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青藍の海を越えて

手の中に鍵が握られている。
その感触に鮮明さを帯びた意識は、ゆっくりと浮上した。
ゆるゆると眠りから覚めるように顔を上げれば、どこまでも続いていそうな石畳の廊下が目に映る。
 「…あれ、ここは?」
世界を飛び越えた瞬間、運命の黒猫であるシュレディンガーはあきらかな異聞の狭間を嗅ぎ取った。
決して落ちることのないよう気を付けたつもりであったが、逆にそれが災いしたのだろう。
認識した事により狭間は運命を引き寄せ、彼女はまっさかさまに異聞の狭間へ落ちてしまったのだ。
 「あーあ、もう…こういう隙間から出るのって大変なのに…」
彼女は前にも似たような経験をしていた。
その世界は永遠に続きそうなほど長い螺旋階段をくだる世界で、降る足はやがて棒になったように痛めたし、いっそ飛び降りてしまいたいほど過酷な世界だった。
それを思い出すとすっかり肩を落とし、手に握っていた鍵をまじまじと見つめてみる。
古ぼけた鍵は小さなフジツボや珊瑚の欠片がはりついており、まるで深海に忘れてきたかのような風貌は潮の香りをただよわせ、まるで寄り添うように手の中におさまっていた。
 「きっとこの鍵を使って進まないと、この世界からは出れないのね…よし!」
悩んでも仕方ないとなかば諦めたシュレディンガーは、己の勘を信じて廊下を歩きだした。


さて、一体どれだけ歩いただろうか。
同じ景色に飽きる頃、ひとつの扉がようやく姿を現し、それは出口であることを暗示させていた。
木製の扉は古き時代を感じさせ、その中からはオバケなどのろくでもないものが飛び出してきそうであり足がすくむ。
それでも未来への可能性である鍵穴があるのだから、歩き疲れたシュレディンガーが選ぶ未来はひとつだけ。
 (うぅ…もう歩くの疲れたし、さっさと脱出しよう!)
潮の香りをまとう鍵を鍵穴に差し込むと、それは抵抗なく奥まで難なく入り込み、ひねればカチャリと音を立てて解錠することができた。
扉はすぐさま魔法のように溶け消え、開かれた扉の向こう側からはつよい風がシュレディンガーの髪をゆらす。
 (あ、海の匂い…)
視界がゆれ、景色は暗転した。
そこは彼女が歩いてきた廊下ではなく、大海原に浮かぶ一艘の小さな船の上であった。
カンカンに照らす日差しと潮の香りにたじろくが、それよりも警戒すべきは別であることにシュレディンガーは尻尾の毛を逆立てる。
 「…おい、お前さん一体どこから来た?」
彼女の目の前、そこには青藍色の長髪を風になびかせた一人の青年が怪訝そうにこちらの様子を伺っていたのだ。
その手はすでに彼の武器であろう剣を今まさに抜かんとし、歴戦の戦士であることが見て取れる。
青年の風貌からなにやら猛々しい気配を感じ取ったシュレディンガーは、ここで下手なやり取りはするだけ無駄であると判断し、まずは手の内を見せねば自分が危うくなるであろう予感を信じ、なるたけ落ち着いた素振りで深呼吸をした。
 「私はシュレディンガー、世界を渡り歩いていたらここへ落ちてしまったの」
 「なに…世界を渡るだと…?」
深海のような瞳を細めた彼の手は、それでも剣から離れることはなかった。
あまりにも好戦的な相手で和解できないようであれば世界を渡ってしまえば問題ないのだが、今回はどうやらその手がつかえないらしい。
いくら世界を渡ろうと意識しても見えない壁のような感覚が邪魔をして、渡ることができないのだ。
 (やっぱり間違いない、ここはまだ異聞の狭間なんだ…)
シュレディンガーは両手を広げ敵意がないことを示し、こくりと頷く。
 「そう、私は世界を渡ることができるの…今はちょっと迷子になっていてできないけど、決してあなたの敵ではないわ?」
全身くまなく観察し終えたのだろう、敵意がないことをようやく悟った青年は警戒しながらも剣から手を退け、なんとも気怠そうに長い髪をゆらした。
 「なるほどな…じゃあお前さんも俺と同じで、ここで足止めというわけか…」
 「同じ…?」
 「ああ、まったくもって嫌になってしまうが、どうやら俺もおなじ迷子らしいからな」
よくよく彼の話を聞けば、彼も訳あってこの異聞の狭間に迷い込んでしまったのだという。
彼は名前をファーディスと名乗り、本来であればとある海を支配する海賊であることを教えてくれた。
 「俺がここへ来てから一刻ほどあれこれ調べたが、そもそもここは海ではない」
 「どうして?私たちは今、こうして海に浮かぶ船にのってるよ?」
首をかしげるシュレディンガーにファーディスはやれやれといった様子で甲板から海へと身を乗り出し、そのまま海へと落ちていってしまったではないか。
あまりの出来事に目を疑う暇なく、シュレディンガーは慌てて彼が落ちた海を覗き込み、そこで異質ともいえる光景に言葉を失った。
 「ファーディス!あなたってば水面に立てるの!?」
 「まあそこは大した問題じゃない、それより俺が立ってる下が問題だ」
彼は自分の足元に広がる海にしか見えないそれを軽蔑するように見下し、心底嫌そうにため息を吐き出した。
 「これは決して海ではない、すくなくとも俺が知る存在とは掛け離れた、海らしく振る舞ってる紛い物だな」
船の上から覗き込むシュレディンガーはファーディスの言葉の真意を探ろうと、海らしきそこにある存在を注意深く観察してみた。
波は絶え間なく水面をゆらし、船にぶつかれば白く沸き立ち、遠くからも近くからも潮の香りを運んでくる。
陽の光にキラキラと揺らめく水面は宝石のように美しく、目を細めるほどに眩い。
 (これが海じゃない…?)
波の音に耳を澄ませていると、自分を見上げてきたファーディスと視線が交わる。
青藍の瞳は多くを語ることはなかったが、異質の水面に佇む彼を通して視る海は確かに彼女の知る海ではなかった。
 「あ、生き物の気配がない…?」
 「正解だ、つまりすべての母たる海ではない…そういう事だ」
かりそめの海面から軽々と飛び上がり労せず甲板へと戻ってきたファーディスは、自分の動作にいちいち驚く様子のシュレディンガーを実に面白そうに笑った。
 「ふふ、猫というわりには頭が回るようだな?」
 「まあ!失礼な海賊さんね!」
すっかり怒りを顕わにするシュレディンガーの反応は予想通りで、からかい甲斐のある退屈しのぎができたことにファーディスはさらに笑う。
 「ははは!いや…いい話し相手ができたと思ってな、すまない」
 「もう!とにかく!ここから出るためには秘密の扉があるはずなの、それを探さなくちゃ!」
機嫌を損ねてしまった運命の黒猫は世界からの出口を求め、一足先に船内へと向かってしまった。
その後ろ姿を楽し気に見送りつつ、先ほどより傾き始めた太陽に夕暮れの気配を感じながら、ファーディスは訪れるであろう夜の帳にどうしたものかと頭を悩ませていた。
決して十分な備蓄などない、隔離されたような迷子の船。
潮に任されるまま進んでいるのは確かだが、現状維持の危険さは海賊である彼が誰よりも分かっていた。
 「船室はすべて調べたが、まあ…やるだけやるか」


 「もー!全然それっぽいのないよ!」
散々あちこちの扉を開け、しまいには戸棚の引き出しまであけたのにも関わらず成果を得られなかったシュレディンガーは、航海するにはあまりに殺風景な船内、その床に身体を放り出していた。
 「だから、船内にはそれらしいものはないって言っただろ?」
 「ファーディスが嘘ついてるかもしれないじゃん!」
 「ふふっ、さっきからかったのは悪かった、決して悪気はなかったんだ」
 「また笑ってるし…!」
からかわれた事を根に持つあたりがさらに猫っぽいと思いつつ、ファーディスは申し訳程度に積まれている備蓄品から目星をつけて取り出す。
しっかりライムが積まれているのを確認し、この先、しばらく現状維持となったとて壊血病の危惧はしなくてよさそうであることを安心し、それとなしに話し相手である横で寝転がっている猫が柑橘類を口にすることができるのかと聞いてみたい気が沸き起こる。
しかしこれ以上「猫扱い」すると口をきいてくれなくなりそうだとも思うし、その結果、おそらく安全であろう干し肉を投げてやることにした。
 「ほら、食わないと脱出するまで持たないぞ」
放り投げられたにも関わらず見事に受け取ったシュレディンガーは、さも不思議そうに干し肉を見つめ、納得いかなさそうにファーディスを見た。
 「…それは一応食い物なんだが、わかるか?」
 「それくらいわかるよぅ!私は食べ物なんかなくたって平気なの!」
からかう気こそなかったが、今度は変に気を使ったのが逆によくなかったと反省しつつ、聞き捨てならない言葉にファーディスは眉をひそめた。
 「…まさか、食べなくても平気なのか?」
先ほどとは打って変わった彼の様子に、すこしばかり気を良くしたのだろう。
ゆっくりと起き上がったシュレディンガーは得意げに頷いてみせた。
 「そう、私は満たされてる私を自ら観測し続けることによって存在し、こんな状況でだって決してお腹が減ることはないのよ!」
よくよく話を聞けば観測というそれは彼女の特性で、自分を含めた誰かしらに存在を定義されることでそうあるべき状態を維持できるのだという。
 「つまり私が誰よりも強く、決して打ち負かされることのない存在だと定義されたら、それはそうなるの」
 「へえ、それはまた面白いな…」
 「ふふっ!試してみる?」
楽し気に笑うシュレディンガーに、ついこの猫はそういう不可侵的な存在なのかもしれないと思ってしまったことで、既に敗北を感じたファーディスはしずかに首を横に振るしかなかった。
 「やめておこう、無駄な消耗は避けるべきだからな」
もうそこまで近づいてきている夜の気配を感じ、歴戦の海賊は沈みゆく夕日を船内から見守るだけだった。
 (太陽の位置からするに西に進んでいるようだが…さて、どうなるか…)
やがて太陽は沈み月が顔を出したものの、必要な灯りなど確保できる宛てがあるわけもなく、ファーディスは海を乗り越える者として船の行き先を案じ甲板へと出ていた。
風はあるものの、帆のない船はもやは筏といっても過言でないほど頼りなく、計器すら積んでいない船の進度などさっぱり分からない状況にすくなくとも焦りはあった。
 (せめて星がわかれば…)
たしかに星は出ている。
しかし月の位置から察するに、それらは見たことのない星の位置であった。
知識として体得した位置関係とはまったくあべこべで、北を指し示す星すら存在しない星空は役に立ちそうにもなかった。
 (そもそも太陽が沈む方角が西というもの、これはあやしくなってきたな…)
すべての経験が役に立ちそうにない世界の中、暇そうに隣で宵闇色の海原を見つめる猫の存在はなぜか安堵できた。
自分ひとりであれば冷静さを欠いていたかもしれないし、そもそも世界からこぼれおちた異聞の狭間だという認識すら持てず混乱を極めていた可能性もある。
共に分かち合える存在の大きさを再確認し、すっかり冷え切った夜風に髪を揺らした。
 「海の夜風は凍えるほど冷えるが、そんな薄手の恰好で大丈夫なのか?」
ファーディスに声を掛けられたシュレディンガーは顔を上げ、まるで死の宣告を受けたかの如く絶望的な表情を浮かべていた。
 「な、なんだ…どうした?」
 「…さむい…」
今の今まで平然としていたはずのシュレディンガーはその場に座り込み、自らを抱えるように縮こまると息を白くさせはじめたのだ。
 (まさか…!)
彼女の起こした突然の変化に、ようやく自分が現環境を「夜風に当たった身体は氷のように冷える」と定義してしまったことに気付いたファーディスは、自らのマントを外しそれをシュレディンガーに与えた。
 「すまなかった、そうか…お前にとっての存在の定義とはこういう事なのか…」
震える手でマントを受け取り、シュレディンガーは力なく笑うと「へいきだよ」と小さく答えた。
観測されることで変化する不思議な猫は、あまりに無敵であまりに無力で、今にも消えそうなほど奇跡的な存在に見える。
今にも凍死してしまいそうに震わせる身体をマントごと抱きしめ、体温を分け与えるとすこし寒さが和らいだのだろう。
シュレディンガーはくすぐったそうに笑った。
 「ありがとうファーディス、私は平気だよ…」


身を寄せあいながら超えた夜は静かなものだったが、いつのまにか眠っていたファーディスを起こしたのはシュレディンガーの声だった。
 「起きてファーディス!小さいけど島があるよ!」
その声に飛び起き、彼女が指し示した方向へと視線を向ける。
確かにそこには小島があり、やたらと木箱らしきものが積みあがっているのが肉眼でも見えた。
 「なんだ、あの島は…」
 「きっと出口はあそこにあるよ!間違いないよ!」
いくつもの異聞の狭間を経験してきたシュレディンガーには確信があった。
たとえファーディスが反対しようとも小島に上陸し、あの箱の中から出口へつながる道を見つける未来を信じていた。
 「その出口とやら、絶対にあるのか?」
 「絶対にあるよ!私は嘘つかないもん!」
シュレディンガーの紺碧の瞳は信頼を勝ち取るには十分すぎる輝きを放ち、ファーディスは青藍の瞳をゆらめかせるとふたたび小島を見つめる。
昨夜の出来事をかみしめ、疑いの気持ちをすべて捨て去ると、海賊は不敵に笑みを浮かべて猫を見下ろした。
 「そうだな、お前こそが出口をみつける鍵だ!」
運命の黒猫を出口へ導く存在であると定義し、それを観測した彼は、ようやくこの異聞である世界から抜け出せる自信をみつけたようだった。
定義されたシュレディンガーは自信たっぷりに頷き、ファーディスの武骨な手を握りしめる。
 「ふふ!私に任せて!さあいこう!」
引かれた手は力強く、二人は船から飛び降りるととうとう小島へと上陸を果たした。
島に無数にある箱は人が抱えられるほどの大きさで、二人は出口への鍵となる「特別な一個」を探すことにしたのだが、そこはさすが定義づけられたシュレディンガーの目利きすさまじく、ものの数分で不思議な気配を感じる箱を探し出すことができたのは幸運の贈り物といえた。
 「ふむ…これが…?」
 「間違いないよ、ここから違う世界の香りがするもの!」
彼女が指し示す箱の隙間からは確かに潮風とはちがう、どこか甘い花のような香りが漂う。
 「じゃあこの箱を開けたら、お互い元の世界に帰れる…そういう事だな?」
 「さすがね!分かってるじゃない!」
すっかり自分の扱いを理解したファーディスの振る舞いに気を良くしたシュレディンガーは、出口の扉である木箱をゆっくりと開けてゆく。
つよくなる花の香りは脱出の予感を知らせたがそれは別れの暗示でもあり、途端にさみしさを覚えたシュレディンガーは手を止め、自分の隣に立つ海賊の青年を見上げた。
青藍の長髪、潮の香りをまとった不思議な海賊。
どこか名残惜しそうな表情を浮かべた黒猫の隙を見逃さず、悪い海賊は彼女のふわふわな耳に口づけを落とす。
 「!」
驚いたように身体を引いたシュレディンガーは、彼が財を奪い栄える性質を持つ海賊であることを思い出し、自分がすっかり足元をすくわれていた事態に思わず喉を鳴らしてしまった。
 「油断大敵とはこの事だな、ふふ!」
 「もう!また私の事、からかったのね!」
にゃあにゃあと抗議するシュレディンガーをよそに、ファーディスは木箱を見つめ言葉をこぼす。
 「一緒に迷子になるには、悪くない相手だったろう?」
もう二度と訪れることのない異聞の世界。
ありえない世界の狭間、おこるはずのない出会いに、シュレディンガーは頷く。
 「ええ、そうね…とても楽しかったわ!」
そして、運命の黒猫によって開かれてゆく出口への鍵。
揺らめき始めた視界に暗転の気配を感じ、ファーディスは夢幻のような存在に最後の別れを告げた。
 「さようならシュレディンガー、良い旅を」
薄れゆく青藍の潮風を追うように、シュレディンガーも別れを告げる。
 「ありがとうファーディス、あなたもね」
鍵である箱を開けきってしまえば世界は蜃気楼のように揺らぎ消え、シュレディンガーは本来向かうはずだった世界へと到達していた。
天高く甘い香りが風に乗り、花吹雪が舞うそこは可憐な花々に彩られている世界。
それでも思いおこされる潮風の香りと、広大な海の光景は今もまぶたの裏に生きており、運命の黒猫は深呼吸をした。
 (きっと忘れないよ、悪い海賊さん!)
踏み出す一歩は、奇跡を起こす一歩。
シュレディンガーはこの世界の王に会うため、新たな未来を歩き出したのだった。

テンタイ→カンソクのえ★先生のところのファーディスさんが好きすぎて、ついやらかしたやつです。
悪い海賊のころが大好きですー!