あの忘れ物の一件から、ネスは変わらない生活を送っていた。
もしかしたら研究所内の上役からなにか小言の一つでもあるかと覚悟していたがその気配はいつまで経ってもなく、研究の手伝いも変わらず請け負ってはアカデミーで学ぶ日々。
(やっぱりあれは私の勘違いだったのかも…)
雨に濡れて凍える身体と、夜間で感じた恐怖心、そして本来であれば通る事のなかった廊下。
そのすべてがいつもとは違う環境であったし、もしかすると自分の思い込みがそうあればと考えてしまい、結果として悪い認識をしているのだろうと、ネスは前向きに考える事にした。
いつまでも怯えていては勉強にも支障が出るし、ここ最近は食事もままならない。
(いつまでも振り返っていてはだめだ、しっかりしなくちゃ!)
読む書物の量が格段に増えたのと薄明りで本を読みふける癖が災いし、つい先日からかけはじめた眼鏡を掛け直すと、ネスはアカデミーから持ち帰ったレポートを鞄に研究所へと向かった。
今日は夕方から顔を出すことになっているが、久しぶりに室長に会えるとあり、研究室のドアノブを回す手にすこしばかり緊張を感じる。
秋の夕暮れは足早に夜を連れてくるもの。
薄手のガーディガンでは心許無く、友達とお揃いで購入した頭まで覆えるケープはすこし厚手でネスの肩回りを暖めてくれる。
次の段階を指示する予定表がつまったファイルを取り出し、手帳に書き込まれたアカデミーでの予定を確認していると、奇妙な感覚に気を取られる。
人の気配のような、なにかを予感させるもの。
(なにかしら…?)
ふと窓へ目をやれば、沈みゆく真っ赤な夕日がネスを照らした。
依頼を受けたファルはジュノーにあるイグドラシル研究所を訪れていた。
まもなく夕刻を迎える研究所は帰宅する人もまばらで、忍び込むのは簡単だった。
指定された部屋で息をひそめていると何も知らない目的のセージが入室し、ファルは得意のクローキングでその様子を伺った。
ブラウンの短い巻き毛、大きめの眼鏡、ケープの下から除くシュバイチェル魔法アカデミーのマントの女。
(間違いない、この子だ…)
賢者と呼ばれる職でありながら研究所の秘密を盗もうと秘密裏に動いているため、その命を狙われることになったセージの女の子にすこしばかりの申し訳なさもなく、すっかりアサシンの仕事に慣れてしまったファルは再びカタールを血に染めるべく最後の毒の確認をした。
せめて苦しむことのないように。
まるで眠るように終えられるように。
懺悔などする間もなく、罪を抱えて逝けるように。
セージの子が窓の外の夕日に視線を奪われた、その一瞬だった。
首筋に一閃をした、その時、二人の視線は交差した。
それは間違いなく兄で。
それは間違いなく妹で。
取り返しのつかない瞬間は、たった数秒の別れ際に名前を呼ぶだけとなった。
「ネス!」
「兄さ…」
ふわりとよろける妹を抱き止め、予め用意していた解毒薬をすぐに塗布するが意味のないことをファルはよく知っていた。
「ああ!だめだ、ネス!そんな!!」
自分のように毒に耐性こそある者であれば効果を得られるだろうが、なんの訓練も行っていない妹の身体は瞬く間に毒に侵され、その呼吸を弱々しくする。
隙間風のような音をならす喉は神経毒であることを伺わせ、もはや焦点の合わない空色の瞳は天井を力なく見上げる。
「しっかり!ネス!」
呼吸の妨げにならぬよう頭を支えてやるが、ネスに残された時間はわずかだった。
兄の手を握り返し、光を失った瞳は力なく閉ざされ、唯一の家族は己の手によってこの世を去った。
幾度もみた人の死の間際。
今まで心に残ることなどなかったのに、自分の妹となるとそれは悪夢のように心を蝕み、溢れる涙は止まることなく瞳を揺らす。
(どうして、どうして…!)
一体どこで自分は選択を間違えたのだろう。
相手の確認をもっとよくすべきだった。
依頼があった時に素性を調べ上げるべきだった。
妹を一人でジュノーへ行かせるべきではなかった。
自分がアサシンなどにならなければよかった。
(ぼくのせいだ、全部…!)
後悔はあとから溢れ、もう二度と取り戻すことのできない時間は充分なほどファルを責める。
過剰なほどの呼吸により、喉が悲鳴のような音を立てる。
まだ残る体温はネスが先ほどまで生きていた証。
すぐに死後硬直が始まるのをよく知っているファルは、大切な妹をこのままにはしておけないとマントでくるみ抱き締めると窓を開け放ち、迷いなく共に室内より離脱した。
誰もいなくなった室内へ約束の時間通りに姿を現したのは、ネスの所属するチームの室長だった。
窓は開かれており、室内には確かに誰かいた形跡があった。
赤い夕陽は室内を照らし、机の上の予定表がぎっしりつまったファイルは開かれたまま。
「おかしいな、ネスくんが来ているはずなのに…」
窓を閉め、室長はもう二度と訪れることのないセージを夜が訪れるまで待った。
この日を境にアカデミーでも研究所からも、ネスは姿を消した。
あの日以降ジュノーでネスの姿を見た者はおらず、心配した学友が彼女の暮らす部屋を訪ねたところ、すでにもぬけの殻の部屋は誰もいなかった。
学業がとつぜん嫌になり途中退学する者も決して珍しくないため、きっと彼女もその一人になってしまったのだろうと、ネスの失踪は時間と共に風化してゆくのであった。
研究室でのあの後、ネスを大事にマントにくるんだファルは、そのまま国境都市アルデバランまで妹を運んだ。
そこの教会には顔見知りのマルシス神父がプロンテラ大聖堂からちょうど出張で来ているのを知っていたからであり、ファルは信頼のおける場所にネスを連れて行きたかった。
夜の帳とともに現れたファルはすっかり顔色を悪くし、縋るようにマルシス神父に事を伝えた。
「なんと!では、この子が…」
優しく横たえられたネスの表情は、眠っているようにしか見えないほど穏やかであり、取り乱した様子の兄とは正反対の静寂を以て死を迎えていた。
ちょうど教会に立ち寄っていたのはマルシス神父だけでなく、ファルと時を同じくしてアサシンとなった顔見知りの寿も滞在しており、妹のネスに訪れた突然の不幸に驚き悲しんでくれた。
「なんでファルの妹がこんな…」
寿の言葉にマルシス神父はロザリオを握り、ネスの安らかな眠りに祈りを捧げる。
「アサシンが家族に手を掛けることはある、それは母も父にそうしたから知ってるんだ…」
ぽつりと呟かれたファルの言葉にマルシス神父は眉をひそめた。
ファルの両親の代から交流のある神父は、どうして父と母がそのような結末を迎えたのかを知っていた。
どうにもならない失敗をしたファルの父は依頼未遂行としてアサシンギルドからの処罰対象となり、彼に問題なく近づくことのできるアサシンとして彼の妻、つまりファルの母がその任務を請け負ったのだ。
「…ファル、あなたは誓約書を書かなかったのですか?」
マルシス神父の問いに、ファルは首を横に振った。
「それって家族であるが殺しても構わないし恨みはしないっていう、あの同意書だろ…?」
「アサシンマスターは、なにもお伝えにならなかったのですか?」
ふたたび首を横に振るファルの姿は、居た堪れないほど悲しみに沈んでいる。
本来であれば家族を手に掛ける場合、またその依頼が自分に巡ってきた場合に、それを了承し、またその件について遺恨を残さないとギルドに誓約をたてるのが通例であるが、その段取りがなかったのはその場の誰もが納得できなかった。
大きな何かが動いてる気配を感じつつ、ファルは涙を拭うとアサシンマスクを装着しなおし立ち上がる。
「…寿、ジュノーに残ってるネスのすべてを処分してほしい…」
「え!おまえ、いいのかよ…それで…」
寿の戸惑いはもっともで、マルシス神父も悲痛な表情を浮かべている。
「誰にも暴かれないように失踪したことにしてほしいんだ…お願いできるかい?」
賢者の都市から妹のすべてを取り戻すようにその身辺の整理を願う姿は兄としての姿であり、情報操作や秘密裏に護衛などを得意とする寿はつよく頷く。
「任せろ、全部取り戻してきてやる」
「ありがとう、頼んだよ…」
涙に暮れた空色の瞳でマルシス神父を見たファルは、深く頭を下げる。
「神父様にはネスの埋葬を願います、ヴァルハラへ迷うことなく行ける様に…」
悲痛な願いをありのまま受け入れ、神父はファルを抱きしめてやると何度も頷いた。
「ええ、ええ!ネスの魂が巡るよう、ヴァルハラへ迎え入れられるよう送り出してあげます、任せてください…!」
マルシス神父の言葉と優しさに感謝しつつ、ファルはふらつく足取りで教会の扉へと向かう。
もう聞く必要などなかったが、寿は口にせずにはいられなかった。
あまりに悲し気で、あまりに寂し気で、今にも消えてしまいそうな後ろ姿だったから。
「おまえはどこへ行くんだよ、ファル…!」
ゆっくりと振り向いたファルは虚ろな瞳で寿を捉えると、静かに告げた。
「アサシンギルドへ…マスターに会って確かめるんだ…」
普段の人懐こい人柄がうそのように、負の感情に満ち溢れるファルの出で立ちは、まるで…。
(死神だ…)
寿は喉を鳴らし、彼の後ろ姿を見送ったのであった。