ようやく転送装置へと辿り着いた一行は、ファルがどれほどの惨事を潜り抜け、奇跡的に命を繋いだのかを目の当たりにする事になった。
リザレクションすら届かないほど食い荒らされた命は、ただ沈黙をもって地に伏せていた。
(これは…相当やばいな…)
ステアは口を閉ざし、かつてない惨状に眉をひそめる。
ナルとミカは口元を手で覆い肩を震わせ、ファルと共に選ばれた調査隊であった遺体から目を背けていた。
「ナル、あまり視界にいれないようにね」
「…はい、お師匠様…」
弟子を気遣いながら、ファルは転送装置を起動させるべく、それらしき箇所をくまなく調べてみる。
本来、レプリカをかざすべき窪みは反応なく、緊急事態を想定して造られたような形跡もない。
レプリカが破壊されたいま、やはり起動する様子はなく、災厄として迫りくるゲフェニアの悪魔の威圧感に焦りを感じていた。
「やっぱり動かないのか…!」
この階層を逃げ回ったとしても限界は訪れるであろうし、転送装置が動かないのであればここから脱出できる術はない。
「…魔王の嘆きさえあれば…」
唯一の希望である鍵の名を口にすると、ファルは次の手を考えるべく目を閉じてしまった。
(魔王の嘆き…)
その言葉に心当たりがあるナルは師の傍らへ寄り、レプリカをかざす窪みに手を添えてみる。
すると装置は沈黙を破ると速やかな起動し、一行の前には念願たるゲフェニア遺跡への道が開かれることとなった。
「あ、私…」
心当たりがあったとはいえ、転送装置を起動することができたナルは言葉を詰まらせ、不安そうな表情で隣の師を伺うように瞳を揺らす。
「ナル、ありがとう!助かったよ!」
しかしそこにはナルが恐れた反応など欠片すら持ち合わせていない、安堵の表情を浮かべるファルがいた。
彼は弟子が傷つくことのないよう優しく抱き締めその手を取り、誘うように連れ立つと、ワープポータルによく似た光の魔法陣のなかへと導き、その姿を消した。
その流れるような一連のやり取りに、ステアはナルがあれほど師のファルに心酔する理由を見出し、お手上げだと言わんばかりに口笛を吹いてみせると、続けて転送装置をくぐる。
ユグはなにやら言いたげにミカを見たが、特段興味などなさそうに転送装置へ向かってしまった。
「…ぽんぽこ、なんだか肩身が狭い気がするよ…?!」
ユグはそう言い残し、一行はとうとうゲフェンダンジョン四階層を無事あとにしたのであった。
「わぁ…!」
感嘆の声がナルから発せられる。
それもそのはず、目の前に姿を現したゲフェニア遺跡は、想像を超える豊かさで久しぶりの来訪者を迎えたのだ。
地下とは思えぬほど光が溢れ、緑は生い茂り、どこまでも続きそうなほど、広い空間が広がっていた。
「こりゃ、まるで庭園だな」
ステアがそう表現するのも納得出来るほどに、封じられた遺跡は低木から蔦が絡む大木、さらには甘い香りを含みながら咲き誇る花々まであり、それらが守るようにゲフェニア遺跡は息をしていたのだから。
遺跡は円を描くように広がり、その中央に大きな穴があった。
すり鉢のように深く狭くなってゆくその中心、大穴の底からは常に数えきれないほどの小さな光の塊が上昇してきており、舞い上がる毎に細々とした粒子へと姿を変えてゆく。
やがて天井へ辿り着いた光の粒子はひとつの球体へと連なり、太陽のようになったそれが昼間のような明るさを保っている理由のようだった。
「ここの空気、清浄だしなんだか甘いね」
ユグの言う通り空気はどこか甘く感じられ、おそらく理由であろう大気に溶けている魔力の多さにファルは驚かされた。
「師匠、魔力の感覚はどうですか?」
「うん、戻りつつあるね、ここは魔力の流れが正常みたいだ」
師弟のやりとりにようやく脱出の予感を感じ、安心したのかステアは朽ちた建物の一部へと腰を下ろした。
「なんつーか、すごい所だな…ここ…」
見渡すとあちこちに点在する石造りの建物、それらは部分的に崩れてこそいるものの、特徴的な模様などで間違いなくここはゲフェニア遺跡であることを物語っている。
「どうせ悪魔はここには降りて来れないから…まずはファルさんの回復を待って、それからワープポータルで帰りましょう」
ミカの提案に反対する者などおらず、マグニフィカートでさらに魔力の回復に努めるファルを横目に、ミカは先ほど説明できなかったことを伝える為、ナルの袖を引っ張る。
「ナル、よく聞いて…」
「うん…魔王の嘆きのこと、だよね?」
ナルの反応にもはや隠す必要もなくなったトゥエラーシュ家が守ってきたゲフェニアの鍵、魔王の嘆き。
ミカは頷くとしっかりナルを見つめ、口を開いた。
「そうよナル、今のあなたは魔王の嘆きそのものになっているわ」
集中して魔力の回復に努めていたファルだったが、耳に入ってきた弟子絡みの話はどうにも気になる。
先ほどよりも落ち着いてきた自分の状態を考慮しつつ、ファルはミカに尋ねてみることにした。
「それずっと気になってたんだけど、ナルが魔王の嘆きになったというのはどういう事なんだい?」
ミカは頷くとナルを見つめながら、ゆっくりとその口を開いた。
「役割が与えられるわ、まずはゲフェニア内の自由な行き来ね」
「うん、それは伝承通りだね」
ファルも聞いた事のある話で、納得の表情を浮かべて頷く。
しかしさらに気になるのは役割という表現であり、まだ隠されている魔王の嘆きについての興味と弟子を案じる思いは尽きなかった。
「そして、生贄として嘆きに選ばれると、生き続ける間はゲフェニアの封印へと命を吸い取られ続けるわ」
「!」
ナルは目を丸くし、身体を震わせた。
その様子にいち早く気付いたミカは「大丈夫よ」と告げ、封印について詳しく話し始める。
トゥエラーシュ家に続く魔王の嘆きに選ばれる儀式とは、ゲフェニアの悪魔の封印を維持するものであり、また悪魔の力を削ぐものでもあった。
選ばれる条件こそないが、過去を振り返れば才に秀でた当主が選ばれる傾向はあり、選ばれた当主は後世に讃えられ伝わるという。
選ばれた歴代の当主達はそれぞれの才能を活かし、術式を紐解くのが得意であった者は魔王の嘆きの力を分散させるためのレプリカを作り、また別の当主は悪魔をゲフェンダンジョン四階層に閉じ込めることで魔力を奪い続ける術式を作り出したり、ありとあらゆる方法でゲフェニアの保全と悪魔の封印に尽力を注いできた。
そうして天寿を全うするまでに封印を維持し、次代へと繋ぐ、それこそが魔王の嘆きに選ばれるという呪いなのだとミカは語った。
やがて死を迎えた身体はふたたび宝石へと姿を変え、次代の嘆きが選ばれるまで静かに眠り続けるのだという。
(どうしてトゥエラーシュ家の宝物庫で保管されているはずのものが、ナルの手に渡ったのか不思議だけど…)
それを問うのは今ではないと判断し、魔王の嘆きをナルに渡したという彼女の師であるファルに疑いの念を持ちつつも、後々それを問うべき未来を心に誓った。
深呼吸をし心を落ち着たミカは、ふたたび口を開く。
「ただ、心配なのがレプリカが使われてしまったことね…」
説明を終えたミカはファルをちらりと見る。
ファルが思い当たるのはプリースト転職試験のドッペルゲンガーの影が言っていた一言。
「…封印が弱まった…?」
「そうよ、魔王の嘆きの封じる力は、使用者の命を削る呪いから始まっているとまで言われているのよ?」
「そんな…!」
師とミカのやり取りにナルは血の気が引く思いで、傍らのステアに縋りついてしまった。
「ナル、大丈夫か?」
心配そうなステアの声掛けにナルは力なく首を横に振る。
意図せずそうなった挙句、それは自分の命を削る呪いであったともなれば、誰であれ恐怖せずにはいられない。
ナルの縋るような手をしっかり握り返し、ステアは眉をひそめた。
「ミカ…私、死んでしまうの?」
その問いにミカは目を細め、ナルを瞳に映すと真っ直ぐに見つめる。
「はっきりとは言えないわ…ただ、まだ使われていないレプリカがあるから、可能性を捨ててはダメよ」
ミカの言葉はなによりも信頼に溢れていたし、ナルは不安ながらも納得して頷いた。
(そう、残るレプリカは大聖堂で保管されているものと、ゲフェンタワーそのもの…)
猶予はもはや無く、有能な退魔師であるファルが相手にならなかったというゲフェニアの悪魔の強さに、もはや封印のほとんどが意味を成していないのは確実。
口を噤んだミカの姿に不安は押し込めきれず、それぞれが沈黙した。
その時であった。
ユグの尻尾がチリチリと焼ける様な気配を感じ取り、たまらず通ってきた転送装置を勢いよく振り返る。
「どうしたの、ユグ?」
ミカの言葉にユグは全神経を集中し、転送装置の異常を察した。
「来るよ!」
ユグの言葉を合図のようにして、転送装置から黒い霧が紫電を伴い溢れ出てきた。
間違いなくそれは瘴気であり、ナルはピラミッドで見たオシリスが顕現した瞬間を思い出す。
「お師匠様、あれは…!」
「ナル下がって!」
ファルは咄嗟に弟子をかばうと前線に飛び出す。
前衛もいない後衛ばかりのパーティで迎え撃てるほど、相手が加減してくれるなどとは思えなかったが、それでもファルはアークワンドを構え、溢れ出る瘴気を睨む。
「そんな!四階層からは出れないはずよ!?」
悲鳴のようなミカの言葉を否定するように、黒い霧は悪夢を引き連れその姿を形どり始めた。
マントの下から尻尾が見えることなど気にせず、ユグは全力で転送装置を囲むようにアイスウォールを打ち立てる。
少しでも瘴気を抑えるべく地面からは無数の鋭利な大きな氷柱が天を突くように姿を現した。
ミカも愛用の杖を握りしめ、ステアも今まさに矢を射るべくぎりぎりまで弦を引く。
迎撃の準備は万端だった。
これ以上ない、そう思った瞬間だった。
ユグが出現させたアイスウォールは一閃で薙ぎ払われ、真っ二つになった氷柱の向こう側よりそれは顕現した。
「ようこそ、ゲフェニアへ」
地を這う蛇のような鋭い目は目的である一人を捉え、紫電色の瞳を嬉しそうに歪ませた。
その瞳からは逃げられないのだと、目が合ったナルは本能的にそう思った。
あれは奪う者だとも、そう感じた。
「今生は聖職者なのか、なるほど…なんとも儚げだな…」
プリーストの転職試験で出会ったドッペルゲンガーの影もナルにとってはプレッシャーを感じるほど魔力を秘めていたが、本物は格が違うと肌で分かるほど禍々しい魔力を溢れさせていた。
肩に付いた氷の破片を振り払い、ゲフェニアの悪魔ドッペルゲンガーはストレイキャット達の前に姿をとうとう現したのだ。
人間の青年、それも剣士の姿を留めており、威圧感はさほど感じさせない姿見。
月の光を閉じ込めたような薄金色の髪、紫電に染まる鋭い瞳、そのどれもが人間で悪魔だとは到底思えない風貌だった。
唯一、異様なのは、両の手で扱うのがやっとの剣を片手一本で軽々と持っている姿で、あまりに異質なバランスは彼が悪魔である証明でもあった。
「我を永らく封じていた力、そのほとんどが失われた訳だが…」
視線をナルから逸らすことなく、ドッペルゲンガーはゆっくりと歩みを進める。
ステアはそれ以上の侵攻を許すわけにはいかないと立て続けに矢を射るが、そのすべてが器用に操られた両手剣により阻害された。
「やはりまだまだ足りぬ、つまり…」
ユグのファイヤーボルト、ミカのアイスボルトが同時に詠唱され、ドッペルゲンガー目掛けて降り注ぐ。
それはどちらも全力の魔法の矢で、ユグは尻尾が外にはみ出すほどであり、ミカの髪が赤く染まっているのが何よりの全力全開を示している。
しかし、そのどちらも悪魔の足さばきだけで避けられてしまい、ただのひとつも命中することなく、いたずらに地面に降り注いだ魔法の矢たちは砂埃を巻き上げただけに終わった。
「やはり魔王の嘆きそのものがほしいのだ…」
悪魔の誘いはどんな試練より抗いがたく、紫電の瞳はあやしくナルを捕らえて離さなかった。
(このままではダメだ!)
先刻、相手にした際に退魔魔法でやりあうのがどれほど危険な相手なのか経験したファルは、隣に並び今も矢を射続けているステアの腰に掛けられている二本の短剣に目をつけると、素早くそれを抜き取った。
「ステアさん、借りるよ!」
「な!?」
途端に軽くなった腰回りに、思わず前に倒れそうになったステアが見た光景は信じられないものだった。
「アスペルシオ!」
聖水を短剣に振りかけ聖なる属性を付与し、ファルはまるで前衛のように勇猛にドッペルゲンガーへと斬りかかったのだ。
二刀流を熟す姿は、間違いなくアサシンの姿。
「ファルさん、プリーストじゃなくアサシンなのか!?」
ステアが思わず声に出した言葉に一瞬だけ笑顔を浮かべ、ファルは守るべき者の為、刃物ある獲物を武器としてはならぬという聖職者の誓いを破ってみせた。
小回りがよく効くファルの二刀流はドッペルゲンガーの足を止め、今までの攻撃のなかでは一番効果を発揮しているように見えた。
両手剣の一閃を十字に受け止めたファルは相手の力を受け流し、わずかな隙とて逃さず、討ち倒すべく刃を向ける。
しかしそれを器用に捌いたドッペルゲンガーは舌打ちをしつつ、僅かながら後退をした。
「貴様、面白い芸を持っているな!」
「これでも二刀は苦手なんだけどね!」
縮地を使いファルとの距離をあけたドッペルゲンガーは星の瞬きを身に宿し、再びファルを見据える。
「先ほどは逃がしたが、次はさせぬ!」
それはファルが守りたい者が持つことを見透かした発言であり、逃げるつもりなど毛頭ないファルは大声を上げた。
「ナル!支援を!」
ファルが信じた弟子は的確に祝福魔法を唱え、ファルが勝利を勝ち取れるよう、譲り受けたアークワンドを握った。
目で追うのがやっとのドッペルゲンガーの剣の軌跡は、まるで流れ星を捉えるような悪夢だった。
しかし二本の短剣はファルの意志に応じるように一撃ずつ丁寧に受け流し、受け流せなかったものはナルのキリエエレイソンによる祝福で身を守るに至っている。
(これならやれる!)
自信は確信へと至り、ツーハンドクイッケンは長く効果を発揮しないことをよく知っているファルは防御に徹し反撃の隙を伺う。
僅かな一瞬だった。
星の瞬きが流れ落ちた、その瞬間、ファルはマグヌスエクソシズムを足元に展開する。
「来たれ浄化の光!マグヌスエクソシズム!」
「おのれ、貴様…!」
ファルの二刀流による追撃にて後退できず、その場で身を焼かれながら防戦になったドッペルゲンガーは苦痛に表情を歪ませた。
圧倒的な優勢、勝利の予感。
それはファルの嗅覚を確実に狂わせていた。
「きゃあ!」
響き渡った悲鳴。
それは後方にて自分を支援しているはずの弟子のものだった。
何事かとステアが振り向けば、ナイトメアと呼ばれる青白い炎に包まれた悪夢の馬がナルの首を後ろから咥えていた。
「こいつ、どこから!?」
ミカがフロストダイバーを行使しようとした瞬間、ナイトメアはナルを咥えたまま姿を消した。
そして、次に姿を現したのはドッペルゲンガーの背後で、ファルの目に映る苦しそうなナルの表情は太刀筋を見誤らせた。
「ナル!」
「おっと、そのまま下がれ、退魔師よ」
一旦、退いた形となったドッペルゲンガーだが、その目は確実な勝利に満ち溢れていた。
ナイトメアはドッペルゲンガーが使役する夢の欠片であり、永い間、彼を封じていた人間たちは彼がなんなのか忘れてしまっていたのだ。
ドッペルゲンガー、二重に出歩くもの。
それは姿を奪い、死を運ぶもの。
悪夢の王である彼が使役するものが悪夢でならなくてはならないのは、至極当然のことだった。
「サモンスレイブと、コールスレイブ…!」
取り巻きと呼ばれる使役するモンスターを召喚し、さらに傍らへ再召喚し直す、古代種と呼ばれる各地に封じられている悪魔たちが持つ能力のひとつを思い出し、ファルは奥歯を強く噛みしめた。
ナイトメアからナルを預かり、ドッペルゲンガーは彼女の細い首筋に刃を宛がう。
苦しそうに呻いた弟子は瞳を濡らし、縋るような視線でファルに助けを求めた。
「し、しょう…!」
か細く弱々しい助けを求める声。
もうそれだけでファルが冷静さを失う理由は十分だった。
「今すぐナルを離せ!」
「ふふ!それ以上動くと、この娘が薔薇のように染まるが…果たしてそれでいいのか?」
悪魔からの挑発になど乗るはずがない、そう思って今日まで退魔師を続けてきた。
しかし、頭の中は真っ白になるほどの怒りに染まり、心は憎しみに支配され、獣のように荒い息遣いは普段の自分からは考えもつかない姿だった。
決して弟子には見せたくもない、己の本質的な姿を理解しつつ、それでも尚、ファルは止まれなかった。
「やってみろ!先にお前の首を刎ねてやる!」
「おお、なんと勇ましい…試してみるか?」
さらにナルの首筋に刃を宛てられた刃は、剣をすこし動かすだけで血が溢れてしまいそうなのが伝わる。
冷静さを欠いたファルは弟子を助けたい気持ちを抑えきれずに短剣を構え、今まさに飛び出さんとした、その時。
「ダメよ、ファルさん!悪魔は嘆きに手を出せないから落ち着いて!」
ミカが大きな声でファルに冷静さを取り戻させるため呼び掛けたのだ。
しかしその言葉にドッペルゲンガーは目を細め、楽し気に口元を歪めると、さらにファルを煽るための言葉を紡ぐ。
「トゥエラーシュの娘よ、あくまで命が危ぶまれるような害を与えられないだけだぞ?ふふ!」
そう言うとドッペルゲンガーはナルの頬に舌を這わせ、彼女の聖職者としての尊厳を散らすことがどれだけ容易いのか示した。
紺碧の瞳をかたく閉ざし、浮かぶ涙の粒をみたファルは限界だった。
「そんな事、ぼくが阻止してやる!」
ふたたびマグヌスエクソシズムを顕現させるべく、ファルがブルージェムストーンへ手を伸ばしたのを見計らったドッペルゲンガーは、さらにナルを抱き寄せる。
「まあ待て、この娘に痛い思いをさせるつもりはない…交換条件としよう?」
浄化の光の顕現を取りやめ、ファルは怒りに染まる表情でドッペルゲンガーを睨んだ。
「どんな条件でもナルを返してからだ!」
「そうなるかはお前次第だ、ふふ…!」
短剣を下ろすつもりのないファルに対し、ドッペルゲンガーも刃を下ろすことなく話を続ける。
「もうこの身体は限界を越えている、新しい身体がほしい…」
「ダメよ!永い時間を掛けて魂も弱らせてきたのに、そんな条件飲めるものですか!」
答えたのはミカであったが、ドッペルゲンガーが表情を変えることはなかった。
「だから新しい身体がほしいのだ、トゥエラーシュの娘よ」
そう告げたドッペルゲンガーはナルを抱き寄せ、ふたたびファルだけを視線に映す。
「まさか…」
ファルの言葉に悪魔は笑い声をあげる。
「其方の身体は馴染みが良さそうだ、そうだな…お前にしよう」
その言葉にファルは絶句し、もはや冷静に考えることのできなくなった頭で弟子のことだけを考えていた。
八方塞がりの状況は悪化しかなく、ナルを救うことが出来る奇跡を起こすことは不可能で、這寄る絶望の気配は色濃く辺りに漂っている。
「考える時間を与えよう、明日ふたたび同じ時間に扉を開くがいい」
「これ以上レプリカは使わないわ!」
ドッペルゲンガーの狙いに気付いたミカはいち早く反応するが、それは火に油を注ぐ結果を招いた。
「そうなれば我が短い余生、この娘と楽しく踊りあかすだけだ…なあ、退魔師よ?」
そう告げたドッペルゲンガーはナルを攫い、転送装置の向こう側へとふたたび黒い霧となって姿を消した。
もはや一行に選択肢はなかった。
「…くそっ!!」
残されたファルは地面を殴りつけ、己の無力さを呪った。
それぞれが納得などできない面持ちで呆然とナルが消えてしまった転送装置のその向こう側をみつめ、絶望の味を噛みしめていた。
「…弱っているからこそ、残りのレプリカを使わせようとしてるんだね?」
ユグの問いにステアもミカも頷き、ファルは奥歯を噛みしめる。
「しかも、このままではあいつに勝てない、それを見越しての交渉ってわけだ?」
ステアの応えにミカは強く頷く。
「切り札であるナルを攫い、戦力として申し分ないファルさんを欲する、さすがゲフェニアの悪魔ね…」
このままゲフェニア遺跡にいても活路は見出せない。
ドッペルゲンガーが魔王の嘆きには手を出すことは出来ないという言い伝えを信じ、四人は最悪の状況を立て直すために立ち上がる。
ミカがファルにワープポータルを願い出ると、それは悔しそうに魔法都市ゲフェンへのワープポータルが顕現した。
後悔と愛しさをゲフェニアに残し、この悪夢を打ち破るため、野良猫たちは朝を迎えるゲフェンへと戻ることになった。