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第29話 夢から覚めて

意識はゆらめき、心地よさの向こう側へ行く気など起きるはずもなく、ドッペルゲンガーはただこの瞬間を永遠であるようにと願い、心を閉ざしていた。
自分を包む暖かさは眠りへと誘い、覚醒しかけた意識はまどろみに沈む。
甘い香りはゲフェニアの空気のそれとは異なるもので、思い当たるものを手当たり次第に候補にあげてゆけば答えは訪れた。
 (シフェルの香りに似ている…)
芯の強さを予感させつつ、諦めを知らぬ香りだった。
代わりになるといった最後の嘆きは、きっとそうなるように努めるのだろう。
訪れるであろう未来に希望を抱き、ゲフェニアの王は目覚めの時を心穏やかに待つことにした。



まるで嵐のようだったゲフェニアからの仮眠。
まずいちばんに目覚めたのは、意外にもミカであった。
時刻は正午を過ぎる前。
ただならぬ胸騒ぎを感じ、目が覚めてしまった。
 「…何、この感覚…」
それは今まで経験したことのないような心を揺さぶるような感覚であり、まるでなにかを暗示した予知なる昂りをもたらす。
この状態でふたたび眠るのは無理だと判断し、ミカは気分が乗らないまま自室からキッチンへと向かう。
白を基調としたタイル張りのキッチンに立ち金の蛇口を捻れば、すぐに冷たい水がいきおいよく出てくる。
冷水をコップになみなみと注ぎ、ミカは不安を払拭すべくそれを飲み干した。
自身の心を逆撫でるような感覚は不快なもので、せめて部屋の空気をかえようと出窓を開けばゲフェン特有のすこし冷たい風が流れ込み、次第に頭にのぼっていた血が落りてくるような気がする。
それでも収まらない不安に似た感覚に、ミカはため息交じりに窓を閉めた。
ふたたび水をと蛇口に手を掛けたその時、扉のチャイムが来客を知らせ、ミカはその手を止めざるをえなかった。
 (…誰かしら?)
先ほどまで寝ていたのだから対応できるような服でないのは当然だがふたたび呼び鈴を鳴らされ、対応が出来るのは自分しかいないと諦めたミカは、椅子にかけっぱなしであったカーディガンを羽織り、のぞき窓から来客相手を確かめてみることにした。
するとそこには慣れ親しんだプリーストの男が、なにやらバツが悪そうに頭を掻きながら立っているではないか。
 (あら、影じゃない…)
ゲフェニアの一件で忘れていたが、ギルドメンバーである影丞が巡礼の旅から戻ってきたらしい。
普段つけているオペラ仮面ははずされて聖職者帽子だけを被っている辺り、大聖堂からのおしおきで巡礼していたとステアが言っていたのもあながち冗談ではないのかもしれない、そう思った。
さらに影丞が鍵を持ち歩かない事も思い出し、なぜ彼がわざわざチャイムを鳴らした理由が分かったミカは迷惑そうな表情を浮かべた。
 (…もう、しょうがないわね…本当に野良猫みたいなやつなんだから…)
ミカが解錠した扉を勢いよく開いたものだから、すっかり留守だろうと油断していた影丞に回避する余裕はなかった。
 「ひぎゃっ!」
扉に激突され、なんとも言えない悲鳴を上げた影丞は尻餅をついて一番にぶつけたであろう鼻を擦っている。
 「いててて!なんだよ、居るならはやく開けてくれよぉ!」
 「おかえり、影」
避けれなかった方が悪いのだといわんばかりのミカはさっさと部屋の奥へと戻っていってしまい、また鍵をしめられたら敵わない影丞が追うように邸宅へと帰還する。
 「んぎー!鼻いたい!ただいま!!」
影丞の帰還により、日が高いながらも眠りにつくストレイキャットの邸宅の雰囲気は一転した。
彼の良い所は場を明るくする人柄の良さで、ミカをはじめ、ギルドのメンバーはそんな影丞の明るさを心地良く思っている。
しかし、そんな影丞の手前であってもミカの胸騒ぎは落ち着くことはなく、むしろ強まったような気さえする。
帰ってきたばかりの影丞はソファで寝ている初見のファルを見ると首をかしげつつ、重なり合うようにして眠るナルの姿に彼女が正式にギルドメンバーになったのだろうと予測をつけ、すこし嬉しそうに目を細めると二人を起こさぬよう、自分の座る場所を静かに確保して荷物をちかくへ放り投げた。
 「ミカ様、お茶が飲みたいでーす」
小声で不機嫌そうなミカにおねだりすると彼女はすこし考えるような素振りをみせ、なにかを決意したように頷く。
 「わかった…、今、ユグを起こしてくるわ」
 「ええ!寝てるの?!」
ミカのことだからお茶など淹れてくれるとは思ってもいなかったが、想像もしていなかった返答に驚かされた。
それならば自分で淹れたのにと告げる間もなく、ミカはユグの自室へと姿を消してしまった。
 (うーん…なんかあったみたいだけど、聞いていいのかなぁ…)
モヤモヤした心持ちで影丞が待っているとスモーキーの首を鷲掴みにしたミカが戻り、捕獲されたかのようなスモーキーは影丞を見ると「おかえり」と元気なく言葉を発し、そのまま台所に投げ入れられてしまった。
その様子にさすがの影丞もユグが気の毒になったが、スモーキーの姿でもお茶の用意にとりかかる心意気を無駄にしてはならないと、静かに見守ることにした。
 「…なに、どうしたの?お疲れの様子じゃん?」
きっとステアも寝ているのだろうと見当をつけ、影丞は食事を囲む際に使うテーブルセットの椅子に腰掛けているミカに尋ねてみる。
 「まぁ、色々…ね…」
 「ふぅん…」
いまだ眠気が飛ばない様子のミカが言葉を濁したのみて、あえて今は深追いする必要はないと影丞は口を噤む。
台所からダージリンの香りが溢れ、やがてそれはファルの起床を促した。
 「…おや、これはこれは…」
目に飛び込んできたのは弟子の紺碧色の髪であり、自分に寄り添うようにして意識を手放す姿にファルは幸せをかみしめる。
その額に祝福の口づけをすればうっすらと開かれる紺碧の瞳。
 「…あ、おししょうさま…」
 「おはよう、ぼくの隣での寝心地はどうだったかな?」
いまだ夢見心地の師弟の様子に、ミカが盛大なため息をはきだす。
そのおかげで人目があることと、知らない顔がいることに気付いたファルは、すこしバツが悪そうに苦笑する。
 「まいったな、場を弁えるべきだったね…」
 「いいのよ、ごゆっくりどうぞ?」
ミカのするどい指摘にファルは申し訳なさそうに肩をすくめる。
少しずつ覚醒したナルはようやっと影丞がいることに気付き、あの雨の日以来の再開を心より喜んで表現した。
 「影さま、おひさしぶりです」
 「おー、なんだかんだ正式に入隊した?」
 「はい、いろいろありましたけど…これからよろしくお願いします」
二人の再会のなか、すこしばかり騒がしくなったリビングの雰囲気と、ユグの淹れた紅茶の香りに誘われるように、やがてステアと寿も眠たげな様子ながら姿を現したのだった。



ようやく揃った一同は、まずはようやく合流できた影丞へゲフェニアでの出来事と、それぞれの当面の目的と行動を洗いざらい話すことにした。
ゲフェニアでの件について影丞からは「信じられない」と言わせたものの、ミカの家柄が関わっていることもあり理解してもらうには落ち着いたが、半分ほどは疑っているようだった。
寿もようやっとナルに改めて自分とファルの関係、さらにフェイヨンダンジョンの事には触れぬように自己紹介をするに至った。
 「…さてと、話もまとまったし、ぼくはマルシス神父に会いにいくよ、しなくちゃならない話しが沢山あるからね」
早速ゲフェンを発つことを告げたのはファルであった。
 「オレもプロンテラで毒薬仕入れたいから…そーゆーことで、はい!」
続いてファルのワープポータルに便乗したい寿がプロンテラまで同行すると申し出た。
もちろんそれだけが理由ではなかったが、レッケンベル社が裏で動いていることなど告げれば全員の不安をあおりかねず、新旧アサシンコンビは「日が暮れない内に戻る」と言い残し、先手を打つため颯爽とプロンテラへと向かってしまった。
そして、二人に続くように、かるく荷物をまとめたミカが自室から出てくると不安そうに自分を見るステアたちに気付き、仕方なさそうに苦笑を浮かべる。
 「ミカ、いってしまうの…?」
不安そうなナルの声に対し、ミカは意志を感じさせる眼差しを以って頷く。
 「私もトゥエラーシュ家に一度戻って、色々と説明しないと…」
ストレイキャットに在籍してから、一度たりとも家に戻った事のないミカ。
彼女が言うには「戻ってくるまで数週間掛かるかもしれない」らしく、それは勉学も次期当主としての責任もすべて跳ね除けるようにして家出をしたせいもあり、その件についてはみっちり怒られる覚悟で戻るのは当然であった。
 (魔王の嘆きが失われたことで、きっと道が変わったはず…私がやらなくちゃいけないことだもの…!)
すこし勇み足の心も窺え、その姿を心配したステアが「一緒に行くか?」と聞いてみるが、ミカにあっさり「平気よ」と返されてしまった。
自らの足で歩き出す一歩目はたしかに重苦しいものであるが、不思議と晴れやかな気持ちも心に宿っており、ミカは胸を張って久しぶりに会う母を思う。
様々な気持ちを抱えたミカが玄関の扉に手をかける間際、ゆっくりと振り返りナルに手招きをする。
なにごとかと首を傾げるナルが隣まで来たのを見計らい、ミカは他の誰にも聞こえぬようそっと耳打ちをした。
 「とても嫌な予感がするの、身の回りに気をつけてね…」
まるで未来を告げる占い師の言葉のようなそれは、可愛らしい声でありながら呪文を唱えているかのような不思議な予言で、ナルはいまだ該当する心配事も見当たらず、ただミカが後ろ髪を引かれぬよう振る舞うしかなかった。
 「うん、ミカも気を付けて…」
 「私は大丈夫よ、もしもの時は家を燃やしてでも戻ってくるわ?」
ミカが言うと洒落には聞こえず、燃え盛る豪華な邸宅を後ろにストレイキャットに帰還するミカを想像したナルは笑って見送ったのだった。
ナルがリビングまで戻ると、手の空いたステアが弓の状態を確認していた。
ゲフェニアで普段の倍以上は使用したためか弦の張りが気になるようで、真剣な顔つきで調節をしている。
 「ステア様、弓…どうしたの?」
 「んー…張り替えないとダメだな、こりゃ…」
ナルの目からでは不具合など分からぬものの、そこはやはり弓を扱うハンターであるステアにとっては違和感を繊細に感じ取っているらしい。
 「じゃあ、ステアも一緒に買い物行くかい?」
声がした方向を見るとエプロン姿のユグが籠を手に佇んでおり、ここ数日で使い切ってしまった食材の調達に露店街まで行くのだという。
よくよく話を聞けばステアが弓に使っている弦も露店街に店を構える商人から独自に仕入れている品らしく、もはや二人で向かうのは確定した。
 「しゃあねぇ…、うちが行かないとあの親父、まけてくれないからなぁ…」
まだ疲労感を伺わせつつ面倒そうに立ち上がったステアは、ナルへと銀色に輝く小さな何かを投げ渡す。
反射的に受け取ってみれば、ナルの手の中には小さな鍵が収まっていた。
 「ステア様、これは?」
 「ここのスペアキーだ、色々あって渡せなかったからな…もし出掛けるなら戸締り宜しくな?」
預かった鍵は仲間の証のような印であり、受け取った嬉しさでナルの気持ちは幸せに膨らむ。
 「うん、ありがとう!いってらっしゃい!」
 「あいよ、いってきますよーっと」
ステア達を見送ったとたん、急に静かになった邸宅内に寂しさを感じたナルは、静かにあの卵を取り出してみた。
しずかにソファに乗せればスプリングが幾らか沈み、見た目よりも重量がある事を主張する。
代物が代物だけに部屋に置きっぱなしという訳にはいかず、結局、常に肌身離さず持ち歩くしかないのだ。
 「おー、これが例の卵かぁ…」
 「きゃぁっ!!」
 「ぎゃぁっ!!」
いきなり背後から声を掛けられたため、ナルは思わず悲鳴を上げた。
声の主である影丞はまさか悲鳴を上げられるとは思っていなかったようで、ナルの上げた悲鳴にさらに悲鳴を上げた。
 「びっくりしたよ!影さま!」
 「オレも驚いたよ!」
お互いに驚いた事に対して同意しあっていると、影丞は改めてゲフェニアの王が眠る卵を観察してみた。
 「へぇ、思ったより普通の悪魔属の卵ってかんじだな…」
影丞も退魔師の心得があり、今まで幾度となくみてきた悪魔属の卵を思い出していた。
こげ茶色のような黒い卵は魔力を多量に含んでいる証として表面に植物の蔦のような複雑な文様が浮かび上がっているのだが、ナルが手にしている卵は赤ではなく、紫電の文様が浮かび上がっているのが印象的であった。
 「…ちなみにこれ、ナルはどうするつもりなんだい?」
 「えっと…まだ考えはなくて…」
新しい体を用意すると胸を張って卵まで還元してしまったが、すっかり先の事など考えてもいなかった。
ただ、あの寂しがりの悪魔がすこしでも笑ってくれるような、そんな世界を見せてあげれればと思ってはいたが、具体的な目的などはこれから考えてゆくつもりだった。
 「普通のモンスターの卵であれば、孵化させた人に懐くんだけど…」
影丞の言葉にナルの心臓が跳ね上がる。
 「…孵化させるべきだと、影さまは…そう思う…?」
窺うような視線にナルの迷いを感じ取りつつ、ミカから聞いたゲフェニアの悪魔がどれほど危険な存在なのかを影丞は思い出してゆく。
言葉を選ばなくてはならない状況であるが、影丞は迷いを振り切ると己の考えを素直に伝えることにした。
 「オレは嘆きの力の支配力があるうちに、ナルが孵化させるべきだと思う」
それは万が一が起きてもコントロールできる環境にすべきという助言であり、ナルは言葉を詰まらせる。
確かに影丞の言葉は一理あるし、現に帰還する間際のゲフェニアでは自身に宿る魔王の嘆きの支配力をたしかに感じた。
ここでさらに自分が孵化させたとすれば、他のモンスターのように従順になる可能性もある。
 「…うん、そうかもしれない…」
今はまだタイミングではないかもしれないが、日を追うごとに自身に眠る嘆きの力が消えてしまう可能性もあるのだ。
それを見越して運命を天秤にかければ、可能性が高い方を選択するのは合理的といえる。
 「私、孵化させる!」
 「オッケーわかった!ちょっと待ってろ!」
ナルの気持ちが変わらぬうちにと、影丞はストレイキャットの邸宅の近くに店を開いているモンスターテイマーから孵化機をさっそく購入してきてくれた。
二人で心配そうに卵をセットしてみれば、さすが専門の機械だけあるので問題なく使えそうである。
 「さあ、スイッチを押すのはナルだ」
手渡された孵化機を受け取ろうとした、その瞬間だった。
緊張によってか受け取ったはずの孵化機は二人の手から滑り落ちてしまった。
 「しまった!」
 「だめ!」
二人が声を上げたのは同時だった。
まるでスローモーションのようにすべてがゆっくり動き、ナルは卵が割れてしまうことを覚悟した。
 (割れちゃう!ドッペルゲンガー!)
記憶に刻まれた魔王がそうしたのかナルがそうしたのかは分からなかったが、その手は今はただ卵を守る為にと伸ばされた。
もうだめだと強く伏せられた瞳を開けばなんとか間に合った手には孵化機が握られており、役目を果たした様子の孵化機は仄かな湯気を発しつつ卵の殻をその頂に載せていた。
 「あ…」
影丞の声に顔をあげたナルの視線の先、そこには静かに佇むゲフェニアの悪魔の姿があった。