105.夢のような
失神するように眠ったサヤの隣で、ローは一睡もすることができなかった。
サヤの行く道を阻むことなんてできないのに、手放すのも嫌で、耐えがたくて、それを考えると眠れなかった。
ふかふかのきのこの上は寝心地がずいぶん良かったらしく、木漏れ日の下で気持ち良さそうに寝ていたサヤは早朝を過ぎた頃に目を覚ました。
「んにゃ……」
「おはようサヤ」
場所がわからず不安になる前に声をかけると、サヤは「キャプテン」と本当に嬉しそうに笑った。
「おはよう」
目覚めの『ぎゅー』にハグを返す。これが今後ないなんて耐えられなかった。
「ん……」
キスするとサヤはゆっくりと受け入れる。あと何回、サヤとこういう時間が持てるだろう。
寸暇を惜しんで押し倒したローを、サヤは嫌がらなかった。
「キャプテン元気だね」
「疲れたか? したくない?」
首を振ってサヤは笑った。
「キャプテンとするの好き……」
心臓を鷲掴みにされたみたいだった。そんなこと言われたら手放せなくなるのに、サヤはそんなことちっとも知らない顔で世界一可愛らしく笑う。
「……サヤはひどい奴だな」
「なんで!?」
好きって言ったのにどうしてそんなこと言われるのかわからず、サヤは動揺した。そんな彼女をきつく抱きしめて、ローは気持ちを封じ込めようとした。
(離れたくない。せっかく会えたのに、また別れるなんて嫌だ。誰にも盗られたくない……)
サヤが海に出たいと言うなら止められない。それは仕方ない。でも海に出た先で誰か他の男を好きになって、そいつのものになるなんて考えただけでおかしくなりそうだった。
「キャプテン……?」
思い詰めるローになにか察したのか、困惑した様子でサヤはローの背中を撫でた。
「どうしたの? なにか悲しいの? みんなとお別れになるから……?」
クルーと別れるのは確かに寂しい。でもそれは納得しているし、どのみち永遠に一緒に居るわけではないのだから割り切りもついた。今生の別れではないのだから、またいつかどこかで会う機会もあるだろうという楽観もある。
でもサヤのことだけは割り切れなかった。手放すなんて嫌だ。誰か他の男のものになるなんて考えたくもない。
「俺はここにいるから……何年でも、何十年でも待ってる。だから旅が終わったら、いつかまた来て欲しいんだ。サヤと一緒に暮らしたい。そうしてくれるなら俺はサヤのために何でもする」
せめて約束がほしい。グランドラインにはそんな退屈な約束なんて吹き飛ぶほど刺激的なものが山程あると知ってる。サヤの気持ちも変わってしまうかもしれない。
それでも何か、未来に希望が欲しかった。サヤは約束を破ったりしないと信じているから。
ローの言葉に、サヤは深刻な顔でうつむいてしまった。考え込むように黙り込んで、耐え難い思いでローは彼女の決断を待った。
やがてゆっくりと、サヤは首を振った。
受け入れられなくて、ローは「頼む」と懇願する。
「約束してくれるなら何だってする。サヤの好きなものを何でも用意して待ってる」
ウソでもいいから約束がほしい。でもサヤは強固に首を振るばかりだった。
「キャプテンのいない海なんか嫌だよ……」
せっかく会えたのに離れたくない、とサヤはローにすがりついた。
「私、邪魔? ならキャプテンがコラさんと居る時は離れてるようにするから。昨日は結婚しようって言ったのに、なんで海に行かせようとするの? 数年でも嫌だよ。キャプテンのいない海で生き残れる気がしないもん……」
抱きついてくるサヤの言葉にローは混乱した。
「海に行かせようとしてる訳じゃない。本当は行ってほしくないんだ。そばにいてほしい。でもサヤは冒険が好きだろ。全部に行きたいって言ってたじゃねぇか」
「キャプテンが『どこに行きたい?』って聞いてくれたから。今までそんなこと聞いてくれた人がいなくて、キャプテンとずっと旅がしたいって思ったからだよ。……キャプテンのいない海なんか行きたくないよ」
抱きしめながら、信じられなくて、手が震えた。
「冒険とは正反対の日々になるぞ。きっとすごく退屈で、嫌気が差すかも」
「じっと座って、計算とかしなきゃいけないの? 毎日? 一日中? 外に出ちゃだめ?」
「計算なんかしなくていい。外も好きなだけ出ていい」
「お買い物したり、猫と遊んだりできる?」
「もちろん」
「秘密基地作ったり、岩に登ったり、ボートで川下りは?」
「それは俺が一緒にいるときにしてくれ」
遭難したり、落ちたり、流されたりする場面が容易に浮かんでローは釘を差した。サヤはたまに自分の目が見えないことを忘れてないだろうか。
「キャプテンも一緒に遊んでくれるの?」
ローの提案にサヤはキラキラと顔を輝かせた。退屈への不安なんて彼女は微塵も感じていないようだった。
力が抜けて、ローは笑った。サヤがいるのに退屈なんて、そもそも成立するわけがなかった。
「当たり前だろ。サヤのしたいことに何でも付き合う。サヤのために何でもするって言っただろ」
抱き寄せて約束すると、サヤは新しい島に上陸するときのような顔をした。
「楽しみだね! いっぱいいっぱい、一緒に遊ぼうね」
海より自分を取ってくれるんだと、そばにいてくれるんだという実感がやっとわいて、泣きそうな気分でローはサヤを抱きしめた。
「……ありがとう」
愛してる、と自然と口から出た。サヤはちょっと警戒した顔になって、「女みたらしはみんなにそういうこと言うんでしょ」と拗ねる。
「言わない。サヤだけだ」
「し、信じないもん」
「結婚しよう」
「そんなことまでみんなに言うの?」
「俺と結婚したくないか?」
「したいよ。すっごく。……でも結婚詐欺の気しかしない。ハートの海賊団の船長だもん。女の人の心臓を射抜くのが得意だもんね」
「何ちょっとうまいこと言ってんだ」
ローは笑ったが、サヤは拗ねた顔のままだ。
「OKはもらったし、いいけどな。サヤがいつまで疑うのか、楽しみにしてる」
「結婚式したって疑うもん。絶対重婚で、隠し子が訪ねてきたりするんだよ」
「サヤの中の俺のイメージってそこまでひどいのか」
「……だってこんなに幸せなこと、あるわけないもん」
確かに夢みたいだと、ローも思った。コラさんが生きていて、サヤに再会し、こんな幸福が現実なのかと。
◆◇◆
「夢だよ! 起きて!! サヤ、取り込まれちゃダメだ……!!」
夢を司るヘイアン国の海神、ケトスは叫んだ。
彼がいるのは夢の中だが、そこには現実と変わらない光景が映し出されている。
ハートの海賊団のクルーは誰一人例外なく、島に上陸した時から倒れていた。
伝説の島カナンは500年も前から、ユメユメの実の能力者が支配する夢の国だ。訪れたものは夢に囚われ、それが夢だと気づくこともなく、衰弱死するまで夢に囚われる。
島はそうして死んだ人々の、おびただしい白骨で埋め尽くされていた。
「サヤ……!!」
夢の国の存在をケトスは知っていた。ユメユメの能力はケトスの干渉をはじく、この世で唯一の夢を作り出すからだ。
仲間が危険な島に向かっていると気づき、サヤは夢を通じて警告しようとした。しかしすでに能力圏内だったせいでサヤは夢に囚われ、中に組み込まれてしまった。
「起きなきゃダメだ!! その夢は必ず破滅する!! 誰の心も粉々に打ち砕いてしまうんだ……!!」
叫びながら声は届かないとケトスは理解していた。
彼らが見ているのは幸福の夢だ。現実では起こりようのない幸福が、夢の中では実現する。それを否定して現実を選べる人間なんていない。
「嫌だよ、サヤ。僕を一人にしないで……っ」
数百年ぶりに現れた、自分の声を聞いてくれる王。失いたくないと、無意味と知りながらケトスは叫び続けた。