ドッペルゲンガーにより転送装置の先、あの魔力を失う魔法がかけられた洞窟内に連れ去られたナルはなんとか逃げ出そうと隙を伺っていた。
手首を掴み、こちらの歩く速度などお構いなしに進むゲフェニアの悪魔は、気遣いをする気は毛頭ないように見える。
しかも転送装置からどんどん離れていくため、逃げれる機会はどんどん失われてゆく。
(なんとか転送装置の先、あの遺跡にいかないとワープポータルも使えないよ…!)
ナルはわざと歩く速度を抑えようと踵に力を入れて抗う素振りをするが、そんなものは悪魔の力の前では意味などなさず、ナルが足を痛めるだけに終わった。
「ねえ、もう手が痛いの、離してお願い…」
その言葉に足を止めたドッペルゲンガーは、それは迷惑そうな表情でナルを抱え上げ、ふたたび歩き出した。
「ちょっと…!おろして、一人で歩けるよ!」
「転移魔法など使われてはたまったものではない、そなたは人質であるからな?」
確かにテレポートなどの瞬間移動魔法は他人と身体を接触させていては発動のできない魔法である。
ミカから聞いた魔王の嘆きに選ばれた者がゲフェニアを自由に行き来できるという話も、恐らくテレポートの類いを使用できるという事なのだろう。
悪魔が執拗に接触を続けるのは逃亡阻止の意味であり、人間の使う魔法に付け加え、自分を戒める魔王の嘆きのことまで熟知している様子にナルは驚きを隠せなかった。
「…いつまでこうするつもりなの?」
「ふふ、そなたの魔力が切れるまでだな」
楽し気に笑みを浮かべるドッペルゲンガーは動けなくなるまで魔力を枯渇させた挙句、逃げる気力すらも奪うつもりで宛てのない散歩をしているらしく、その事実にナルは焦りと不安に駆られた。
先ほどの戦闘で半分もない自分の残りの魔力は、おそらくあと数刻も持たないであろう。
(…ダメ、手立てがない…)
不安は心を弱らせ、ナルは目を閉じるとまた離ればなれになってしまったファルを思い浮かべた。
さきほど遺跡に降りたらすぐにワープポータルで脱出すればよかったのだと、いまさら後悔して頭を痛ませる。
「…随分と大人しくなったな、そろそろか?」
魔力は確かに減少してはいるが枯渇するほどではなく、ナルは首を横に振った。
ドッペルゲンガーは足を止め、腕の中の魔王の嘆きの様子を観察する。
彼女の身体を巡る魔力はまだ余裕がありそうだし、今まで出会った要石に選ばれたウィザードたちとは違う様子に、だんだんと興味が湧いてきた。
「…ふむ、我が叶えられる範囲のわがままであれば、聞いてやらなくもないぞ?」
思ってもいない交渉に、ナルはひとまず素直に第一希望を口にした。
「あなたから逃げたい…」
「残念だが、それは叶えられぬ」
即答で希望を潰され、ナルは口を噤む。
すっかり大人しくなってしまった様子に、ゲフェニアの悪魔はその場にナルを抱えたまま腰を下ろすと提案をした。
「人間と会うのは久しく、そなたに興味も湧いた…話でもしよう?」
血なまぐさい手で頬を撫で、ナルから話の種が出てくるのを期待しているゲフェニアの悪魔の姿は、どこか人間の子供のような雰囲気を漂わせていた。
それは孤児院で面倒をみる機会があった自分よりも幼い子たちを感じさせ、ここは仕方ないとばかりに彼にされるがまま頷くことにした。
「ねえ、あなたはどうしてお師匠様の身体がほしいの?」
「ふむ…人を写し取る力が失われて久しいゆえ、最後に写し取ったこの姿が綻びかけているためだな」
なんだか納得できないナルは、今度は質問の角度を変えふたたび問う。
「でも、それなら違う人でもいいでしょう?」
「それでは意味がない、強い肉体と精神力を持つ者でなくては我が魂をなじませることができないからな」
思ったよりも彼が饒舌なのを知り、ナルはさらに問いを深くすることにする。
「それは例えば…私が新しい身体を用意してあげるといったら、あなたは師匠のことを諦めて私に従うの?」
「面白いことを言う…そうだな、そなたが嘆きとして命令するのであれば従う事になるだろう」
交差する紺碧の瞳と紫電の瞳はどこにも嘘偽りなく、互いの心を映していた。
沈黙はより理解を深めようとする探求の香りをまとい、先に口を開いたのはナルであった。
「…もし、師匠の代わりに私の身体をあげるといったら?」
ドッペルゲンガーは驚いたように目を見開き、しばし言葉を失ったあと愉快そうに笑い声を上げた。
そんなにおかしい事を言ったのかと、すこし熱っぽくなってきた頭で考えているとゆっくりと頬を撫でられた。
「何も知らないのだな、今生の嘆きは…」
ナルの手を取り、自らの頬に宛がうように添わせたドッペルゲンガーは囁くように笑った理由を口にする。
「魔王の嘆きを手に入れることが許されれば、我はこの地より解放されてしまうぞ?」
「!」
驚き言葉を発することもできなかったナルであったが、その話に矛盾を感じ、改めて彼に問い掛けた。
「…なぜあなたは、その事を教えてくれたの?」
自分がその事実を知らぬうちに騙して乗っ取ってしまえば、彼の念願である封印を解くことができたはず。
それでもそうしなかった悪魔の選択にナルは首をかしげる事しか出来なかった。
「では逆に問おう、そなたはどうしてトゥエラーシュの血ではないのに嘆きとなった?」
それはミカも不思議がっていた事であり、ナルもなぜ自分が選ばれてしまったのか不思議でたまらない事であった。
素直に噴水での出来事を話すと悪魔は険しい顔付きをして、ナルから視線を外すとしばらくなにか考えていた。
考えがまとまったのか、ふたたびナルの瞳を覗き込んだ悪魔は口を開く。
「…そなた、トゥエラーシュの一族によりそうさせられたのではないのか?」
「ちがうわ、本当に突然のことだったの」
ナルの真実の色に染まる瞳に欺きの気配はなく、ドッペルゲンガーは眩しそうにその目を細める。
「そうか、我はてっきり慰み者にされたのだと思っていた…」
だからこそ、魔王の嘆きがなんなのか知らずに引き受け、ゲフェニアへ落とされたのだと思っていたと、悪魔はそう語った。
どうせ人間同士の争いごとに巻き込まれでもしたのだろうと、人間という生き物をよく知る悪魔は眉をひそめていた。
「それゆえ、知らぬまま死なせるのは酷だと思ったのだ」
意外な言葉だった。
悪魔でありながら人の死に様に対し、配慮できる心を持ち合わせているなんて、彼を記した書物にはどこにも書かれていなかった。
もしかすると、彼は人々が思うような生き物ではないのかもしれない、そう思った。
なんだか眩暈がしてきたが、ナルは彼の頬をやさしく撫で上げ、心のままに言葉を紡ぐ。
「君、本当はやさしいんだね…」
ナルの僅かな魔力は今まさに消えかけの蝋の火のようにゆらゆらと意識を揺らし、その言葉に戸惑ったドッペルゲンガーは返す言葉を見つけられずにいた。
ただ分かることは、彼女は今までの嘆きに選ばれた人間とは決定的になにかが違う存在であり、それを失ってしまうのは惜しいと感じた。
それはつまり、このまま自分の命が尽きれば未来永劫失われることを暗示した感情であり、悪魔はさらに退魔師の身体を手に入れねばならぬと強く思う。
(この嘆きとなった娘の行く末、見届けたい…)
もうすっかり息が上がり気怠さそうに息をする姿に、特に愛でているナイトメアを一頭喚び出すと彼女の背もたれになるよう告げる。
ナイトメアは従順に言われた通りにし、ナルを腹に抱える形でその地に横になった。
「これで意識を保てる程度の魔力は維持できるだろう…、しばらく辛抱してくれ」
自らが課した魔力の枯渇であるものの、情の湧いた相手が苦しむ姿は心地が悪かった。
ナイトメアの青白い炎のようなたてがみは魔力の放射であり、すこし触れているだけでも魔力を得ることができ、ナルはその心地よさに目を閉じる。
もはや睡眠を拒絶することはできず、ナルは浅い眠りへと誘われてゆく。
眠りに落ちてしまう間際、ドッペルゲンガーはナルの唇をなぞりつつ聞きたかった事を聞いてみた。
「嘆きよ、そなたの名を問うても…?」
ふにゃふにゃとした思考で師から言われた「悪魔に真名を教えてはならない」という教えを思い出し、精一杯それを口に出す。
「…悪魔に…真名を教えては…ならないって…」
「ふふ、教えに忠実なのだな」
暖かいナルの手をやわやわと握り、ドッペルゲンガーは諦めきれず彼女の耳元に口を寄せた。
「そなたが我に打ち明けたあと、誰にもいうなと命令してくれればいいのだが…?」
混濁した意識が悪魔の囁きを跳ね除けることはできず、ナルは眠りに落ちる間際、つい口を滑らせてしまう。
「…わたしは…ナル…」
求めたものが与えられた瞬間、それは電流のように全身を巡ったのを悪魔は感じた。
「ナル、良い名だ…」
「私から教えたこと…だれにも、いわないでね…ぜったいだよ…?」
それだけ告げた魔王の嘆きは安らかな寝息を立て始め、額に汗を浮かばせながら意識を手放したようだった。
悪魔に真名を教えると魂を抜き取られるなどと言う迷信を信じ、それを律義に守ろうとした若いプリーストの姿はなんとも健気でゲフェニアの悪魔をたまらない気持ちにさせる。
「ああ、もちろんだとも…!」
手に入れることのできた彼女の真名に手は震えるほど喜びに打ち震え、彼はそう答えるのがやっとだった。
はやくこの地より出て、彼女が住まう世界を見てみたい。
そして人の元へ返してしまうのが惜しいと、心からそう思ったのだった。
朝を迎えた、魔法都市ゲフェン。
攫われたナルがドッペルゲンガーにより手厚く扱われているなど知らぬストレイキャットの一行はそれぞれ椅子に背を預け、一言も会話をせずに時間を消費していた。
この空気に耐え切れなくなったユグは、とうとう飛びっきりの紅茶を振舞うことにしキッチンへと向かう。
ユグの消えたリビングの空気はさらに悪く、特にファルの雰囲気は殺気立っており掛ける言葉など見当たらない。
約束の時間も限られている。
ステアはここぞとばかりに自分を奮い立たせると、意を決して議題となる問題を問うことにした。
「…それで、ファルさんと引き換えって話だけど…」
「肉体の提供はだめ!器になる者の能力が高いほど、悪魔の力はさらに強まるわ!」
すかさず話に割って入ったミカの反応は間違いなく次期当主としての言葉であり、ステアは口を噤むしかなかった。
一方のファルは目を閉じ、思いの丈を口にする。
「ナルが助かるなら、それでいい…ぼくの身体も命もなんでも差し出すよ…」
「そんな…!」
ミカが思うよりずっと師弟の絆は深そうで、天秤にかけることなど出来ない雰囲気にミカは言葉を詰まらせる。
「今この瞬間、ナルがどんな目にあってるのか考えるだけで、ぼくには我慢ならないんだよ…!」
あのプロンテラで出会った日から、妹のように家族のように大切にしてきた愛弟子。
それが手の届かぬところでひどい目に合わされているのだと、そう案じるだけで胸は張り裂けそうだった。
自分の身を犠牲にすることすら惜しくないのだと、ファルはそう告げる。
「ぼくのすべてなんだ、ナルは!」
技も心も注いできた弟子が人の世に帰れるのならばそれだけで十分だと、ミカに訴える。
もはや言葉にできないミカは、ただ辛そうに表情を曇らせると口を噤む。
(ああ、私…どうしたらいいの、母様…!)
不安で髪の毛が色味を変え始めた瞬間、リビングの窓をコツコツと叩く音に全員が振り向く。
そこには一人のアサシンの男。
目が合ったファルとアサシンの男は、互いに驚いた表情を浮かべ指をさし合う。
「寿!?」
「え?なんでファルがここにいんの?まさか不法侵入です?」
二人の様子に驚いたのはステアも同じで、二人を交互に見ると戸惑ったように声を掛けた。
「なんだよ…、もしかして二人は知り合いなのか?」
「ええ、いわゆる腐れ縁ってやつでござる」
寿は返事をしつつ玄関のカギを開けてくれるよう頼み、改めてリビングにて合流すると、事の顛末を聞き盛大に驚いたのだった。
「ひえぇ…お前の弟子、そんなことになってんの!?」
「だから助けに行きたいんだよ、どうしても助けたいんだよ!」
ファルの意見は真っ当なものであり、寿は頷くとユグが全員へ振舞った紅茶と軽めの朝食を口にしながら悩ましそうにミカを見た。
「まずそもそもの前提としてその悪魔くんって倒せるんですかね、ミカ様?」
「おそらく無理ね、弱らせる方法しか私は知らないわ」
ユグの焼いたクロワッサンをサクサクと音を立てて食べるミカは、心底疲れ切った様子で答えてくれた。
ステアはなんとか流れに身を任せているようで、通常運転を心がけおかわりまでしている。
「今日のパン、うまいな!」
「えへへ!ありがとう、うれしいよ!」
ユグもユグで必死にすこしでも空気を良くしようと頑張っているのが、なんとも痛ましくもある。
「ふぅん…」
納得いかないような返事をした寿も紅茶で口を潤す。
すっかり意気消沈していたファルは聖書を片手でめくり、なんとか心を落ち着けようとしているのが分かる。
(まあ…無意識に愛でちゃってる訳だから、しんどいのは分かるが…)
すっかり弟子の域を越えてしまっているのに自覚症状なしで、今も無意識に保護する対象を取り戻す考えばかり先行しているファルの姿は妹のネスを失った時とひどく似ていた。
寿に見守られるなか、ファルは聖書のあるページを開いたまま手を止め、ようやくその口を開いた。
「…ねえ、ぼくのカタールってまだあるの?」
「マルシス神父の所にあるだろ、あれこれ全部そろってるはずだぜ?」
それを聞いたファルは突如立ち上がり、触媒であるブルージェムストーンを手にした。
ワープポータルの予感を感じ、寿は思わずファルの服の裾を握る。
「ちょ、ま、どこへ行くんだよ?」
「大聖堂だよ、やるべき道が見えたからね!」
目に力が戻った様子は、確実に策がある時のファルであり、寿は残りのクロワッサンを口に詰め込むと一気に紅茶で流し込んだ。
「オレも行きます、役に立ちますぜ?」
寿の言葉にステアも、ミカも、ユグも互いに頷き合うと腰を上げる。
「やられっぱなしでいるタヌキじゃないところ、見せてあげるよ!」
「あら、それなら私がタヌキより魔法の腕がいいところ、みんなに見せなきゃいけないわね?」
「ぐぬぬ!魔法少女さんめ!」
ミカとユグのやり取りに、ファルは途端に切なげな表情を浮かべる。
きっと分かっているのだろうとは分かっているが、やはり言わなくてはならない。
「…次は全員が死ぬ可能性があるんだよ…?」
問いにそれぞれが力強く頷き、まるでそれが当然であるかのようにステアは言葉を紡ぐ。
「これがストレイキャットだからさ!にしし!」
弟子が選んだギルド、そのギルドマスターの器の大きさにファルは改めて出会いという不思議な縁に感謝をした。
きっとこの仲間たちは必ずナルの助けとなり、ナルも仲間を助けるため力を尽くすのだろう。
輝かしい未来を守るため、ファルは決意をさらに強くする。
「ありがとう、ステアさん…!」
「ナルだって、うちらにとっては大事なギルドメンバーだからな!」
かくしてストレイキャットたちはプロンテラ大聖堂に向け、新たな一歩を踏み出したのだった。
ファルのワープポータルにて向かった首都プロンテラ。
まだ朝市の名残なのか人出も多く、大聖堂前にも礼拝に訪れている住民もいるなか、ストレイキャットたちは礼拝堂へと足を向けた。
唯一ファルだけが頭から長いマントを着込み、外からは顔はおろかプリーストであることすら分からぬように辺りを伺いながら足を進める。
礼拝堂の一番奥の小部屋ではマルシス神父が祈りの言葉を綴り、訪れている神を信じる者たちへ祝福の言葉を贈っている最中であった。
ファルはそれでも構わない様子でマルシス神父の傍らまで向かうとなにやら耳打ちをし、帰還したファルの姿に驚きを隠せない様子の神父はすこしやりとりをしたのち、ファルは礼拝堂のさらに奥へと姿を消してしまった。
手持無沙汰となった残されたステアたちは顔を見合わせると仕方ないといった様子で礼拝用の椅子に腰を下ろす。
「申し訳ありません、予定が変わり本日の礼拝はこれにて終わりとさせていただきます」
マルシス神父の言葉に礼拝に訪れていた住民たちはそれぞれ帰路につき、礼拝堂はステアたちを残すばかりでがらんとしてしまった。
それを確認した寿は立ち上がると、扉を指差す。
「マルシス、鍵はどうする?」
「閉めてください、ファルの帰還自体が公になるのは危険ですから」
マルシス神父はハンカチで額に浮かんだ汗を拭い、寿へしっかり施錠するよう頼んだ。
「戻り次第、昔の装備品を取りに来たなど…いったい何があったのです?」
ナルを欠いたステア達に事の次第を尋ね、恐るべき状況を聞いたマルシス神父はよろけながら寿に尋ねる。
「ほ、ほんとうなのですか?寿?」
「いや、オレも今朝やっと合流したばっかだから信じられないっていうか…」
しかし憔悴した様子の伺えるストレイキャット達の面々と帰還したファルの様子からも、これはもう信じるしかないとマルシス神父は強く頷いた。
「終わらせましょう、ゲフェンの悪夢を!」
マルシス神父の声を合図にしたかのように再び姿を現したファルの風貌に、ユグが目を見開き思わず頭にタヌ耳を生やしてしまった。
「ファルさん、どうしたの!?」
ステアとミカは驚きのあまり言葉を失い、ただ寿とマルシス神父だけは静観していた。
歩き方こそファルであるが、その身を包んでいるのは間違いなくアサシン装束であり、その手には銀色に輝くカタールが握られている。
寿の着ているものより年季が入っているように見えるアサシン装束は薬品のような香りを漂わせ、大聖堂には似つかわしくない不穏な予感をさせる。
ファルは穏やかながら苦笑まじりに、驚く三人へ告げる。
「昔いろいろあってね、こっちの方が得意ではあるんだ」
「ええ!?」
驚くユグに微笑み「ナルは見た事ないけど知ってるよ」と目を細め、ファルはカタールを十字に構えると寿にウインクを送った。
それを理解した寿は短剣を二振り手にして腰を落とす。
二刀流、それは寿の戦闘スタイルであり、間違いなくこれより戦いの火ぶたが切られる知らせでもあった。
「聖書のほうが似合うとオレは思うけどな?」
「まあまあ、現役の寿と手合わせしたらどっちも似合うって分かるよ」
不敵な笑みを浮かべる寿に対し、ファルはどこか申し訳なさそうに微笑む。
ファルが首をすこしばかり傾げたような、ステアはそんな気がした。
次の瞬間、鋭い金属音が礼拝堂内に響き渡り、二人のアサシンは刃を交えていた。
「速い!」
驚くステアの傍ら、ミカも高鳴る心臓に戸惑いながら彼らの手合わせにくぎ付けだった。
カタールを受け流した寿は遠慮などしないで、その刃をファルに突き立てるべく連撃を繰り出してゆく。
たなびくアサシン装束はまるで踊っているかのように洗練された動きに添い、その剣の軌跡の美しさたるや芸術のようであった。
しかし寿の執拗な連撃をバックステップだけで避け切り、ファルは一瞬の隙をついて彼の背後を取った。
「な!?」
驚いたユグは手で口元を覆い、寿にカタールが迫る瞬間たまらず息を止めた。
しかしカタールは空を切り、寿はハイディングで一時的に完全回避をする。
「ルアフ!」
しかしやはりそこは現役のプリーストのほうが手数は上で、ハイディングを炙り出す照明魔法により寿は姿を現してしまった。
「それはずりぃよ!」
「だからどっちも似合うって言ったでしょ?」
すっかり意気消沈した寿は「もうやめだ、やめやめ」と短剣をしまい、ふたたび礼拝用の椅子に腰を下ろす。
「あとファル、お前なんだかんだ鍛錬さぼってないだろ?」
「おや、ばれてしまったかな?」
すっとぼけるファルに苦虫を潰したような表情を浮かべた寿は出掛かった文句を飲み込んだのであった。
「でも、どうしてアサシンの格好なんか…?」
「その理由はのちほどだね」
ユグの問い掛けに笑みを浮かべ、ファルはカタールをしまうと愛用の聖書のある一ページを開く。
そしてファルはマルシス神父へそのページを見せ、それを見た神父は眉をひそめたものの理解はしてくれたようで「しばらくお待ちを…」と礼拝堂の奥へと姿を消した。
そして再び姿を現したマルシス神父の手には紅茶の缶が握られており、茶葉をポッドではなく机の上に撒きはじめてしまった。
茶葉を撒き終えた神父は缶の蓋を閉じ、ファルに尋ねる。
「これくらいでいいですか?」
「ええ、十分です」
尋ねられたファルは聖書を開いたまま詠唱をはじめ、やがて聖書に淡い光が集約されてゆく。
それはファルの身体全体から発せられる光であり、アコライトでもプリーストでも、どちらが使う魔力の流れとちがうことにいち早く気付いたのはミカだった。
(…これは…魔力じゃない…?)
やがて光は机に撒かれた茶葉へと降り注ぎ、変化をもたらし始めた。
乾燥しきった葉はみるみるうちに青々とした葉に戻り、それは摘み立てと遜色ない新鮮な葉への姿を取り戻したのだ。
「これは…!」
驚くステアの傍ら、ミカは息をのんだ。
昏睡を治すリザレクションではなく、魔力を伴わない癒しの光。
「レディムプティオ…」
「流石トゥエラーシュ家のご令嬢、博学だね」
ミカが言い当てたことを素直に褒め称え、ファルは椅子へとゆっくり腰を下ろす。
「その、なんだよ…レディーなんとかって…?」
「レディムプティオって言ってたよ」
ステアの言い間違いを訂正したユグも知らない魔法のようで、二人は首をかしげてミカを見た。
ミカはすこし困った表情を浮かべつつ、いつもより抑えた声色で言葉を紡いだ。
「術者の命を削り他者に分け与える、禁じられた蘇生魔法よ…」
「ええ?!」
声を上げたのはユグで、ステアはただまっすぐな眼差しでその言葉を受け取った。
「…それはどんな命でも蘇らせられるのか?」
「いえ、老衰とか魂の限界を迎えた場合は無理ね、あくまで元の魂となるものがこの世に留まっていないと…」
ミカの説明を噛みしめたステアはファルに視線を移すが、ファルは決して表情を崩さず静かに頷いて正解を示している。
しかし、どこか疲れているようにも見える姿は、術者への負担が大きい魔法であることも示していた。
「ファルさん、そんな魔法を使って一体どうするつもりなんだ…?」
ステアの問いにファルは空色の瞳をくもらせることなく、ただ真剣な意思を以て口を開く。
「ナルに一度死んでもらう」
「なんですって…?!」
まったく予測していなかった答えに、ミカはみるみる顔色を変え手を握りしめる。
「あなた、正気なの!?」
「もちろんだよ、ぼくの毒を使えば身体を傷つけることも、苦しむことなくやれるからね」
「あれほど可愛い弟子だと言っていたのに…!あなた、それでもナルの師匠なの?!」
人としての倫理を以て怒りを顕わにするミカとは対照的に、ファルは冷静に言葉を続ける。
「そうだよ、ぼくがナルの師であるからこそやるんだ」
それは師としてゆずることのできない大仕事であり、空色の瞳はトゥエラーシュ家の令嬢の言葉に心を揺さぶられることはなかった。
ただ真っ直ぐにミカを見据え、ファルは話を続けた。
「ぼくがすぐ解毒処置をしてレディムプティオを使って蘇らせる、その間のドッペルゲンガーの足止めが欲しいんだ」
「…そんなことしたって、あの悪魔は…!」
声を震わせるミカは、ゲフェニアの悪魔とのあの邂逅を思い出す。
圧倒的な力差を見せつけられ、最後には苦し気に顔を歪ませるナルの顔。
そのどれもがミカにとって屈辱であり、恐怖にもなっていた。
永い事ゲフェンタワーの地下にゲフェニアの悪魔を封じてきた一族として、ミカの魂に刻まれているのは悪魔への畏怖そのものだった。
(どうしたって倒す事なんてできないのに…!)
恐怖は諦めを呼び、ミカはすっかり俯き希望を手放してしまった。
しかしそんなミカに構う事なく、ファルは瞳を自信に満たす。
「ナルの肉体が魔王の嘆きとして結晶化する前に魂を呼び戻せば、その時点で役目を終えた嘆きはどうなるのかな?」
その言葉にミカは顔を上げる。
「生涯失われる…つまり、悪魔もあの地からは二度と出れないということ?」
ミカの言葉にファルは力強く頷き、机上の理論ながらもナルを助け出し、さらに悪魔を永遠に閉じ込める事が可能であろう策であった。
魔王の嘆きが失われてしまえばトゥエラーシュ家が封印を担う必要もなくなり、ミカのずっと先の子孫たちも憂う事なく自由に生きることが出来る。
それを考えただけでも、掛けたい可能性であるのは間違いない。
「封印が綻んでるとか言ってたのはいいんですかね?」
寿の問いにファルはすこし困った顔をしたが、すぐさまミカが代わりに答える。
「封印を施している魔王の嘆きは通行証みたいなものだから、失われたら封印の術式に関わらず通ることができなくなるの」
「つまり、こっちに来る許可証がないから通れないってことです?」
「そうよ、今日の寿は賢いわね」
「お!これでも影丞より賢いんですよ、ご存知ありませんでしたか?」
寿とミカのやりとりをユグが楽し気に眺める傍ら、ただ、ステアだけは納得できない面持ちで口を開いた。
「うちは賛成出来ない、命を削る魔法だなんて…」
ギルドマスターの言葉にそれぞれが沈黙し、もっともである理由に言葉を返すことは出来なかった。
ステアの不安は魔王の嘆きやトゥエラーシュ家の歴史などではなく、ただ単純にゲフェニアの悪魔という存在が彼女にとってあやふやな存在であり、理解していない相手にそこまで危険な道を選ばなくてはならない理由があまりに足りなかったのだ。
「そもそもゲフェニアの悪魔っていうのは、なんなんだ?」
すっかり倒すべきものだとばかり認識していたことに、その場にいた全員が息をのむ。
なにも知らない相手を一方的に封じ込める、果たしてそれで良いのだろうか、と。
「そうね、私、みんなにちゃんと話してないわね…」
本当は一番向かい合わねばならないはずの自分が、一番この事から逃げていることに気付いたミカは重いため息をはきだす。
ようやくみんなに自分を知ってもらう機会なのだと、そうとも思えた。
「私がトゥエラーシュ家の者として、みんなに知ってもらうわ…あの悪魔の事…」
そうして、ミカの口からゲフェニアの悪魔が語られることとなった。