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 序幕






 二百年前の伝説だ。
 魔王アグラムと鏡の王デディアメレジュートはダステーゼ大陸の近海で争った。この大陸より東方、より文明の進んだダステーゼの人間達は、為す術もなく、雷鳴と津波と地響きに、怯え隠れ、逃げ惑い、そして消された。二つの大魔力のぶつかり合いの衝撃は、海上だけではとどまらず、ついに大陸ごと失われた。
 大陸を消した衝撃の収まった時、二人の姿は近海になかった。

 人間は彼らの戦いの決着を知らない。
 ただ、ダステーゼの数少ない生き残りは、この大陸に移り、国を造った。やがてこの大陸の東半分を支配下に置く大帝国の前身だ。

 人の歴史には時折、電撃のように突如現れる魔族によって変えられる。
 だが人は彼らを知らない。知ることさえ、できない。
 突如具現する悪魔の影に、出会わないよう祈り怯えるだけだ。


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(面白いな)
 フィアーは、自分の周りのささやかな変化を、そのように捉えていた。

「どうなさいましたか。フィアー様」
「……なんでもない」
 自分の周りの変化、カインだ。この唯一の従者はフィアーの顔を覗きこんできた。
「そうだ、カイン、こちらに来てごらん」
 フィアーはカインの手を取って、背を見せて歩き始めた。片手が繋がっているだけなのに、温かい。
(属人とは、いいものだ。他の者共のやたら属人を獲得しようとする気持ちが理解できなかったが、これほどいいものとは……)
 自分に向けられる眼差し。素直についてくる姿。触れると嬉しそうにする様。
 初めて持った従者に、フィアーはいくつもの小さな感動を覚えた。



 ここは、普段二人が住んでいる街ではない。魔界の銀鉱山を削って造られた城。魔王アグラムの居城だった。
 この辺りは黒い地質で、豊富に混じった銀がわずかな光を反射している。カインは暗闇の城内をまだ一人で歩きがたく、フィアーに手を引かれているわけだ。
「ありがとうございます。フィアー様」
 この呼び方もいい。
 バシュレザークフィアーという名は人間には言いにくいようで、ある魔族にフィアーと呼ばれていることを思い出し、その呼び方を教えた。「様」という敬称も多くの魔族が使わない。
 カインだけの、特別な呼び方だ。


「あれが魔界で太陽の役割をしているものだ」
 窓から見えるのは、美しい円錐の稜線を描く山だ。周囲よりも圧倒的に高い。その上に赤い巨大な火の玉が燃えている。
「アグラムの命令で炎魔族が管理している。魔界は太陽光のない場所がほとんどだから、あの光が届く範囲の土地は希少で、望む者が多い。魔族を集めるためのアグラムの策の一つだ」
「すごい……。ですが、アグラム様は属人をあまりとられないのでしょう。何故魔族を集めるのですか」
 フィアーは、黙った。フィアーは、アグラムの自慢話には饒舌だが、彼の深い事情については、いつも以上に口が重くなる。

「その男、アグラムにはまだ会ったことがないのか」
 後ろから声をかけられた。振り返ると、尖った耳の美しい男が立っていた。
(ライトエルフ。どうして魔界に)
「お前か……」
 フィアーはカインを背に隠した。
「無駄なことするな。私より弱いお前がかばったって、殺せるものは殺せるよ」
「私なら一撃でやられることはない。その間にアグラムに助けを呼べる」
「ふふ、お気に入りをかさにきて」
「お前に対抗するにはアグラムに頼るしかないだろう」
「あの、フィアー様……」
 険悪な雰囲気に、カインは怯えた。
「この方は」
 魔族は好戦的なものが多く、契約者という異物は特に喧嘩を売られやすい。大抵フィアーより格下で、カインもフィアーから相当な力を貰っているため怖くはなかった。
 だがこの男は、フィアーより強いらしい。
「ベフィーナリシアスキア―魔族だ。関わり合いにならないように。姿を覚えても意味がないから、魔力の気配を覚えておけ」
 本人を前に、フィアーは淡々と言う。
(以前教えてもらった……レトラアノーさんと並ぶ、歪みのある方)
「姿を覚える意味がないとは、どうしてですか」
「ベフィーナリスアシキアの体は昔、歪んでいたがため魔族に嫌われ、灰にされた。ただ、その頃には魂を他者の体に移す術を覚えていたらしく、今も魂のみは生きている。今のライトエルフの体はどこかで奪ってきた仮宿だ。よく変わる」
「貴様……、アグラムの歪みは黙っているくせに」
 ベフィーナはライトエルフの美しい口の端を、歪めた。
「私の問いより、その人間の問いに先に答えるは。酷い扱いをしてくれる」
 大して気にしている口調でもない。
「お前の普段の行いのためだ。お前と会話するには、まずカインと私の身の安全を確保しなくてはならない」
「分かったよ。手は出さない」
 フィアーはいつもの無表情な視線を向けている。その言葉を信用したのか、していないのか読めない。
「アグラムがカインを見たいというので会わせに来た。カインとも魔界を見せるという約束があった。……今は、アグラムの食欲が収まるのを待っている」
 簡潔に、状況を述べた。
「ああ、なるほど」
「?」
 今度はカインが首を傾げた。最後に言った事情は、カインは初めて聞いたからだ。
「知らないのかい」
ベフィーナはカインの顎に触れ、顔を覗きこんだ。
「アグラムの歪みはね、同族食いだよ」
「触るな。私のものだ」
 フィアーは静かにカインを引き寄せた。ベフィーナは笑って、覗き込んでいた姿勢を戻す。
 その時、鐘の音が響き渡った。
「やっと、アグラムのお呼びか」
「行くぞ。カイン」
「あ、はい……!」



 城の最上階。むきだしの銀鉱山の頂上。
 炎魔族の太陽よりも高い位置にある。
 強い風が吹く階段を昇り、アグラムの玉座の前へ。

「よくきた。歓迎するよ」
 階段を昇りきると風はピタリと止み、低くも通った男の声が投げかけられた。
―! ……お招きありがとうございます、アグラム様」
 答えたカインの声は少し震えた。
(なんという魔性……)
 存在感と言い換えてもよい。アグラムの周りには、魔力の渦がひしめいている。

 アグラムは、魔界を展望するように置かれた玉座にいた。二人の美しい女性魔族が側に控え、しおらしげに彼のガラスの杯に赤い液体を満たす。玉座の上には銀と赤の羽を持つ大鳥がとまっている。
 黒い肌。眼は銀色の煌き。野趣めいた雰囲気と膨大な魔力によって威圧される。

 アグラムは美しい顔に微笑みを浮かべた。
「近くへ」
「は、はい」
 片手でこちらに来いと合図する。それに引き寄せられるように、カインの足は進んだ。
 緊張で心臓がバクバクいっている。あの魔力の渦の中に足を踏み入れて、果たして生きて帰れるのか。フィアーが少し前を歩いてくれるのが、唯一の救いだ。彼の姿を見ながら、(大丈夫……大丈夫……!)と気を落ち着ける。
「私が属人に、そして契約者にしたカインだ」
 耳にフィアーの声が入ると、少し安心する。
「外見は普通だな」
 アグラムが話すと、とたんに恐怖に掻き乱される。
「人間にしては上等だよ。今は魔性もあるから相当だ」
 ベフィーナも口を挿む。
(ベフィーナさんも強いだろうに、彼には何も感じないな)
 アグラムは笑った。
「ベフィーナリスアシキア、来ていたのか」

「……!」
 ベフィーナの体が宙に浮かんだ。
「アグラム……!」
「トネロワスンの皇帝に手を出したそうだな。放っておけと言っただろう。それほど私に構われたいのか」
「そのような些事、アグラムとあろう者が気にすることあるまい」
 ベフィーナは鼻で笑った。
「うっ……」
 ベフィーナは苦痛に顔を歪めた。肩と腰と足がねじられていく。

「フィアー様! あの、どうしたら……」
「気にしなくていい」
 焦ったカインに、フィアーは冷静な声で答えた。だがカインは激しく混乱していて、フィアーは腕の中にカインを引き寄せ落ち着くように頭を撫でた。
「ぐあっ!」
 ベフィーナのライトエルフの体が弾けとんだ。真っ赤な血が床を濡らした。

「ネイリア、始末しろ」
 アグラムが言うと、横に控えていた女魔族がふっと息を吹いた。床に転がった死体は砂のように崩れ、血と共に煙のように消えた。
「ベ、フィーナさんは……」
 玉座にとまっていた鳥が、アグラムを覗き込んだ。
『ふふ、ひどいな。アグラム』
「! 鳥が……、あ」
 鳥から人の声のような音がした。
(それに、印象が違う。魔力の気配が……変化した。あ!)
「ベフィーナさん?」
『ああ』
「私の気に入りの鳥を……」
 アグラムは一つ溜息を吐いて、杯を傾けた。血のように赤い液体が揺らめく。

「ここ最近の酒は豊潤な味がする。いい園丁がいるせいか」
 アグラムは気を直したようだ。
(園丁……)
「魔界にも果樹園があるのですか」
「果樹園? ははは、バシュレザークフィアー。教えていないのか。私に気を使っているのか、それとも、人間のカインに気を使っているのか」
「どちらもだ」
 フィアーは無表情のまま口を動かした。フィアーは尊崇するアグラムに対してもこうのようだ。
「私は気にせん。それに、その男もそうだろう。キシトラームのカイン……冷血という話じゃないか」
(……フィアー様が、そのように私の話を)
 カインは苦しげな顔をした。だが、
「アグラム……、カインを知っているのか?」
 フィアーは、意外そうにしていた。フィアーが話したわけではないようだ。
「聞いたことのある名だと思ったが。キシトラームから逃亡したお前を、探している者がいる。バシュレザークフィアー、お前も知っているだろう。デディアメレジュートのところのエディだ」
「知り合いか?」
 フィアーの質問に、カインは首を振った。
「いいえ、覚えがない名です。ですが、デディアメレジュートという方は……鏡の、王」
 アグラムの敵ではないのか。その下にいる男と何故話す機会があるのか。
「あいつと私は、休戦中とでもいうのかな。今の私に、あいつとの争いは利がない。そして、あいつは私に弱みがあるから、こちらが適当にかわしていれば強硬なことはしないし、話しかければのってくる」
 アグラムは笑った。

 魔王アグラムと鏡の王デディアメレジュートの名は、人間でも知っている。彼らが敵同士だということも。
 二百年の昔、人間の間でも語り継がれている、魔王と鏡の王の戦い。それはダステーゼ大陸近海で行われた。凄まじい力のぶつかり合いにより、ダステーゼ大陸が跡形もなく消された。
 ―これが、人間が知る歴史。

「人間にはお二人の戦いは曖昧にしか伝わっていませんから、宿敵と云われつつ新たな争いも決着も聞かないので、疑問だったんです」
「地上の者を滅亡させて、枯渇するのは我ら魔族だ。デディアメレジュートはどうもそれを分かっていない節がある。私とあいつは、……認めたくはないが、互角の力だ。私が折れてやらなければ、地上も魔界も、この世の全てを塵にしても―私と戦い続けただろうな」
「そうですか……」
 魔界を知った今なら分かる。
 魔力の根源は、地上の者の願い、夢、欲望。魔族からしてみれば、弱き食い物だが、欠かせない。
『ふ……、あはは』
 ベフィーナが突然笑い出した。
『騙されるなよ、カイン。地上からの新たな魔力が途絶えても、我々魔族は困らない。今後弱い魔族しか産まれないってだけの話だ。自分の魔力が減るわけでもないし、自分の永遠の命さえ守れれば、種の存続など知ったことじゃない奴らばかりだからな。
 困るのはアグラムだけさ。次々に新たな魔族が産まれなければ、飢え死ぬんだから』
「よくしゃべる口だ。少しはバシュレザークフィアーを見習え。……お前に肉体があればまだ腹の足しになるものを。無価値な男だ」
 アグラムの言葉に、急にベフィーナが殺気立った。
『無価値だと……。私が、この私が……!』
 銀の鳥の体から、膨大な魔力を感じる。羽がバサッと舞い上がった。髪に落ちてきたそれを、アグラムは煩わしげに払う。
 カインは後ずさった。フィアーはそれに気づくと、
「アグラム。カインの紹介が終わったので、私たちは失礼します」
 と言った。
「そうだな。私もこれからこいつを躾けなくてはならない。またいつでも来るがいい」
 アグラムは玉座を立ってベフィーナに向く。

 フィアーとカインは魔城を辞した。


 銀の鳥は羽を折られ、地に落ちていた。
 アグラムはボロボロになった女魔族の鎖骨を踏みつけている。女魔族は歯を食いしばりアグラムを見上げている。
「ネイリアもお前が中に入ると、これほど醜くなるのか」
 嘲笑うアグラムの声。ベフィーナの悔しさに歪んだ顔は、険しさを増す。見開いた眼はアグラムに。彼を射殺さんばかりに注がれる。
「魔力は最上。だがお前からは、バシュレザークフィアーやネイリアのような見蕩れるほどの魔性や気品を感じぬ」
 ベフィーナはアグラムを見る視線を弱めようとはしない。アグラムも、その銀の眼でベフィーナを見下ろした。

「私の命令に逆らうな」
 アグラムの声は、冷えて冴えて、響く。
「私の気に入りの者を、何故お前などに教えてやっていると思っている。手を出すなということだ。お前のせいでネイリアはもう使えん」
 そう言って、ベフィーナが入っている女魔族の頬を蹴りつけるように踏んだ。
「それと、トネロワスン皇帝。あれは私の畑のいい園丁だ。畑は荒らすものがなくてこそ、十分な実りをつける」
「……欲の畑か」
 魔族の元である魔力を産み出すのは、地上の者達の夢と欲望だ。
「あれの野心は、支配域と近隣の多くの者に伝染する。下流の者に夢を与え、既得権者には安寧から目覚めさせられる。欲望に動かされ、負ける者、勝つ者……。
 人間とは良い作物だ。あの脆弱な体で、大きな欲望を産み出してくれる」
「貪欲なのは……お前だ。どれだけ魔力を喰えば、腹が満たされるんだ」
「さあな。とりあえずはデディアメレジュートを倒すまで、と言っておこう」

 アグラムはその右手に、置いていた杯をとる。控えている女魔族が、なみなみと注ぐ。
「増え続けるがいい。私の食糧……」
 アグラムの笑み。その気配に、ベフィーナはゾクリとした。
―飢えを満たせ」

〈終〉