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 ひとつ歳上のヒーロー 3






「んっ、んっ」
 ジャージを着て、玄関前で準備運動する。中学の時のジャージなのに袖の長さがぴったりなのが、ちょっと嫌だ。家から公園までの道のりを、テニスバッグを肩に下げて走った。

 野球場やサッカー場も保有する、大きな公園。南方の噴水広場に着いて、バッグを下ろす。
 ここでは夏の時期、タイルの壁の上から水が滝となって流れる。今の季節は水が止められ、壁打ちに丁度いいのだ。
 パコン、コン、とボールを打ち続ける。

「あっ」
 取りこぼしてしまって、後ろに転がっていった。そこに立っていた人が、球を受け止めてくれた。
「ありが―、あ!」
「徳見、ここで練習していたんだ」
「先輩」
 テニス部のジャージを着た国笠先輩がいた。格好いいデザインのジャージで、僕も持っているのだけど、白が基調で汚しそうなので、普段使いする勇気はない。
「学校のコート使っていいんだよ。良かったら今から、一緒に行かないか」
 誘ってくれた!
 でも、先輩はいつも剣崎先輩と二人で練習していたはずだ。剣崎先輩も全国に行っている上手い人だ。
「いいです。相手もいないし」
 学校は壁打ちできる場所が無いのだ。
「俺と剣崎と混ざってやろうよ」
「僕上手くないから、先輩達の練習の邪魔になっちゃいます」
「そんなこと……」
「あ、ゲームはしませんが、球拾いでいいなら行きますよ」
 そうだ。それなら僕でも役に立てる。
「…………」
 先輩はどうしてか、悲しそうに眉を寄せた。
「やっぱり……、いい。練習、邪魔してごめんな」


---


「距離を、置かれているのかな……」
 学校のコートで剣崎と一勝負終えた後、フェンスに寄りかかって休む。隣に座っている剣崎に聞いた。
「知らねえ」
「あの子、俺のこと大好きなのに」
「自惚れんな」
「四月の頃さ、新入生の中でもテニス好きだから話合うし、俺のことすごく憧れの目で見てきて、……可愛いな、って思ってたんだ。そのせいで、部活に来ないのがショックだったってのもあるんだけど」
「のろけんな」
「サボってると思っていたのだ誤解だったって分かってから、また可愛いと思う気持ちが膨れてきた」
「…………」
「憧れてくれているのは嬉しいけど、遠くから見ているんじゃなくて、もっと近くで話したい」
「…………」
「でも、先に距離を作ったのは俺だから……。強引に近付いていっていいものか、迷うんだ」
「…………」
「なあ剣崎、どう思う」
「……こんな奴に勝てねえ自分がムカつく……」
「あ?」
「国笠。休憩は終わりだ、来い」
 ラケットを握った剣崎はコートへと向かった。
「いいけど、俺の相談への答えは……、いっ」
 鋭いサーブが飛んできたので、慌てて打ち返した。


---


 日が落ちるのが早くなってきた。
 部活を終えて着替えて外に出ると、
「徳見君」
 夕日の中、誰かが手招きしている。一年生でマネージャーの久保田さんだ。
「徳見君って、家この辺りだったよね。駅そばの商店街って使う?」
「うん」
「よかった。この前、部のもの買った時に福引券もらったの。滅多に行かないから捨てようかと思ったけど、それもなんかもったいなくて。あげる」
「ありがとう。集めてるんだ。嬉しい」
 わざわざ可愛い封筒に入れて差し出してくれた。まめな人だな。
「徳見」
 受け取る前に、後ろからぐっと肩を掴まれた。国笠先輩が青い顔をしている。
「その封筒……」
「どうしました」
「来い」
「え? えっ」
 久保田さんの封筒を受け取る前に、国笠先輩に引きずられる。久保田さんも戸惑っている。
「あの、今行きますから、ちょっと先に久保田さんと……」
「俺が先に言う!」
 何を言うんだろう。でも先輩がこんなに焦っているんだから、きっと重要なことなんじゃないかな。

 先輩が僕の両肩を掴み、真正面からじっと見つめる。先輩の目はとても切実で、僕も緊張してきた。心臓がとくとく鳴る。
「俺……」
 言葉を振り絞るように、先輩の声が、かすれている。
「徳見のこと……」

「美緒ちゃーんっ。徳見に用って、まだー?」
「明君ー、ごめん! もうちょっと待ってー」
 やたらと明るい声が、先輩の声を遮った。美緒ちゃん? 明君? 久保田さんが市田先輩に向かって手を振っていた。
「……どういうことだ」
 国笠先輩が久保田さんの方へ顔を向けた。重苦しい表情が、少し取れている。
「国笠先輩、徳見君への用、時間かかりますか? 私、あき…市田先輩を待たせているので……」
 市田先輩が待ち切れずに近付いてきた。
「市田の彼女って久保田なのか?」
「お前ッ、知らずに『彼女に中学の頃のこと言う』って言ってたのか!」
「明君、何なに? 中学の頃のことって」
「なんでもないっ。なんでもないから、美緒ちゃん!」
 市田先輩と久保田さんって付き合っているんだ。二人とも優しくて明るくてお似合いだなあ。

「それなら、その封筒って何だ」
「あ、先輩いりますか」
「え?」
 先輩も家近いし、福引券欲しかったのかな。封筒を開けて、福引券を取りだした。
「え、何これ?」
「何だと思ったんだ」
 市田先輩がなにやら意地悪げな顔で聞き返すと、国笠先輩は顔を真っ赤にした。
「近所同士二人で分ければ。俺と美緒ちゃんはもう帰る」
「また明日ー」
「うん、バイバイ」
「……」
 国笠先輩は一応手を振ったが、その動きはぐったりと疲れていた。

「券半分こでいいですか」
「いや、いいよ……。全部徳見ので」
「先輩集めてないんですか」
「んー、もらった記憶はあるけど」
 鞄から財布を出して、お札のポケットを見ている。
「何枚かある。やるよ」
 逆にもらってしまった。いいのかな。
「ちょうど三回分貯まりました。今日行ってこようかな」
「……。あ、そういえば俺も用があったなー。一緒に行かないか」
 先輩がそう言った。何故か目が泳いでいるけど。
「はい!」
 先輩と部活以外で一緒なの初めてだ。学ラン姿が精悍で、隣を歩くと気分が高揚する。

 中央広場に机が置かれ、そこで福引が行われている。順番待ちの間、先輩も一緒に並んでくれて、好きなテニス選手の話とかできて、すっごく楽しかった。すぐに時間は過ぎて、僕の順番がきた。
「ようし!」
 先輩と分けられるものがいいな。となると……、蜜柑一箱狙い!
 福引のガラガラを回す。
「むー」
 白。はずれ。
「うー」
 はずれ。
「……! やったぁ!」
 青の球。なんだ、なんだ。
「はい、坊ちゃん。水族館入館券二枚だよ」
「わあ、ありがとうございます」
 リニューアルで話題になった水族館だ。ちょっと行きたかったんだ。
「よかったな」
「あ、先輩。えっと、いりますか」
「いいよ、遠慮しなくて。そんな嬉しそうな顔しておいて」
 笑われた。
「でも、クラスの友達とはいつも三人で遊んでるから。二枚か、どうしよう」
 父さんも最近土日まで出勤だし。
「じゃあッ、俺と行かないか!」
 先輩は勢い込んで僕の手を取った。券がぐちゃぐちゃになりそう。
「僕と一緒でいいですか?」
「ああ、徳見と一緒がいい……」
 目がキラキラしている。本当はそんなに行きたかったんだ。

 今週の日曜日に行くことになった。



「父さん遅いな……」
 土曜日の夜。明日の服も決めて、うきうきしていたのに、夕食を前にして待っているうちに、気が沈んできた。
(また会社に泊まりかな)
 カップラーメンでも食べているのかな。最近の顔色の悪さが思い浮かぶ。
 台所の棚を開け、弁当箱を取りだした。


 事務所は電灯が消えて誰もいず、工場の方へ向かう。
「?」
 なんだか騒がしい。
「! 律規君、社長が……!」
「父さん!?」
 フルで動き続ける機械の側で、父さんが倒れている。声をかけても意識が無い。
「急に倒れられて……。休みなしだったから。今救急車呼んでる」
 サイレンの音が聞こえてきた。
「俺も付き添いたいけど、これ明日納品の仕事だから……」
「は、はい……。ここは金井さんに指示してもらわないと……。父さんのことは僕一人で大丈夫ですから……」
 震えながらも答える。
「ごめんなさい……。工場、お願いします……」


 お医者さんからは、体力がかなり落ちているけど、点滴をうって休めば大丈夫と言われた。
 陽がカーテンの隙間から差した。
「ん……」
「父さん!」
「律規? あ、製品は……!」
「さっき連絡が来て、無事発送したって。皆さんがお見舞い行くって言ってたけど、それより今日は帰って寝てって言っといた」
「そうだな。迷惑掛けた……」
 父の骨の浮きあがった手が、僕の頬を撫でた。
「お前も、目が真っ赤だ。私は大丈夫だから、帰って寝なさい」
「うん……、……」
 あれ、今日確か。
「ああぁーっ!」
「っどうした」
「先輩っ、先輩と約束……。急がなきゃ」
 時間を確かめに携帯を開いたけど、電源切っていて真っ暗。
「断れないのか。疲れているだろう」
「行きたいの! ごめん、行くね!」
「焦って道路に飛び出すなよ」

 病院を出て携帯を起動すると、すでに約束の時間が過ぎていた。昨日の服のまま着替える暇もなく、そのまま待ち合わせの駅前まで走った。

 人の多い駅前だけど、背の高い先輩はすぐに見つかる。先輩の私服だー、なんて喜ぶ暇はない。転がるように彼の前に走り寄った。
「ごめんなさい!」
「……何かあったのか?」
 先輩は全く怒った様子はなく、心配そうに聞いてきた。
「目の周りが腫れてるぞ。……泣いた?」
 寝不足なのと、確かに昨日は不安で涙が止まらなかったのだ。
「あの、昨日……」
 事情を説明すると、先輩は、
「大変じゃないか。今日はお父さんについていてあげな」
 そう言ってくれるのは助かるけど、でも……。
「水族館、行きたいです……」
 だって、
「先輩と初めてのお出かけ……」
 先輩といたい。なんでか分からないけど、先輩といたくてたまらないのだ。
 先輩は僕の顔をまじまじと見た。
「俺と、行きたいの? 誰でもいいわけじゃなくて」
「先輩がいいです。なんでもいいのは水族館の方です。福引の順番待ちだって、先輩がいてくれるだけで、すごく幸せでした」
 必死で、本音が次々に口をつく。先輩の顔が赤くなった気がしたが、先輩の胸に引き寄せられ、顔が見えなくなった。
「昨日は一人で意識のないお父さんを看て、よくやったな」
 優しい声で、抱きしめられた。
「……っ」
 温かさに安心して、涙が零れてしまった。
(そうか)
 心細かったのだ。だから先輩に会いたかった。先輩といると胸が熱くなって、寒さに震える心が満たされるのだ。
「病院に戻ろう。俺も、徳見と一緒なら何処でもいいから」
「え……」
「ね」
 そんなの悪いと思って戸惑って顔を上げた。けど、先輩の腕の中で彼を見上げる僕に、にこっと頬笑みかけてくれる。
「いいんですか……?」
「そのかわり、来週水族館行こう。徳見の土日の予定、また俺にちょうだい」
 もう何も言えず、コクコクと頷いた。


 一度僕の家に寄る。数日の入院だけど、いくらか必要なものを持っていかなくては。
「綺麗だな」
「そんな。古いアパートですし。あの、お茶どうぞ」
「急に来たのに整理されているってすごいよ。お茶、ありがとう」
 先輩はきょろきょろと家の中を見回す。僕が父さんの部屋に入っている時は、ダイニングで待っていてくれたけど、
「徳見の部屋、見てもいい?」
 と言うので襖を開いて入ってもらった。う、部屋の隅に畳んである布団が目につく。押し入れに入れてしまいたい。
「ベッドじゃなくて布団なんだ」
「畳ですし、お客さんが来た時に融通がききますから」
 先輩はやけに長く布団を見続けている。
「あの、恥ずかしいのであまり見ないでください……」
「恥ず……っ! 俺、べ、別に布団見て想像とかしてないからな!」
「え? は、はい」
 先輩は顔を真っ赤にして強く言った。想像って何を? 先輩はギクシャクと視線を他所にやる。
「……あ、子供用ラケット。昔の?」
「はい。先輩もとってますか?」
「テニスクラブが一緒の小さい子にあげちゃったな」
「いいなぁ。僕も先輩の欲しい」
「…………」
(あ、やばいっ)
 まずいものが貼られているコルクボードに気づいた。先輩は何やら考えごとをしている。その間にコルクボードの前に近くにあった本を立て掛けて隠した。
「テニス関連のもの多いな。すごい。スポーツマネージメントの本なんて読むんだ。見ていい?」
「はい。……! いや、駄目!」
 その本の後ろは! 立て掛けてあった本を先輩が手に取った。
「あ」
「……」
 僕の迂闊者……。ガクッと膝を折った。学校やテニス部の予定表を貼ってあるコルクボードには、テニスをプレイしている先輩の写真が三枚ほど貼ってあるのだ。
「徳見」
 俯いている僕に、いつもの優しい声がかかった。顔をあげると、カシャッと機械音。スマートフォン……、先輩の携帯が目の前にあった。
「これで俺も徳見の写真もらったから、おあいこ。というか、徳見にだったらいくらでも撮られてあげるけど」
 性懲りもなく先輩の写真を集めている僕を、怒っていないみたい。
「徳見がいつも寝ている布団を背景に、泣きそうな顔で見上げてくる姿なんて……」
 先輩は画面にうっとり見入っている。
「早速今夜使おう……」
 小声で言ったのが聞こえた。そんな写真何に使うんだろう。


「あの、わざわざ父さんに会わなくても」
「いや、ちょうど知ったからには一言お見舞いしないと」
 そういうものかなあ?
 先輩は病院で洗面所によった。鏡の前に立ち、軽く立てていた髪に手櫛を入れて、いつも学校でみる自然な感じにしていた。整髪剤のツヤが残っている分、ちょっと大人っぽいかも。
「んー、この服やっぱり浮ついているかな。もっと真面目そうに見えるの着てくれば良かった」
「格好いいですよ?」
 おしゃれな感じで、ファッション誌に出てきそう。その上スタイルも顔もいいから、さっきロビーを通った時、沢山の人がこっちを見ていた。
 同級生が遊びに来る時は、皆服なんて全然気にしていないけどな。迎える方も、父さん休みの日は死んだように眠っているから、寝巻で挨拶することもあるし。あ、今日も病院のパジャマのはずだ。
 ……なんか、先輩の前ではちゃんとした格好でいてほしい気分。今回は不可抗力だけど。この気持ちはなんだろう。学年が違うから気を使うのかな。

「ここです。父さん、入るよー」
 病室の扉を開いた。
「ああ、律規。そちらは?」
「えっとね」
 先輩を紹介しようと口を開こうとした。けれど、先輩の方が先に前に進み出る。そしてきびきびとお辞儀をした。
「はじめまして。律規君とテニス部で仲良くさせてもらっている国笠治道(はるみち)といいます。いつも律規君にはお世話になっています」
「随分男前だな」
 父さんは正直者だなあ。
「そんなこと……」
 先輩は困ったように笑って否定する。そんな姿が爽やかで男前ですっ。
「国笠君て、律規がよく話している彼か。テニス、全国で優勝しているんだってね。その時は律規がすごく騒いでたよ」
「ッ……はい」
 先輩は夏の大会の話になると、少し緊張した。
 あの頃言われた言葉なんて、もういいのに。
「……」
 僕は父さんに気づかれないように、先輩の手を握った。……もう傷ついていないよ。こんなに仲良くなってくれたんだから。
 少しすると、先輩も握り返してくれた。
「そんなに、喜んでくれていたんですか……」
 う、聞かないでほしい。
「それはもう、目を輝かせて。毎食の会話は君の事だったし、テニス雑誌買ってきて高校大会の特集見せてくれたり。恋でもしてんのかってぐらい」
「こっ……!」
「僕が成績を残せたのは、律規君のおかげです。試合記録の分析までしてくれる子はなかなかいなくて、助かっています」
「へえ、律規そんなことしているんだ」
「家で表を作っていることありませんでしたか」
「あった、あった」
「来年は連覇を目指すので、その時は、律規君に側にいて応援してほしいです」
 先輩は力強く言った。
(来年は応援……。嬉しい……)
 頬が火照ってきて、うつむいた。
「律規、顔赤いぞ。疲れで熱でも出たか?」
 父さんに心配されて、慌てて首を振った。
「違うよっ」
「だが」

 その時、廊下の方から慌ただしい足音が聞こえてきた。ガラッとドアが開き、作業着の男が走り込んできた。
「金井さん」
 父さんの会社の主任で、実質副社長のように会社を支えてくれている人だ。休んでって言ったのに。
「社長! 今回の製品満足してくれて、あの会社の主力商品の部品も依頼されたぞ!」
「よおぉしッ!」
 父さんは飛び上がってベッドの上に立った。点滴の針抜けちゃった……。
「ボーナス出すから皆呼び戻せ! 早速ライン回すぞ」
「合点承知だ!」
 スリッパひっかけて病室から逃亡しようとする父さん。
「いけません!」
 僕と看護士さんで散々叱っておいた。大人二人はようやく大人しくなり、今日は休むことを約束した。


 帰り道。
「もう。皆に心配かけたのに、こりないんだから」
 僕が父さんの文句を言ったら、
「元気そうで良かったじゃないか」
 と先輩は笑ってくれた。
「国笠先輩、今日はありがとうございました」
「いいや、何もできなかったけど。お義父さんのあの様子だったら、来週は遊びに行けそうだな」
「はい! また直前で倒れたりしないよう、見張っておきます」
 いいこ、いいこと、先輩は頭を撫でてくれた。

「なあ」
「はい」
「家族ぐるみの付き合いになったんだからさ、普段から名字じゃなくて下の名前で呼んでいいか。……律規って……」
 そういえば、父さんの前では律規君と名前で呼んでいた。
「はい」
 律規、か。
「なんか、先輩と親しくなれた感じがして、嬉しいです……」
「俺もッ、律規に治道って呼んでもらいたい」
「治道先輩?」
「いや、呼び捨てで」
「は、はる…治道。…………さん。あの、呼び捨ては無理です……」
 困ってしまって、先輩を見上げる。
「さん付けも捨てがたいな」
「僕は治道先輩が呼びやすいです」
「先輩呼びってなんかエロさが足りないんだよな……。まあ、とりあえずそれでいいや。でも、たまにそれ以外でも呼んで」
「はい」
 頷いたけど。呼び方に、エ、エ……ってあるのかな。それがないとちょっと不満そうなのが、よく分からない。

「り、つ、き」
 先輩が僕の名前を舌で転がす。
「治道先輩」
 僕は喉からすっと出てくるよう練習する。
「律規」
「治道先輩」
 新しくなった呼び名。はじめましてを言い合うような、ムズムズする感覚がくすぐったくて、二人で笑い合った。


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