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 水辺に風が吹き 5






 王子の訪問の日はすぐにきた。

 イグスは朝早くに出発したようで、どんな服装なのか見られなかった。
 後で見られるだろうか。
「男性でもこんなに服があるんですね」
 イグスが用意してくれたフウの白いローブは、襟が広く、胸元には滑らかな刺繍が施されていた。
 何より背中が大きく開き、腰まで見える。
 ユイルが溜息をつく。
「イグス様、”水の精のような子の服だ”と頬を染めて言ったきり、仕立て屋に任せっきりにするから」
 フウには聞き取れない小声で何か言っている。
 鏡の前で戸惑うフウに、ユイルは仕方がないという風情で笑った。
「上着もあるから」
 皺一つない絹のボレロを掛けてくれた。
「昨日この服を確認して、”外では絶対上着を着ていろ”って言っていたよ」
(上着で隠れてしまうなら、こんなに高そうな服じゃなくても……。お金持ちって下に着る服も凝るものなのかな)
 天気は快晴。ローブの裾がふわりと風になびいても、肌寒くはない。
 胸がぽかぽか温かい。
 屋敷の前に止められた牛車に、ユイルに続いて乗り込み、ローサ河へ向かった。



「ほら、あそこの高台」
 河の近くは混みあっていて、少し離れたところで牛車を降りた。ユイルが手を引いて、岸辺に造られた櫓を指差す。狭い櫓の上には兵士が一人立っている。
 真剣に周りを警戒している様子だ。
「入っていいの?」
「うん」
 船着き場を囲んでいる兵士にユイルが名乗ると、すぐに通してくれた。
「王子様はもう向こう岸についているのかな」
「今朝イグス様に聞いたら、問題なく道程を来ているみたいだったから、ついていると思うよ」
 梯子を上って、兵士に挨拶し、櫓から河を眺める。
「フウの付き添いして得したよ。良い眺め」
 東の田園地帯が見える。小麦畑が青々と、黄色い太陽と対峙している。
 フウが最後に舟を操った頃……、たしかお客は坊ちゃんだった。発芽がようやく始まったと話していた。

 上流と下流に小舟が連なっている。警備のために河を封鎖をしているみたいだ。
「あれ?」
 それなのに、封鎖の真っただ中を、向こうから小舟が向かってくる。
 見ていると、櫓の足元で騒ぐ声がした。
「あ、タブランさん」
 こちら側の岸に、タブランがいる。美々しくタイルの張られた船着き場で、向かってくる小舟を焦った様子で待っている。

 小舟から降りた商人風の男の報告を、タブランが渋い顔で受けている。
「どうしたんだろうね」
 上からフウとユイルで覗く。何かトラブルがあったのだろうか。お祭り騒ぎで気にしていなかったが、これほど物々しい警備は見たことない。王子が来るというのは大変なことのようだ。
(王子に何かあったのかな。そしたら、近くにいるイグス様も大変なことに)
 背筋をゾッとしたものが走った時、
「フウさん!」
 タブランから声が掛かった。
「一緒に来てくれますか」
 どうしたのかと櫓から降りたとたん、説明している時間が無い、と舟に引っ張りこまれた。慌ててユイルも飛び乗ったところで、舟が岸から離れた。

「……というわけで、殿下を乗せた船を出発させられないんです」
「馬……それも四頭と一緒に乗りたい、ですか」
「とっても豪華な車もついてますよ……」
「船に慣れている馬なんですか」
「いや、初めてです」
「河を泳がせたことは……」
「したことないですし、殿下が嫌がります」
 あの大きな船なら乗れないこともないけど、初めて乗るなら何かあった時のために人がついていないと。暴れて王子に怪我でもさせたら……。
 王子が出した無理難題に、タブランは頭を抱えた。忌々しそうに、
「イブルタ商会のやつら、殿下自身に邪魔させようと言い含めたのか」
 と言う。
「いえ、イグス様に聞くところ、元から厄介な人らしいですよ。誰が相手でも」
 ユイルがさっと手を上げて訂正する。
「そうですか……。そう。ということで、想定していたより人出が要りそうなんです。フウさんが魚の扱い上手かったので、馬も得意かなと、藁にもすがる思いで」
「舟を譲られる前は、動物に付き添って泳いで渡らせる仕事もしていましたよ」
「この大河を!?」
「足を着いて休む場所もところどころありますから」
 なんてこともないように言うフウに、ユイルとタブランは目を見開いた。



 向こう岸に着くと、揃ったマントの兵士たちと、豪華な馬車に目を奪われた。
 その手前で、イグスが誰かと話している。一番派手なマントを身に纏った男だ。
(あの人が王子様)
 綺麗な顔立ち。衣装に負けない華やかな容姿をしている。
(イグス様と並ぶと絵に……)
 そう思いかけて、フウは目をこすった。イグスがいつになく生気のない目をしている。
 タブランは王太子に声を掛けた。
「殿下、ローシルクへようこそ。お待たせいたしました。船乗りを増員いたしましたので、ご寵馬にも船に乗っていただく用意ができました」
 王太子とイグスが振り向く。イグスの口がフウの名前の形に動き、目が生気を取り戻した。
(うわ……)
 眩しい顔立ち。高い背丈を包む白いコートに金糸の刺繍。礼装のイグスの美しさは、別世界を作りあげている。
 ぼーっと見蕩れていると、不機嫌な男の声が耳に入った。
「まったく、人員を増やすために往復する暇があるなら、さっさと渡ってしまえばいいのだ」
 王太子の美しい口から発した言葉だと、理解するのに少し時間がかかった。
「タブラン氏は殿下の安全を考えているのですよ」
「ふん、私の馬たちの行儀の良さを知らないのだ」
「一番大人しい馬が、ようやく殿下を乗せてくれるようになったばかりではないですか」
「うっ」
 イグスが王太子をたしなめている。
(もしかしてイグス様って、僕が思っている以上に身分の高い方なのかな)
 王太子に意見するなんて。

 馬車の御者席の男が、タブランと言葉を交わし、馬車を進め、フウの横を通り過ぎていく。
(綺麗な紫紺のコート……)
 王太子のお付きは、馬丁にいたるまで綺麗な格好をしている。そして何より、
(重くないのかな、馬……)
 厚い布地と宝石のはめ込まれた首飾り。車体とお揃いでキラキラしている。
 フウがイグスにもらった服は一度も着たことないくらい綺麗で、これのおかげでどうにか目立たずここに立っていられる。
 小走りに馬車を追い抜き、船に渡された橋の横に待機する。
(橋を用意しておいてよかったみたい)
 橋の幅は馬車の車幅ギリギリで、フウの向こう側にも、すでにもう一人立っている。フウたちに注視されながら、御者は馬車を慎重に操り進もうとする。
 だが、橋の前で馬は進むのを拒んだ。御者が困った様子で手綱を引き声を掛けている。
「大丈夫だよ」
 フウが馬の横に立ち、フウよりも豪華な飾りの間から、その首筋を撫でる。
 いぶかしげにフウを見たのは少しの間で、馬はすぐに落ちついた。
 フウが先を歩いて、御者の合図もあって、馬はまた進みだし、ようやく車体全てが船に載りあげた。
「フウ」
 安心したところに、イグスの声が掛かった。
「手伝ってくれているんだって? ありがとう」
「いえ……、大して役には立てませんが」
 優しく微笑みかけられて、なんだか恥ずかしい。うつむいて、水面を見つめた。イグスから視線を逃がしたのに、水面はフウを見つめるイグスを映しだしている。
(あ……)
 フウの肌がイグスよりも黒いことに気づいた。水の青さが誤魔化してくれない。これでも、数か月ろくに日に当たっていないのに。
「将軍、なかなか良い船ではないか」
「そうですね。そのお言葉、タブランが聞いたら喜びます」
 近づいてきた王太子はさらに白い。
 彼が橋を渡る。固定された船の揺れはゆったりと、涼やかな光を彼の肌に反射した。
(綺麗だなあ……)
 陽を浴びていない肌なのに、光が似合うなんて……ずるい。
 フウは後ろに一歩下がった。
(違う世界の人たちだ)
 イグスが用意してくれた白いローブと、フウの姿はきっとちぐはぐだ。
 ぐっと胸元で服を掴む。
(僕……)
 胸がチクチク痛む。
(この服、イグス様にもらって、嬉しかったんだ)
 似合わないと分かった、今になって気づく。

「フウさん、あなたはこちらの船へ」
 タブランが指差したのは、すぐ隣に着けられた、王太子の船より少し小ぶりの船だった。
(良かった)
 王太子と同行するイグスとは別の船だ。



 追走すると、船の大きさがよく分かる。この船も、一応飛び移れるくらいには甲板が高い。
「あ、王子様」
 船の縁に手をつき、気持ちよさそうに風を受けている。
 その満面の笑みに、フウもなんだか嬉しくなった。
 今のところ馬の鳴き声も聞こえず、船は順調に河の半分の距離を越えようとしていた。

 爆音が響いた。
「!!」
 次いで上がる馬のいななき。
 フウは身を強張らせたが、爆音は近くで鳴った音ではない。あの音は岸からだと思う。
 バクバクいう心臓を抑え、隣の船を心配げに見上げた。
「銃声だ! 殿下を中に!」
 イグスの声。あれは銃声だったのか。
「岸から銃弾は届かないが、接岸時は気を張れ」
「船に分かれて人数が足りない。味方の船でも不可解に近づいてくるものがないか注意しろ」
 甲板の護衛たちの声は取り乱してはいないが、馬はいななき、蹄を激しく鳴らしている。船も目に見えて揺れている。
「僕、馬を見にいってきます」
 フウが飛び移れる場所を見極め、縁に足を掛けると、ユイルが腕を掴んだ。
「飛び移る前に、向こうに声を掛けないと。警戒している」
 その通りだと思い、口に手を添えて大声を出そうとした。

 その上を、影が飛び越えていく。
 馬の一頭だ。巨体が大きな水しぶきに沈んだ。
「落ちたぞ!」
 フウはすぐさまボレロを脱ぐ。その下の、不思議な形の服の脱ぎ方が分からない。
 ユイルに頼もうかと思ったけど、もがく馬の姿を見て、思わずそのまま水面に飛び込んだ。

 いつもより水を切る腕が重い。たっぷりのひだが足に纏わりつく。
 それでもフウは、人より速く泳げる。
 馬の轡に、手が……、届いた!
「ぷはっ!」
 馬の顔が安定して水面の上に出るようにする。
「大丈夫! 泳げてる。泳げてるよ」
 よかった。泳げない子だと、この巨体をどうにもできない。
「このままあっちへ」
 泳ぎの邪魔になりそうな、馬の首飾りに手を伸ばす。
(両手じゃないと金具が硬くて外せない)
 馬の顔を水面から出しつつ、首飾りを外すとなると、フウ自身の呼吸は流れに任せるしかない。水に沈みながら、最低限だけ呼吸する。
「あと少しの距離だ。ほら、君ならもう少しで足がつく」
 空気が足りない状況で、ゆっくりと優しい声を出した。目が霞む。
 手が震えて、轡を掴む力が足りない。
「行って……」
 最後の力で、馬の尻を思いっきり蹴った。馬が前に進めているのを見ながら、フウの意識は微睡んでいった。

―フウ!
 誰かの呼ぶ声。
(おじいちゃんかな。火葬したから、空にいると思ってた。
 また会えるなんて、嬉しい……)
 誰かの腕が、フウの腕を掴み、そして抱き寄せられた。
(こんなに逞しかったっけ。ああ、おじいちゃんが元気だった頃はこのくらい大きかった)
 子供の背丈のフウに比べ、憧れの舟乗りは大きかった。

―フウ!
 別の声。一人や二人じゃない。
―どけ! ……の警護がなんだ! 舟を……ないとフウが……!
―フウを……いるあの貴族まで沈むぞ! さっさと通し………!
 怒号に身を震わせると、
「力を抜いてくれ」
 深く、優しい声が耳元で囁かれた。自然と体から力が抜けて、水が体を浮かせてくれた。



 服の重さが、ずっしりとのしかかる。
 誰かの腕から降ろされ、背に感じるのは、安定した地面の固さ。
 空気に満ちた世界を風が撫でる。
 耳から入る音は、片方分、水に閉ざされている。
「君が溺れるなんて、私はとんだ疫病神だな……」
 水に反響する男性の声。
―悲しい声を出さないで、おじいちゃん。
 フウは口を動かす。通じたのか、硬い手がフウの手を握った。
 一瞬感じたのは水のような冷たさ。次に感じたのは血潮の熱さ。
(生きてる……)
―おじいちゃん、皆は無事?
「ああ、馬も、殿下も岸に着いている」
 おじいちゃんのぼやけた像が、微笑んだ。
 フウも、自然と微笑む。
 目蓋がまた、重く、暗く……。
「君は本当に優しくて、……綺麗だな。私とは、住む世界が違う……」
 水が一滴、フウの頬に降る。
(どうして)
 こんなに側にいるのに。
(あ……)
 フウの頬を伝った水が、耳の水泡を割った。
(もう、おじいちゃんはいないんだ)

「寂しい」
「……フウ?」
 フウのことを気づかう声。こんなに心配してくれるのに。
「違う世界なんて、言わないで……」
 貴方の笑顔が、僕の前では悲しげに歪む。それでも……。
「……イグス様」
 握られた手が、震えた。
 沈黙が訪れると、フウの意識を波が引きずっていく。
「私は、本当は……」
 すがりつくような声が、フウの意識を引きとめる。
「君を側で守りたい。君の舟に、もう一度乗りたいんだ……」
 ふっと、体が軽くなった。
 怪我をする前、いや、それ以上に。体が浮き上がりそうなくらい、高揚する胸。
 握られた手に、もう片手を伸ばし、彼の腕を抱きよせて、
「イグス様……」
 夢見心地のまま、夢に落ちた。


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