でリクエストしておきながら、想像をはるかに超えた色っぽい声にゾクゾクとなった。興奮が治まらない。


 ぴったりと腕を組んで、城壁に沿って南に下る。
「以前は背を縮めると苦しかったが、今はそういうこともない。リューが魔力の調整に付き合ってくれたおかげだな」
「旦那様が努力家だからですよ。でも、少しでも苦しくなったら帰りましょうね」
 今日はリューの初めての城下散策だ。けれどアージュに無理してもらうほど望んでいるわけではない。それに、すでにリューは満たされている。
「ありがとう」
「いーえ。こちらこそご馳走様です」
「?」
 彼が首を傾げるとベールが揺れて、ふわふわの毛が見え隠れする。
(どこもかしこも……、もうっ、どうしてこう魅力的なんだろう)
 砂と日差しを避けるため、露出の少ない格好にも関わらず、見ているだけでいけない気持ちが溢れてしまう。
(……ちょっとだけ)
 リューに貸してくれている腕を、服の上から揉む。服の上からでもやっぱりふかふかだ。
「っ、―…………」
 アージュが無言で許してくれたので、リューは街中までそのふかふかをひたすら楽しんだ。


 軍基地、官庁、お屋敷の並びを抜け、街中に入る。人の声がとても賑やかだった。
 西へ向かいつつ、街を見渡す。
(アージュ様の治める街)
 人族もいるけど、獣人や鳥人―膂力に秀でた種族が多い。
「変装したとはいえ、まだ少し目立ちそうだな」
 ノームは少なからず店を持っているようだが、道行くノームは少なく、エルフは一人もいない。
 数の少ない魔獣族とハーフノームの組み合わせは、たしかに目立ちそうだ。
「リュー」
 ベールの中に手を差しいれられて、頭をひと撫でされて、そして手が離れた。ふわっとした温度が残る。リューが不思議に思って頭を触ってみると、
「ふわふわ……」
 リューの髪とは違う感触があって、ピンと立っていた。
「あまり触るな。形が崩れる」
「獣族の耳……、耳ですっ」
 これはっ、思う存分触りたい……。けど、我慢……。
「旦那様とお揃いです」
「ああ。これで魔獣族か獣人の主と、その弟か使用人に見えるだろう。そこまで目立たない」
「弟……、使用人……」
 リューは立ち止まる。アージュは少し進んだところですぐに気づき、振り返った。
「リュー?」
 リューは走り寄り、その胸に頭突きする。
「ど、どうした」
「別にっ。何でもありません」
 アージュの腕にぎゅっとしがみつき、妻であることを全身で主張した。


 町並みを興味津々に見回していると、大きなガラス窓にリューの姿がぼんやりと映っていた。リューはそっとベールを上げて、アージュと並んだ獣耳姿を楽しんだ。
 ガラス窓の中は、何かの商店のようだけど、それにしてはひっそりとしている。植物の葉や根の入った瓶が並んでいて、リューは気になって覗きこむ。
「あ、この薬草……マナハーブ。この間まで僕も育てていました」
「それならきっとリューが育てたものだぞ」
「ええっ」
「フィルドに頼まれた分よりも多く作ってくれたから、出入りの薬師や医師にも渡したんだ。ほら、玄関に御用達と書いてある」
「ごようたし」
「分かるか」
「はい。悪代官と”こんい”だったり、狙われたりするおうち……むぐっ」
「本の中でな。外で言わないように」
 アージュ様の手。小さくなっていても大きくて、僕の口をすっぽり覆う。ほかほかー。


---


 フィルドに薬草を頼まれたのは、数か月前のことだ。



 広大な城の敷地において、リューの陣地は着実に広がっている。
 今日もジョウロを片手に、庭園へと走りだした。
「夏です! 日差しです!」
 敵であり味方でもあるこの日差しを、ものにしなくては。
 リューが太陽を睨みつけようとすると、帽子が深く被せられて、視界が遮られた。
「アージュ様」
「ほどほどにするんだぞ」
 心配してくれた。優しい。

「元気ですね、リューくんは」
 フィルドも一緒だ。使用人に傘を差させて近づいてきた。
「私は干上がりそうですよ。リューくんが木陰を作ってくれるのを待ちわびています」
「魚人族は大変そうです」
 熱くて乾燥しているのは苦手なのかも。
「どちらかというと、北の出身だからですね」
 オーフィリアの冬はとても寒かったが、夏は涼しく過ごしやすいそうだ。
「リューもフィルドと同じくらい肌が白いが、大丈夫なのか」
「はい。衣装係さんが気を使ってくれて、薄手の長袖を用意してくれたんです。日焼けを避けられて涼しくもあるのですよ。アージュ様こそ毛皮が暑くないのですか?」
「慣れた」
 むむ、男らしくて格好良い。
「じゃあ僕も慣れます!」
 帽子を取ろうとしたら、
―駄目だ。体には気をつけるんだ」
 手を押さえられ、真剣な声でたしなめられた。


「ところで、リューくん」
 フィルドがにこにこと笑みを浮かべている。
「あなたにぜひ育ててほしい植物があるのですが」
「いいですよ」
 リューは詳細も聞かず、にこにこと返事をする。
「ありがとうございます。ではマナハーブ百株、ブルーショコラ二百株、針アジサイ五十株をお願いします。マナハーブは来月中に苗を各地に発送できるようにしてください」
「! いっぱいですね。できるかな……」
「リュー、無理はするな」
 アージュが心配げに声を掛ける。そのアージュを遮り、フィルドはリューに言い寄る。
「お願いします! リューくんが頼りなんです。お礼、ベルニルの実の食べ放題でどうですか」
「わあっ、頑張ります!」
「リュー、そのくらいで釣られるんじゃない。そもそもベルニルの実の管理権はお前にやっただろう」
「はっ、そうでした。えーと、僕はそれくらいでは動きませんよ。アージュ様食べ放題くらいじゃないと」
「分かりました。ご用意しましょう」
―……っ?!」
 アージュ様食べ放題!?
「な、何でもします……!」
 すごい、すごい!
「待て。一体何だそれは」
「俺が知るわけないだろう。あんたの妃の言うことだぞ」
「…………」
(もふもふ、もふもふ……、……ぱく。……ふふふ……)
 リューは妄想の中に入り込み、二人の話を聞いていない。
「こら、リュー」
「へあっ」
 鼻をつつかれて覚醒した。
「フィルドと取引せずとも、私のことならリューはもとから権利があるだろう」
「え?」
「私をいくらでも好きにしていいのだぞ」
「……っ……―?」
 アージュ様がとんでもないことを言いだした!
「アージュ様、丸投げが過ぎます! 本当に僕に好き勝手されちゃいますよ!」
「いいぞ」
「きゃああっ」
 リューは歓喜に叫ぶ。
「待ってください」
 フィルドがリューの叫びを制した。
「それが王の時間を使うことなら、王の予定の調整のために私が動くことになります。そこは考慮していただきたい」
「お前は……」
「そ、そうですよね……」
 世の中それほど甘くはないらしい。
「フィルド様のお願い聞きます」
「ありがとうございます」

 詳しい期限や生育状態のラインを聞いた。
 用件が終わるとフィルドとアージュは建物の方へと戻っていく。
 リューが手を振ると、アージュは軽く振り返してくれた。幸せ気分で作業に戻る。
「ようし!」
 薬草の種や苗は明日届けてくれるらしい。明日の手が空くよう今の作業を片付けてしまわなくては。
(それにしても……。好きなものって聞いて、つい食べものでなくアージュ様って言っちゃったけど、アージュ様食べ放題って本当にあるんだ。どんなのだろう)
 楽しみで口元が緩んだ。


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