シュレディンガーは昏睡するファルの前へ佇むと、指先で器用に術式を描いてゆく。
その動きはまるで指揮者のようになめらかで、指先を追うようにあらわれる光の帯は花びらを散らすように空へと溶け、あまりに幻想的な光景にアスターは息を飲む。
「さあ、起きてファル!目覚める時がきたよ!」
すっかり出来上がった光の魔法陣は、シュレディンガーの声をきっかけにガラスが砕けたように弾け散る。
光の粒子の向こう側、ファルの新緑色の瞳がゆっくり開いたのをアスターは見た。
「ファル!」
思わず飛び出した声は覚醒への最後の呼び水となり、満足気に微笑みを浮かべたファルは視線に弟を捉えた。
「やあ、おはよう…随分と長い昼寝になってしまったかな…?」
すこし枯れた声は封じられていた証。
兄を戒めてしまった呪縛から解放されたアスターはその場に膝をつき、ようやく肩の荷を下ろした。
「本当に…本当にすまなかった…!」
絞り出した声は懺悔の色に染まっていたが、謝罪の言葉を向けられたファルはなんども頷き、その目を細めて笑った。
「なぁに、ぼくの運が悪かっただけだよ、誰のせいでもないさ」
絡みついた蔦から解放され、久し振りに踏みしめる地面の感触を確かめるようにゆっくり足を踏み出したファルはきらりと光る左の瞳で、自分を起こした運命の黒猫を見た。
それは満足そうにも、深い理解を示しているようにも見える、不思議な感情を秘めた瞳だった。
「ぼくを起こせたという事はきみが運命の黒猫、シュレディンガー…だね?」
彗星を閉じ込めたような無限の広がりを感じさせるファルの左の瞳は、間違いなくシュレディンガーだけを捉えている。
「ええ、私がそうよ」
「ふふ!見た通りの子で安心したよ、起こしてくれてどうもありがとう」
ファルの言葉に尻尾を揺らし、シュレディンガーはファルの不思議な左目を見る。
(…間違いない、やっぱりラプラスの瞳の持ち主なのね)
凝固された魔力のような不可侵である無限の力を秘め、少し先の未来を見通す力を備えたラプラスの瞳。
それに無警戒でいられるほど、シュレディンガーの感覚は鈍くはなかった。
世界を飛び越えられる自分を観測できる生まれついた贈り物のそれは、運命の黒猫が警戒をするに値するには十分な能力であり、唯一の奇跡を起こせる能力でもある。
「あなたがアスターに私を呼ばせたのね?」
「おっと、いきなり核心に迫るだなんてなかなかのお嬢さんだ」
警戒は確信へと変わり、シュレディンガーは一歩うしろへと下がりファルの出方を伺う。
どこか掴みどころのない様子は、まるで雲をつかむような感覚に似ていた。
「俺が呼んだ、とは…?」
二人のやり取りに声を挟んだのはアスターで、ファルは穏やかな表情を崩さず頷いてみせる。
「そうさアスター、君には特別な力があるんだ」
これには黒いネコミミを動かして反応したのはシュレディンガーで、自分の知らぬ生まれついた贈り物の気配を察すると遠慮することなくファルに問う。
「アスターの力って?」
「そりゃ植物の成長をコントロールできる力さ」
決して核心を話そうとはしないものの、そこにあるのは間違いなくラプラスの瞳で見た未来の光景だろう予測は付いた。
おそらくもっと深いなにかをファルが見ているのは確実で、シュレディンガーは彼の食えない一面に奥歯を噛み締めつつアスターの様子を伺ってみる。
顔色が優れないのは今までの後悔が大半であろうが、彼なりに自分の異質さを感じているのが伝わる。
(…予感がする、きっとここは始まりにすぎないんだわ…!)
高鳴る胸は到来する未来を予感させるには十分だった。
「そうなのね、わかった…私、あなたに興味がわいたわ!」
運命の黒猫はその瞳に自分を呼び寄せたアスターを映し、微笑みを浮かべて告げる。
「私、しばらくこの世界に留まらせてもらうわね!」