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【上編 少年の夢】 1. 奴隷の少年






「すっぱい」
 煌びやかなドレスを纏った美しい少女がくれた果実。
 ほつれと泥汚れのある服の少年がそれを口にして、顔をしかめた。
「そうでしょ。食べたくないのだけど、捨てていないか侍女がわざわざ確認するの。あなた、代わりに食べてよ」
「はい、王女様」
 舌を刺す刺激と戦いながら、それ以上の空腹に押され、必死に齧る。
 黄色い外皮が破れるくらい、厚皮の内側ギリギリまで食らいつくす。
「皮はこの籠に。ちゃんと私が食べたように見せてよ」
 王女は足元にしゃがむ獣のような少年の姿を見下ろしながら、小麦と砂糖の甘い香りが漂うクッキーに手を伸ばした。彼女の小さな口に運ばれ、ホロリと崩れる。
「……ノーム族って哀れねえ」
 侍女が戻る前にと、王女は背を向けた。





 それから少年は毎日、昼下がりに王女の部屋の窓の外に立つ。
 王女は侍女の目を盗んで、実を窓から転がす。
 少年はこそこそと拾い、皮だけ置いて身をもらう。
 そしてまた、城内の下働きに戻っていった。

 厨房でずらりと並んだかまどを掃除し、庭園では噴水の周りでドブさらい。
 夜中は衛兵に捕まり、カードゲームに興じる彼らの代わりに詰所に立ち、上官が働きぶりを見回りに来たら知らせる役目。
 交代が来ないまま、一睡もせず朝を迎えることも少なくない。


 ―少年は人であって、人でない存在。
 人とノーム族の間に生まれたハーフだ。
 ノーム族は土いじりと炉の火の世話を得意とする、穏やかな種族。
 丈夫な体は変化が少なく、餓えや疲労で死ぬことはまずない。
 それでも、空腹や眠気がないわけではない。
 むしろ、体の限界で動けなくなることが少ないため、際限なく蓄積してしまう。


 人族の社会に入れば、ノーム族のような少数派の異種族は奴隷として扱われる。
 そのためノーム族は人族の街に寄りつかない。
 しっかり不可侵契約を結び、多数の護衛をつけた商団がたまに寄るくらいだ。

 少年は幼い時の記憶が曖昧だが、親族と共にそういった商団にいた。
 その時に人攫いにあったらしい。
 純血のノーム族なら、ノーム族の多大な財力で奴隷から買い戻してもらえるが、ハーフの少年は親族に見捨てられた。

 労働力として便利なノーム族は、奴隷としてよく売れる。
 容姿の面では、ずんぐりとした体は不人気だが、人族とのハーフならば話は別だ。顔の良し悪しは人族と同程度だが、体つきや雰囲気はエルフに似て、嫋やかで儚げだ。
 容姿に人気のあるエルフは、人族を徹底的に避けているため、奴隷市場には出てこない。常に交易関係のあるノーム族の方が捕まえやすいのだ。
 奴隷としては人気のある少年は、下働きとはいえ王城のような美々しい世界に放り込まれ、高貴な王女の目に留まったのだ。





「この実はね、私の婚約者のいる国から送られてくるの」
 王女は気まぐれに少年に話しかける。
「とてもお金持ちで大きな国らしいわ。詳しいことは誰も教えてくれないのだけど。まあ、美味しくないとはいえ、一日も途切れないくらい送ってくるのだもの。婚約者は私のことがよほど気になるのね」
 王女が美味しくないという果実を、少年は黙々と食べる。最近は酸味にも慣れてきた。けれど酸味の後には苦みがあって、それはまだ苦手だった。

 ―王女様はご飯をくれる人。
 殴りもしないし、言葉もきつくない。

 少年は王女の話を聞くのが嫌ではなかった。

 王女は実を毎日食べている。侍女はすっかりそう信じて、監視の目は無くなった。
 けれど少年は、もう捨てることもできるはずの実を毎日受け取りにいく。王女も何も言わずに少年と顔を合わせる。

「大きくなったら婚約者の国に嫁いで妃になるの。きっといっぱいプレゼントをくれるのよ」
「プレゼント? どのようなものでしょう」
「お菓子やお花、服や宝石。このすっぱいベルニルの実のように、いらない物は困るけど」
「お菓子! すごい。パンもくれますか」
「当たり前よ。毎日お祭のようなご馳走よ」
 お祭り! 余ったご飯をいっぱいもらえる日。
「信じられない……。どうしてそんなに良くしてくれるのですか」
「もちろん、私のことが好きだからよ」
「好き? 会ったことないのですよね」
 王女様は少年の頬をつねった。ちょっとジンジンするけど痛くはない。
「結婚するのだから好きになるに決まっているでしょう」
「そう……なのですか」
「そうよ。一緒にお食事して、お喋りしてお出かけして、大切にされるの」
「大切に……」

 婚約者のことを、王女はあれこれ想像を膨らませる。
 少年は最初はただ聞いているだけだった。
 けれどあまりに王女の様子が楽しそうなので、次第に自分からも訊いたり話したりするようになった。


「春は庭園の花を見て回るのがいいです。日毎に色んな種類が咲いて、毎日デートできます」
「あなたが世話したらそうなるわね。ノーム族も一応使えるのね」
「花については任せてください」
 少年は気取った様子で、さっき拾ったタンポポの花を差しだした。王女は、いらないわ、といつもの素気無い口調で返す。
「夏は湖に行きたいわ。もちろんボートを漕ぐのは婚約者」
「湖……。足が着かないところはちょっと……」
「落ちても婚約者が助けてくれるわ」
「なら大丈夫です!」
 あなたが乗る気なのかしら、と王女は首を傾げた。



 少年と王女の、食べ物の好き嫌いから始まった秘密の接点。
 話し相手ができて、少年は話したいことができた。
 話したいことができて、少年の心は弾んだ。


 四日ぶりに取れた睡眠。すぐにうとうとしていく。
(いいな。婚約者)
 ―瞼を閉じれば、花の香りがするような気がした。
 お金持ちな国というから、この国以上の庭園があるはず。見渡すような広大な花園を想像する。
 両側に花が溢れる道を歩いていれば、蔓薔薇のあしらわれた四阿があった。
 淡いピンク色が軽やかに風に揺れる。
 四阿に上がる階段に視線を下ろした少年に、影が掛かる。目の前に差し伸べられた手。ベンチに座ろうと、婚約者が誘ってくれていることが分かった。
(大きな手……)
 結婚は王女が大人になってからだから、相手も大人だろう。
 少年はその大人の男の手に、そっと手を重ねた。





 小鳥が二羽、木の枝に止まっている。
 ぴったりと寄り添う姿を、少年は見上げる。
「傘、傾いてるわ」
 ふかふかの芝生に座り、本を読みながら王女が言う。
 少年は下がってきていた腕をしゃんとして、日傘の傾きを直す。
 あちらに木陰があるのに、王女はわざわざ少年に日傘を差させる。
「侍女さんはどうしたんですか」
「さあ、どこかで油を売っているのではなくて」
 出会って数年、王女はたまに大人びた言葉使いをするようになった。
 本の読めない少年の言葉づかいはあまり変わらない。背丈も思うように伸びない。
「ちょっとしたことだけど……、傘があるのっていいわね」
 この城に住む他の王女に比べて、王女は一人でいることが多く感じる。

 今、王女が読んでいるのは恋愛小説だった。王女が読むとなると、少し古典寄りのものしか用意してくれないと文句を言っていた。少年の好きそうな場面があると、読み聞かせてくれる。

 ヒロインの危機に駆けつける。
 ヒロインの涙を拭いてくれる。
 何でもない日に、寄り添ってくれるヒーロー。

「風邪で寝台から出られず、姫君はとても辛い思いをしています。そこに王子が訪ねてきました。気づかう言葉は優しく、そして、とても甘い、甘い果実をくれました」
 素敵な王子様に愛される、美しい姫君のお話。
「すっぱい果実ではだめですか」
 僕と王女様の王子様がくれるのは、すっぱいベルニルの実だ。
「だめよ。あんなにすっぱいものを食べたなら、目が覚めてしまうでしょう」
 少年は少し不満に思いながらも、うっとりと聞きいった。


 今日も、少年の体調は思わしくない。
 けれど、次々と仕事が積み重なる。
 暗くて凍える寝床にさえ、戻ることさえできない。

 倉庫から厨房への移動中、今日の分のベルニルの実を懐から出して、立ったまま齧りつく。
 いつもの果汁が、口の中を潤していく。
 それだけが、少年に元気を与えてくれた。





 城主である王の子供たちがだんだんと年頃になり、歓待や祝いが続く。裏方は準備でてんやわんやだ。
 少年はお酒を薄める水を厨房に運び、厨房から会場へ量を増したお酒を運ぶ。
 会場で混ぜたら少し楽なのに、それは許されない。


 最近の王女は、あまりドレスを新調しない。
「王女様」
 見覚えのあるドレスを着ているから、遠くからでも姿を見つけやすい。
「女官さんたちが噂していました。王女様に婚約者様からプレゼントが届いたって。何を貰ったんですか」
 噂を聞いて、気になって気になっていたのだ。王女の側に人がいないのを確かめてから、少年の方から声を掛ける。
「それ、お姉様とお姉様の婚約者のことよ」
「……そうでしたか」
「私の婚約者が送ってくるのは、相変わらずベルニルの実ばかり。無粋な人……」
 王女はたまに暗い顔を見せる。
「甲斐性無しも考えようです。きっと浮気もできない仕事人間なのですよ。亭主元気で留守がいいです」
 少年は言いたてる。
 ―素敵な素敵な婚約者。ちょっとくらい思い通りにいかなくたって、きっときらきらした未来が待っているに決まっているのだ。
 王女は吹き出した。
「もう、そんな言葉どこで覚えてくるの」
「皆、僕がその場にいてもいなくても気にしないみたいなので、色んな噂話を立ち聞きしてしまいます」
 どうしても今掃除しないといけない場所で、秘密の話をされると正直困るのだが、ノーム族に意思があることを忘れてしまっているような人族は間々いる。
「ふーん。まあ、地味だものね」
 そう言いながら、今日の実を渡してくれた。
「私も、あなたが側にいて、嫌だと感じたことはないわ」



 王女と別れて、庭園の隅の森を歩く。
 今日の実はなんだか、きらきら輝いて見える。
(そうだ。この実の種を蒔こう)
 この国ではベルニルの木が生えているところは見たことないが、とても元気そうな実だ。これにノームが手を掛ければ元気に育つにちがいない。

 少年は種を植える場所を探して、森を歩く。
 庭師に間引かれないように、あまり頻繁に手入れの入らない場所。
 それと地味豊かで光がいっぱい当たり、忙しい少年が通いやすい場所。
 ようやく良い場所を見つけ、しゃがみこんで土を掘った。
 この種が育ったら、王女に会えない日でもご飯が食べられる。

(王女様に会えない日……)

 王女はいつか純白のドレスと共に、婚約者の国へ行く。
 ―婚約者はいつか、王女のものとなる。

 しゃがみこんだ少年は泥だらけだ。
 ベルニルの実の黄色い皮だけが、きらきらと光を振りまいている。





 夢を見た。

 王女はまだ知らないかもしれないので、話したことはない。

 愛し合う者同士は、手と手を握り合って、口付けを交わすらしい。


 いつも夢に出てくる、美しい花畑。遠くには陽光を受ける湖も見える。
 花畑の中を手を繋いで歩き、蔓薔薇に覆われた四阿の階段を登る。
 年々と蔓が伸び、真紅の薔薇が光を奪い合うように折り重なる。
 その艶やかなカーテンが、二人と他の空間を隔てた。

 蔓薔薇の陰の中、男の人の手が、少年の頬を撫で、顎を持ち上げた。
 見上げれば、蔓薔薇の隙間から差す真っ白い太陽。
 陰の中でさらに逆光になった彼の顔が、ゆっくりと近づいてくる。


 愛し合って、大切にされて、幸せを運んでくれる王子様。
 これ以上触れれば消えてしまう。
 ここが夢の世界の境界と知りながら、少年は彼の口付けを受けいれた。


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