昨夜はすっかり話し込んでしまったせいで、ナルはファルの見送りをすることはできなかった。
まだ夢見心地の頭で起き上がり、部屋のテーブルを見ればステアから借りたワンピースが綺麗にたたまれており、自分が寝てしまったあとにファルが洗っておいてくれたのだと分かった。
(師匠、やさしい…)
真白のワンピースからは洗濯石鹸の香りがして、心を和ませてくれる。
出掛ける前にこうして用意までしてくれる辺りが、ファルの魅力のひとつだと改めて感謝した。
昨夜の話のなかで、ファルが不在の間はしばらく宿屋を借りておけるように手配してあると鍵を渡されたことを思い出す。
時刻はまだ朝市が開いてる頃で、ナルは南噴水ちかくの喫茶店で朝食をとりつつ、ストレイキャットを訪問するため支度を整えることにした。
預かった魔王の嘆きは相変わらずほのかな光を灯しており、陽の光にとろけてしまいそうな水色の瞬きを大事にロザリオと共にポケットへとしまい込む。
今日はなにか起こりそうな気がする、そんな朝だった。
南噴水を横目に、ナルは目的の喫茶店でチョコクロワッサンと紅茶を楽しんでいた。
前にもファルと来たことがあり、その時にも同じメニューを頼んでからというもの、すっかりお気に入りのお店の一つになってしまった。
クロワッサンの芳醇なバターの香りとかろやかな食感は包まれているチョコレートの魅力をぞんぶんに引き出しており、フレーバーを選べる紅茶もナルの好きなアールグレイが取り揃えられており、ゲフェンに滞在する間にまた訪れたいと思っていたほど。
一人でとる朝食はすこしばかり寂しいが、今はただファルが無事に戻ることだけを祈るしかない。
(はやく調査が終わってほしいな…)
代金を支払いながら師の無事を願いつつ、ストレイキャットの邸宅を訪問するにはすこし時間が早すぎるため、ナルはそのまま露店を見て回ることにした。
魔法都市といわれるだけあり、露店に並ぶアイテムは魔力に関する品が多く、非常に目につきやすい。
今もナルが見ている店に並べられている青ポーションは魔力回復をするアイテムであるし、ぶどうジュースも魔力の疲労回復を促す品だ。
ナルは今でこそマグニフィカートを取得し、自ら己の魔力管理ができつつあるが、やはり心許無い面は拭えない。
(…い、一応かっておこう…一応…)
青ポーションをお守りがてらに購入し、南噴水へと視線を向ける。
太陽に照らされている水しぶきはきらきらと宝石のように輝き、ナルは忍ばせている魔王の嘆きに指を這わせ存在を確かめる。
噴水の台座は目を引くほど美しい装飾が施されており、この噴水はゲフェンタワーの下に眠るというゲフェニアの時代からあるものだと歴史書には書かれていたことを思い出す。
確かに今では見掛ける事のない独創的な模様は類を見ず、とても印象に残る装飾である。
「お、ナルじゃないか?」
声の主を探せばそこには買い物途中であろうステアとミカがいた。
「おはようございます、買い物ですか?」
「昨日の雨でだめにした矢筒をな、ナルも買い物か?」
ステアの問いに首を振り、この後にストレイキャットに顔を出そうと思っていたことを告げる。
その答えに二人はぴんと来たようで、ミカに至っては顔を綻ばせた。
「ということは、体験するのね?」
「ええ、しばらくお願いしたいな、と…」
恥ずかしそうに頭を下げると、ステアは「にしし!」と笑うと目を細め、なんとも満足そうに頷いてみせた。
「じゃあ買い物終えたら、すぐにでも手続きしないとな!」
二人に迎え入れられるように合流したナルは、折角だからと共に露店を見て回ることにした。
同性同士での買い物は盛り上がり、使わなさそうなモノを買おうとするステアを引き留めたり、レッケンベル社から出た新作の香水を試したり、あっという間に時間が過ぎてしまう。
満足ゆくまで楽しんだ三人がそろそろストレイキャットへ戻ろうとした、その時。
「お嬢様!みつけましたよ!!」
それは突然の事だった。
執事のような服装の男性がミカの腕を掴み、人混みの中へと連れ去ろうとしたのだ。
「ミカ!」
ステアの声がミカへ届いた、その刹那。
周囲の気温が一気に下がり、瞬く間にミカの腕を掴む男の足は地面とともに氷漬けとなった。
「お嬢様!なんてことを!」
「私に触らないで!家には戻らないわ!」
それはミカがフロストダイバーを唱えた結果であり、その様子の一部を見ていた人からは悲鳴が上がる。
男の言葉を無視するように、ミカは咄嗟にナルの手を握りその後ろへ下がり、身体を震わせた。
事情が分からないナルは戸惑いながらもミカを守るよう前に立ち、ミカに視線を向ける男を不安そうに瞳に映す。
「こっちだ!いくぞ!」
ステアの声に二人は冷静さを取り戻し、また一時的な場の混乱に乗じてざわめく露店街から走り去る選択をした。
息を切らして戻ったのはストレイキャットの邸宅であり、そこで三人を迎えたのはエプロン姿のユグだった。
「おかえり、ってあれ…ナルだ、いらっしゃい!」
「…お、じゃまします…」
南噴水から東門まではなかなかの距離があり、すっかり息の上がったナルは勧められるまま椅子に腰を下ろす。
「いやぁ、今日一番の運動したなぁ!」
ステアは疲れを笑い飛ばし、ユグに渡されたコップの水を一気の飲み干すと満足そうにソファに倒れこむ。
ただ、ミカだけは不満そうな表情を浮かべ、呼吸を整えるかのように静かに窓辺に佇んでいた。
ただごとではない不穏な空気を察したユグがナルに小声で「ミカ、どうしたの?」と尋ねた瞬間、ナルが答える間もなく傍にあったガラスのコップが花火のように砕け散った。
「きゃあ!」
ナルの悲鳴を皮切りに、ミカの姿に異変が起きる。
綺麗な萌黄色の髪は色の濃い翡翠色に変わり、それは次第に赤みを帯びてステアのような真紅色へと変わる。
ぎらつくような色味はたしかに憤怒の感情を感じ取れるほど鮮烈で、ナルはその様子を息をのんで見守った。
「あれま、ご機嫌斜め…?」
ユグがミカの肩に触れようとした瞬間、小さな炸裂音とともにユグの手に電撃が走ったのが見えた。
「あいてて!どうしたの?なにがあったの?」
それでも諦めずユグは優しく声をかけながら、窓の外から視線を外さないミカへ話しかける。
「南噴水でトゥエラーシュ家の者に連れ戻されかけたんだよ」
見兼ねたステアが事の発端を説明し、だるそうに身体を起こしながらミカの様子を伺う。
肩を震わせる姿は、それがよほど嫌だったことを物語っている。
そのやり取りを見守っていたナルはトゥエラーシュ家という単語と、ミカの変化した髪色を見て、ひとつの答えに辿り着く。
「…もしかして、あの有名な魔術師の…?」
ナルがステアに尋ねると、強く頷いて間違いないことを教えてくれた。
トゥエラーシュ家、それはゲフェンで有名な魔術師の血筋の名家。
ウィザードのみ生まれるのも有名であるが、その資産も王族に匹敵するほどの貴族であり、ルーンミッドガッツ王国の僻地ですら名前は聞いた事があると言わしめるほど有名な家である。
生まれ持った高い魔力を後世へと繋ぐため魔術師同士の婚姻を徹底し、ウィザードとしてトゥエラーシュ家に血を望まれるのは名誉あると言われるほど。
また、魔力の素質が高すぎるあまり、気分の高揚等で髪色が変化する特異な子が生まれるのも有名である。
「…ミカ、その家のお嬢さんなの?」
ナルが興奮冷めやらぬミカに尋ねると「そうよ…」と消え入りそうな返事が聞こえた。
ユグは変わらず電撃で心の拒絶反応を見せるミカの背中を擦り続け、落ち着いた声色で事情を明かす。
「ミカは色々あって家出してここにいるからねぇ」
(家出、なるほど…)
ユグの言葉に納得したナルも、心配そうにミカの様子を伺う。
変わらず続く放電もミカの意志とは裏腹に発せられるようで、荒ぶる己を抑えるように深呼吸を繰り返す姿はつらそうに見える。
(魔力の暴走…)
ウィザードにとって、それは誰にでも起こりえる現象のひとつ。
大地のマナを借り、自然現象すら使役する魔力のコントロールは一筋縄でいくものではないらしく、常に想像を絶する集中力が必要だ。
それは内なる適性が高ければ高いほど魔力の流れを抑えるのに高度な技術を伴い、人によっては魔法を扱う際に長い呪文詠唱により心を落ち着かせる者もいる。
ファルとダンジョン内で出会ったマジシャンが未熟な精神で火の魔法を扱い、手袋ごと手を燃やしてしまったため火傷の治癒をしたのを思い出し、あれもまた魔力が暴走した結果だったことを思う。
魔術師の情緒不安が魔力の暴走を引き起こし、それは時に人体に牙をむく。
不安、悲哀、憤怒、恐怖、高揚。
そのすべてを自身で制することができねば、今のミカのように大気は震えるのだ。
「うちのギルドは野良猫って意味だけあって血筋とか家柄とか関係無いし、家出の理由だってどうでもいいけどなー」
ステアが自ら淹れたコーヒーをナルにも勧め、コーヒーカップを受け取ったナルは心痛な面持ちで目を伏せる。
「…うん、関係無いよね…」
ナルの呟きが聞こえたのだろう、ミカの髪色が次第に翡翠色を帯びてくる。
(なるほどね、事情を知らないナルに現場を見られたから不安ってことなんだね…)
合点がいったユグは恐れる事なくミカの背中を宥めるように優しくさする。
「大丈夫だよ、ミカ…ナルなら大丈夫…」
ユグの小さな声掛けは優しさにあふれ、ミカは静かに何度も頷き応える。
放電も収まりつつある中、ステアが近くの引き出しの中から一枚の書類を出す。
「ほい、これがギルドの入団申請書、ここに名前書いてくれるか?」
ペンを渡され言われるままにサインをすれば、書類はふわりと舞い上がり光となって空中に溶け消えてしまった。
「あ…」
ステアから上がった声に、ユグもびっくりした様子でこちらを見ていた。
「…ねえステア、今のそれって正規入団のほうじゃないの?」
「あー、…じゃあ正規入団ってことでいっか」
ユグとステアのやりとりはあっという間の出来事でナルは唖然としてしまったが、窓辺から聞こえた小さな笑い声に視線を向ける。
そこにはすっかりいつもの髪色を取り戻したミカが、面白そうにくすくすと笑っていた。
「もう…しっかりしてよ、ステアったら!」
ミカの声にステアは「にしし!」と笑い声をあげた。
「まあ是非もなしってやつだよ、ナルはいいか?」
「ふふ!なってしまったものは仕方ないので、お願いします!」
ナルの返答にそれぞれ満足そうな表情を浮かべ、ギルドは新たに増えた野良猫を歓迎した。
「ようこそ、ストレイキャットへ!」