紫電の瞳はゲフェニアで見たときよりもずっと冷酷で、それはまるでこの世のすべてに興味などなさそうな心を浮かべていた。
「…ドッペルゲンガー…」
ナルに呼ばれ、ゲフェニアの王は目を細める。
床に腰を下ろしたままのナルへ手を差し出し、それが立ち上がるように促してくれてるのだと分かる頃には影丞がバイブルを片手に全神経を尖らせていた。
「聖職者の男よ、無駄なことはやめろ」
ナルの手を握りながら、ドッペルゲンガーは影丞を見ることなく警告を発する。
「そなたの力では敵わぬこと、わかっているだろう?」
「お見通しってわけか…、でも目の前でナルを襲わないとも限らないじゃん?」
苦笑しつつプリーストの端くれとして悪魔の好きなようにはさせるつもりのない影丞は、丁寧にナルを立ち上がらせた様子を見てその可能性がないことを確信した。
二人の重なり合う指先は互いの信頼を予感させ、決してナルから離すことのない紫電の瞳は彼女以外に興味がないことが明らか。
「影さまありがとう、でも大丈夫だから」
ナルの言葉もあり、影丞は肩に入っていた力を抜き、どっと疲れたようにため息をつく。
「でもま、思ってたやつより安全っぽくて一安心したよ」
その言葉にナルは小さく笑むと、落ち着いた雰囲気を察したドッペルゲンガーはようやく辺りを伺い始めた。
見慣れない洒落た室内は物が多いながらも人間が生活しやすそうな環境であり、悪魔にとってはすこしばかり息苦しい空間に見える。
「…ナル、ここは?」
「私が所属するギルド、ストレイキャットだよ」
答えから連想されたのはゲフェニアで一戦を交えたあの時の顔ぶれであり、ここが彼女らのねぐらなのだと思えば、息苦しさもすこしばかり落ち着いたような気がした。
「それで、我をここに呼び出したのには、なにか理由があるのだろう?」
彼の問いかけにナルと影丞は顔を見合わせ、先ほどのやりとりを改めて説明する。
するとドッペルゲンガーは口元を緩ませ、二人を鼻で嘲笑うと咳ばらいをして誤魔化してしまった。
「な、なにか言いたげだけど、なに?」
「いやなに、人間らしい浅はかな考えだと、そう思ってな…ふふ!」
そして再びナルの手を取り、ドッペルゲンガーは確かめるように手を撫でながら告げる。
「もう我が人間を襲う理由がないのだよ、ナル…」
「あ…」
エルフの秘宝は地下に沈んだゲフェニアの奥底で眠り、もはや人間がゲフェニアに侵入する手段も潰えた。
今ここで放り出されたのは秘宝の護り手だけであり、憂う瞳は孤独への不安を浮かべている。
様子を見守っていた影丞は納得した面持ちで幾度も頷き、この状況を作ってしまった自分の反省を込め、ナルへと助言を授けることにした。
「それなら、ナルが新しい理由を作ってあげなくちゃいけないな、生きるための理由をさ」
「わ、私が!?」
「そうだよ、責任取るのも飼い主の役目だぜ!」
「か、飼い主…!」
聖職者同士の終わりのなさそうなやり取りを見守るドッペルゲンガーが見知った気配を感じ、玄関へと視線を投げる。
「…あの赤毛のハンターがくるぞ」
「ただいまーっと…お?」
荷物を大量に抱えたステアとユグ、そして明らかになにかやらかした影丞とナルとゲフェニアの悪魔が鉢合わせする形で顔を突き合わせることになった。
すぐさま臨戦態勢モードのステアに慌ててナルが事情を説明すれば、そこはやはり矛先が向くのは影丞なのは間違いなく、ステアは反省する気などない影丞を睨みつける。
「かーげーじょーおー!」
「おひょぉ…ステアが怒っちゃったよ!助けてナル!」
なんとかナルを盾にステアの怒りをかわそうとするが、そこを阻止したのは意外にもドッペルゲンガーで、ナルをうまく誘導し自身の後ろに隠れさせれば、もはや影丞にステアの鉄槌から逃げる術はない。
耳にタコができる程ステアにより反省させられた影丞は、もはや見る影もないほどしょぼくれることとなった。
ユグが買い出し後のティータイムのため紅茶を振る舞えばステアの怒りも頃合いよく収まり、まずはこれからどうするかを議題にテーブルを囲むことにした。
「まあナルが理由を作ってやるっていうのは、ありだと思う」
ステアは落ち着いた様子でドッペルゲンガーを伺いつつ、特に危険な動きも見られない穏やかな様子に正直驚いていた。
ゲフェニアで死闘を繰り広げた相手とは思えず、なにより今はただの青年の剣士にしか見えない。
(意外っちゃ意外だけど…)
紅茶の口に含みながら彼の視線の先を見れば、そこにはやはり抑止力であるナルがおり、そのせいも相まっての事だろうと納得することにした。
「うちはそれまでここにいてもらってもいいけど…」
「ぼくも反対しないけど…ミカとファルさんはどうなんだろうねぇ?」
顔を見合わせるステアとユグの言葉に、ナルは沈黙でドッペルゲンガーを見る。
彼は相変わらず人間同士のやりとりに興味はないようで、ナルの視線に気づくと目を細めるばかり。
ミカは代々続く家柄のこともあり、またようやく家に戻ったばかりでトラブルの種を撒くわけにはいかないであろうし、そうなれば彼女の心とは裏腹な答えを選ばなくてはならないタイミングだと予測できるが、ファルに関しては一概にそうも言えない。
ゲフェニア調査隊の生き残りであり、ましてや身体を乗っ取られた恨みも新しい記憶のなか、ようやっと封印したというのに弟子がふたたびゲフェニアの悪魔を解放したとなれば退魔師としても動かざるをえないだろう。
「ちょうど大聖堂にいってるお師匠様の理解を得るのは厳しいかも…」
ナルの言葉にステアもユグも険しい表情を浮かべ、互いに顔を見合わせる。
「…ファルさんは単純に、個人的な恨みで動きそうな気もするけどな…」
「う、うん…あれでしょ…?」
小声で話しながらファルが弟子を見守る眼差しに必要以上の感情を込めているのに気付いていた二人は、それとなしに意見をすり合わせ差し迫るファルと寿の帰宅に焦りを感じていた。
窓の外は夕暮れの気配を漂わせており、おそらく数刻ほどであの二人が帰還するのは間違いない。
この新たな問題の発端となった影丞を巻き込み、それぞれの意志を確認していくと自然と答えはしぼられ、話をまとめあげるのはギルドマスターを務めるステアであり、結果ムダのない作戦会議となった。
「よし、それじゃあこうしよう」
ナルとドッペルゲンガーには一晩どこかに身をひそめてもらい、ファルについては一晩かけてステアたちによる説得を試みる。
ミカに関しては後日改めてギルドへ顔を出した際に、まとまった話を伝えることで各自納得をした。
「でもステア様、本当にお任せしていいの…?」
師であるファルの説得がどれほど大変な大仕事なのか、一番よく知っているナルはステアへ申し訳なさそうにこれが最後だとばかりに尋ねてみた。
ナルの不安要素を察しながら、ステアは笑顔を浮かべる。
「なんとかしてみせるさ!うちらに任せとけ!」
ステアの言葉は暗雲を払う一陣の風のように不安を蹴散らし、紅の瞳を優し気に細める表情はすべてを委ねるのには十分すぎるもので、ナルはただ流れに身を任せるだけの己の考えの甘さに反省しつつ、頼もしいギルドマスターへ感謝するのであった。
「さあ、ファルさん達が帰ってくるまえに出発した方がいいよ」
そう告げたユグは手提げ籠に少しのパンと果物を入れて手渡すと、深い森林色の瞳でドッペルゲンガーを見つめる。
「ナルのこと、お願いするね」
ユグの真剣な願いはゲフェニアの王の心に届いたようで、彼の紫電の瞳はゆっくりと閉じられ、ふたたび開かれるときは強い決意の意志を示していた。
「ああ、丁重に扱おう」
そしてナルとドッペルゲンガーを裏口から外へと逃がしてやったステア達は、全力で強敵へ立ち向かう準備を進めるのであった。
陽が落ちたゲフェンの路地は昼間こそ人通りのある賑やかな道でも、夜霧が漂い始める頃にはすっかり人の気配はなくなる。
ましてや昼間でも人通りの少ない細い路地などは、夜の帳がおりれば足音すら聞こえない。
師に連れられてゲフェンへ初めて訪れた際、裏路地は人通りが少ないから気をつけるように言われていたのを思い出し、今はなるべくそのような道を選んで進む。
すっかり戸締りされた扉や窓の隙間からあたたかな灯りがあふれる様子に、先ほどまでストレイキャットで過ごしていた事が嘘のように思えてきた。
(手、暖かい…)
迷わぬようにと繋がれた手は人間の手と遜色ない感触で、ナルはそれが悪魔の手だとはとても思えなかった。
家々のあいだ、細い道を縫うように進み、階段を幾度か下り、ふと足を止めて建物のすき間から見える大きな白い塔を見上げたナルは呟いた。
「どうしよう…このままだと、ゲフェンタワーについちゃう…」
言葉とともに吐き出された息が白さを帯び、ゲフェンの夜の寒さを訴える。
昼間に湿気を感じるほど蒸していても、夜になるとミョルニール山脈から流れてくる冷たい空気が街を冷やし、魔法都市そのものが巨大な湖のすぐそばに位置するため、霧が出やすい特徴もあった。
白磁の塔は夜の闇の中でこそ威圧感をつよく与え、ナルの足をすくませる。
不安に駆られたナルが振り返れば来た道はすでに白い霧に包まれており、さらにナルを躊躇わせる。
「…タワーはまずいのか?」
そっと囁かれた声に心臓が飛び跳ねたかと思うほど驚いたナルは、声の主であるドッペルゲンガーへ視線を移す。
「タ、タワーはダンジョンになってるから…」
ナルはそう答えながらも、その答えに心を詰まらせた。
この時間帯にゲフェンダンジョンに潜る冒険者は皆無であり、人に見付からないという点ではゲフェンの街を一晩中歩き回るよりはマシである。
しかし、ナルがプリーストになってからファルの指導で潜入した際、住まう悪魔属の手強さに驚いたことを思い出すと体力的な不安が心をよぎり、ましてや魔力切れなどで枯渇を起こしでもすれば街を歩き続けた方が安全といえる。
「人には見付からないけど、モンスターが強いから…やっぱりダメ…」
すっかり元気をなくし俯いたナルを見た悪魔は、仕方なさそうに肩をすくめるとなにかを呟いた。
「え?」
聞き逃したナルに構うことなく、ドッペルゲンガーの足元からは瞬く間に青白い光が柱のように溢れ、その影より一頭のナイトメアが姿を現した。
(この子、知ってる…)
そのナイトメアを見間違える事など、ナルにとってはありえなかった。
あの魔力が枯渇する洞窟内で自分を生き永らえさせてくれた施しの一頭であり、命の恩人ともいえる。
ナルがナイトメアを見つめていると、颯爽と跨った悪魔が手を差し出す。
「つまり、人間に見付からねばいいのだろう?」
頷いたナルを急かすようにして強引に手を引いたドッペルゲンガーは、次の瞬間にはナルを抱えナイトメアに騎乗していた。
「あ、あの…私…!」
しっかり自分を抱きかかえてくれる逞しい手はどこか懐かしいが、それこそ禁じられた事のようにも思え、ナルは視線をナイトメアの揺れるたてがみに向けるだけで精一杯だった。
「振り落とされたくなければ、その身を委ねることだ」
もはや抵抗する意味などないナルは耳元でそっと告げられた言葉の通り、添えられた彼の腕に掴まる。
その様子を感じ取ったナイトメアはつよく嘶き、まるで空を飛ぶようにして走り始めた。
「口は閉じろ、舌を噛むからな」
走り始めたはずのナイトメアの背中の上、なぜか耳に風を切る音は聞こえず、ただすごい勢いで景色が次から次へと後ろへ流れてゆくのは不思議な光景で、まるで夢の中のようだった。
あっという間にタワーの入り口をくぐったかと思えば、すぐに景観は地下へと広がるダンジョンへと変わり、不思議なことにダンジョンに住まうモンスター達は、ナイトメアを見ると自ら避けるようにして道を開けてくれ、それがゲフェニアの王の威厳のせいであると気付くに時間はかからなかった。
(…不思議、起きながら夢を見てるみたい…)
そして、辿り着いたのは廃墟が立ち並ぶ地下三階、ファルが地下洞窟へと向かう際に使っていた転送装置がある朽ちた教会前。
「開け方は分かるか?」
「うん、やってみるね」
ナイトメアから丁寧に下ろされたナルは、あのゲフェニア遺跡へ降りるための転送装置と同じ位置に手を添えてみる。
形として失われた魔王の嘆きはナルの中で呼応するように魔力の流れに乗ると体を巡り、それに反応した転送装置はすぐさま起動すると光のアーチを作り出した。
「自分の中に魔王の嘆きがある感覚、なんだか変な感じ…」
苦笑するナルの手を取りながら傍らにナイトメアを従え、ドッペルゲンガーは共にアーチをくぐる。
視界は暗転し、そこはあの魔力を奪う隔離された洞窟であった。
「嘆きと混ざり合ったそなたの気配、我は心地よく思うぞ」
肩に手を添えられ掛けられた言葉に悪魔を見上げれば、真摯な瞳は真実だけを映していた。
「…ほんと?」
「人間の魔力の流れとは違う、嘆きだけとも言い切れぬ甘さを秘めているように感じる」
「甘い?私が?」
ナルの反応が面白かったのか、ドッペルゲンガーは口元を緩ませ頷いてみせた。
なんだか納得のいかない表情を浮かべながらナルはふたたび抱きかかえられ、ナイトメアに跨った二人はさらに下層であるゲフェニアを目指す。
「甘いって…ゲフェニアの空気も甘かったよね?」
ナイトメアに揺られながら呟かれたナルの言葉に、ドッペルゲンガーは笑みを浮かべる。
「そうだな…そなたとどこか似ているな」
濃度の高い魔力と己を封じる力を甘いと言い切る、どこか人間とは違う感性を面白がりながら、ナルは悪魔の胸に顔を寄せる。
心臓はたしかにリズムを刻んでいるし、体温ですら人間のそれであり、彼と自分を分け隔てる理由を探ろうと、ナルは彼に新しく生を与えた者としての責任を果たすべく思いを巡らせた。
「さあ見えてきたぞ」
それはゲフェニアへの転送装置であり、二人は再びゲフェニアの甘い空気にその身を浸すのであった。