フェイヨンダンジョンの一件より数日。
ナルはファルに連れられ各ダンジョンの特性やモンスターの性質を学びつつ、アコライトとしての鍛錬を積むことに力を注いだ。
無理をしなければ大抵のダンジョンの中間層あたりまでは二人で行くことができたし、途中で出会う冒険者へ支援を行ったことも自身の新たな発見へと繋がり、その経験は着実にアコライトとして成長を促していた。
プロンテラの宿屋、ネンカラス。
相変わらず良い部屋を借りているファルのもとへ、一通の書状が届いたのは昨日のチェックインのときであった。
「…招集だなんて珍しいね」
それは大聖堂が正式に退魔師としてのファルを呼び出すものであり、書面を見るファルの瞳の険しさはナルが今まで見たことのない苦悩を感じさせるものであった。
「お師匠様、なにか不都合でも…?」
不安そうに瞳を揺らす弟子を心配させまいとファルは微笑み、その首を横に振る。
すこしばかり言い淀んだ様子こそ匂わせたが、告げられたのはある提案だった。
「なんてことはないんだけど、明日から五日ほど休暇にしようか」
「え、突然ですね…?」
弟子入りしてから休暇らしい休暇などなかった。
降って沸いた提案を不審がるナルの頭を優しく撫で、ファルは話を続けた。
「ナルのプリーストへの転職試験の準備もしたいし、この招集の件もあるからね…ぼくの準備期間ってことでどうかな?」
もちろんこの部屋は貸し切っておくから心配しないでと付け足す辺りがファルらしく、またプリーストへの転職などまだ先であると思っていたナルは戸惑いを表情に浮かべる。
「私が…プリーストに…?」
師から告げられた言葉をなんども噛みしめ、師弟の短い休暇が幕を開けたのだった。
弟子となってからはじめての休日。
それはファルと共にずっと各地を巡っていたナルにとって、時間の有り余る日となった。
朝から出掛けてしまう師の後ろ姿を見送るのは苦痛の類いであるし、初日など宿から一歩も出ずにベッドで寝転がって終わってしまった。
(こ、これはよくない…)
十分すぎる環境と、十分すぎる時間。
座学が苦手なナルは、この機会に改めて聖職者としての知識を得るため、その多くの時間を図書館にて過ごすことに決めた。
(師匠にがんばったところ、少しでもいいから見てもらいたいもの…!)
そんな弟子の自発的な行動を見透かしてか、ファルも安心してナルの転職試験の準備をしつつ、しばらく疎かにしていた身辺の情報整理を行うことにした。
すっかり弟子と過ごす穏やかな毎日に胡坐をかいていたが、世界は思っているよりもずっと目まぐるしく様相を変えていたようで、しばらく退魔師の仕事から弟子の育成に注力していたことを少しばかり後悔した。
なにやら魔法都市にて大きな事件があり、騎士団も含め、大聖堂の上層部も慌ただしい様子。
(まさか、こんなタイミングでなんてね…まいったな…)
ナルの転職を優先したいファルは準備を整え、とうとう転職の日を重ねる形で召集の日を迎えることにした。
そうして訪れた召集当日、ファルは機嫌良く図書館へ向かったナルを見送ったあと、プロンテラ大聖堂へと向かった。
大聖堂の重い扉を開けばすでに二桁はいるであろう聖職者含む神父たちがその表情を曇らせつつ、それぞれ顔見知り同士で集まりなにやら話し込んでいる。
「おはようございます、神父様」
ファルは深々と頭を下げ、顔見知りの神父たちに挨拶をすれば声に気付いた一人が確信した面持ちで声を上げる。
「おぉ…ファルではないか!よく来てくれた!」
「彼が噂の…?!」
大聖堂の神父たち、その中には今でこそすっかり名が知れた退魔師のファルをはじめて見る者がいたようで、場は驚きが入り混じり騒然とした。
そんな反応に気にする様子を見せず、ファルはナルの転職にも関わったマルシス神父に改めて尋ねた。
「マルシス神父まで招集されるなんて、今日はいったいどうしたのですか?」
そう、いくらプロンテラ大聖堂とはいえ、神父がこんなにも集まるのは非常に珍しいことであり、ファルの経験からしてもプロンテラ王家の祝祭事でもない日に行われるこの光景は異様であった。
もし招集が祝祭に関するものであれば大聖堂の関係者のみならず、騎士団に携わる者たちもこの場に招集されていなければ不自然を極めるもの。
あまりに異質な招集に表情を強張らせるファルへ、マルシス神父は顔色を悪くさせながら口を開いた。
「ファル、お前の耳には届いていないかもしれませんが、ゲフェニアの悪魔の話をしていたのです…」
苦々しそうな顔色のマルシス神父は、とうとう具合が悪くなったようで俯いてしまった。
「例のゲフェニア遺跡の惨殺事件、ですか…」
「まさか!知っていたのですか!」
ファルの言葉に聞き耳を立てていた他の神父たちも同様に驚いた様子で、口々に「知られているとは…」「…いや、庶民には流れていないはずだ…」とそれぞれ不安を述べ始め、場はまた混沌を極めた。
「ファルよ、どこまで真実に近付いているのですか?」
「いえ、何も…噂程度に聞きかじっただけですので…」
そう答えた姿にマルシス神父をはじめ、他の神父も肩を落とした。
騒然とするなか祭壇にようやく姿を現した大司教は、いつも通りの穏やかな声で神父たち、また招集された一部の聖職者たちを呼んだ。
「今日はよく集まってくれました、さあ、皆に耳を傾けてもらいたいことがあります、ご静粛に」
こうして始まったのは、やはりゲフェニアの事件にまつわる話であった。
ゲフェニア遺跡惨殺事件。
それは師弟が休暇をとる、二十日ほど前の出来事だった。
魔法都市ゲフェンの地下深く、今まで道を閉ざされていたゲフェニア遺跡への道が騎士団の調査により確実なものとして発見され、一部の騎士団員と大聖堂からわずかばかりの聖職者、そして命を惜しまぬ冒険者数名を調査へ向かわせた。
しかしその調査隊は待てど暮らせど戻らず、とうとう十日経った頃、騎士団と大聖堂より正式な名目でパーティを組み現地へ赴くと、そこには見るも無残な遺体の数々があったのだという。
致命傷になったであろう傷跡は剣によるものであり、それこそ彼の地に永く封じられているゲフェニアの悪魔の仕業ではないかとされ、騎士団と大聖堂の上層部だけに伝わる事件となった。
ゲフェニアの悪魔といえばその名をドッペルゲンガーと呼ばれ、姿見を写し取った人間に成り代わり、ゲフェニアと呼ばれる今のゲフェンの前身である都市をたった一匹で陥落させた悪魔である。
この悪魔は特別強力な力を持つ悪魔であり、その封印はゲフェンに代々続く魔法職の家系が担い続けており、数世代にも及ぶ大きな負担を抱えながら、今も封じ続けているという。
この度の調査で居場所が明らかになった悪魔を打ち倒すため、騎士団と大聖堂、その双方の協力にて討伐隊を数度送ってはいるものの成果は得られず、遭遇する事すら出来ない現状はいたずらに時間だけを消費していた。
「あまり公にできることではありません、それ故、次の調査隊に志願するものはいませんか?」
大司教の言葉は集められた聖職者をふるいにかけるもので、神への誓いを試すものでもあった。
しかし事件の内容を聞いた者たちが自ら命を懸けるにはあまりに理由付けが弱く、自ら手を上げるものは皆無。
それはファルも同じであり、彼はただ冷静に事件の推測をしていた。
(何度も遭遇はしないってことは、現地で出現させるトラップのような物がある…?)
ナルと共にオシリスを退けたピラミッドの事を思い出し、なにかきっかけとなる前兆がないのか。
はたまた、ゲフェニアの悪魔に関しては、他の古代モンスターとは決定的に違うなにかがあるのか。
憶測の域を出る事はないが、やはり自ら志願していくには危険性が高すぎる。
ファルが悩んでいると大司教は杖で床を小突き、その場にいるすべての人員から注目を集めると迷いなく宣言をした。
「志願者がいないようですのでこちらにて調査隊の人選を行います、選ばれた人には後日改めて書状を送ります、了承を…」
それだけ告げた大司教は共周りと祭壇から降り、神父たちの間を縫うように大聖堂を後にした。
その後の大聖堂といえば当然といった様子で騒然とし、黙り込むファルは眉をひそめた。
(なるほど、上層部はこれがやりたかったんだね…)
まるで生贄の選別のようなやり方にファルは奥歯を噛みしめた。
大司教が去った大聖堂内は不安な言葉が入り乱れ、普段の静かで穏やかな大聖堂とは掛け離れた姿を見せており、まるでここだけがどこか別の世界へ切り取られたような不安で渦を巻いていた。
そんな空気に耐え切れなくなったのだろう、マルシス神父はファルに声を掛けた。
「大変なことになってしまいましたね…」
「ええ、招集なんて碌なことがないですよ」
甘えたな弟子の笑顔が脳裏にちらつき、こんなくだらない茶番の為に無駄な時間を過ごすことになってしまったファルは心底いやそうに目を細めた。
誰もが今日の招集を喜んではおらず、ただ不安の種を巻くやり方をした上層部は闇を秘めており、それを垣間見た自身の心も深淵に沈みゆくのを感じる。
心に広がる闇の中、マルシス神父は思い出したように声を上げた。
「ああ、そういえば…!ナルの成長は著しいものですね、報告書を見て驚きましたよ!」
アコライトの管轄はすべてマルシス神父にあり、その成長度合いは本人、もしくは指導する立場からの報告として挙がってくる。
それはもちろんナルも例外ではなく、ファルによる定期的な報告書による彼女の成長速度は群を抜いていた。
刺々しく荒んでいたファルの心は弟子の話となったことで落ち着きをみせ、今夜控える彼女の転職を思い出すと表情を明るくした。
「早速ご覧になったんですね、ありがとうございます」
「まさか僅か三か月足らずでここまでの成長を遂げるとは、ナルは良い師を持ったものです!」
あれほど昼夜問わず、すべての時間を共にして教え込んだ弟子。
それが他のアコライトと同列扱いなどされてはたまったものでなく、特別お気に入りのたった唯一の弟子を褒められれば鼻も高くなるもので、ファルは照れくさそうにふにゃりと笑った。
先ほどまで退魔師として厳しい表情ばかり浮かべていたファルであったが、ようやく戻ってきた彼らしい反応にマルシス神父も微笑みながら頷く。
「そろそろプリーストに転職しても、問題はないでしょうね」
「ええ、今夜にでもそうしようと準備を終わらせました」
「なんと、今夜ですか!随分と急ぎますね?」
マルシス神父の驚きは当然のもので、ファルは周囲に気を配ると神父の耳元で囁く。
「ゲフェニアの悪魔、その影に心当たりがあるもので…」
ファルからの提案にマルシス神父も察しがついたようで、納得したように強く頷く。
「…それでは、夕刻には転職できるよう、こちらでもトーマス司教に申し送りしておきましょう」
「ありがとうございます、是非」
二人が話をしている間にも集められていた聖職者や神父たちは各自それぞれ解散をし、大聖堂からは人の気配がまばらとなり、いつもの静かな姿を取り戻しつつあった。
それを見計らい、ファルとマルシス神父も日常へ戻るため互いに会釈をする。
「ナルがプリーストになったら弟子も卒業、寂しくなりますね…」
別れの間際マルシス神父から受けた言葉に、ファルは首を横に振ると笑顔で答えた。
「ご心配なくとも、転職させても当分は世話を焼くつもりですよ!」
大聖堂から解放されたファルは図書館にいるナルと合流し、とうとう今夜プリーストへの転職試験を行うことを告げた。
ようやく試験の日を迎えることとなったが、ナルはその先に広がる不安をファルに尋ねる。
「お師匠様、私…きっとプリーストになっても未熟だと思うの…」
それは図書館で座学に励んだからこそ、さらなる高みを見出した者ゆえの不安であった。
退魔師とならずとも魔力の増強は必須で、徳を積むだけでは成しえない厳しい教えを説く経典の数々に心はすっかり折れていた。
「心配しなくても、しばらくは師事を続けるつもりだよ」
「本当に…?」
もう手離すのが惜しいほどの逸材となっている事に、まったく気付いていない弟子へファルは頷く。
「退魔師にならずとも、ぼくが導いてあげるから心配はいらないよ」
弟子に降りかかる災厄は自分が祓うと、その為の退魔師なのだと、ようやく夢の階段の始まりに立つことになった弟子の背中をめいっぱい推してやった。
その言葉の数々にナルもようやく安心した表情を浮かべ、あとはただ試験を待つだけと笑顔をみせてくれた。
そして時刻は約束された夕刻。
はやめの夕食を済ませたあと、師弟はふたたびプロンテラ大聖堂へと足を運ぶと、トーマス司教の部屋の扉を叩いたのだった。
トーマス司教とはプリーストの転職試験の責任者であり、管理者でもある。
また、神罰の代行者となるプリーストの試験監督でもある彼のその厳格な人柄は試験内容にもよく反映されているもので、判定の厳しい彼の存在そのものがプリーストへの転職を困難にしていた。
「あ、あの…トーマス司教って怖い人なんですか?」
噂を聞いて震える弟子の肩を抱きつつ、ファルは答える事なく静かに笑顔を浮かべながら扉をノックをすれば扉の中から低い声が応対し、ナルの緊張は一気に高まりを見せた。
「さあ入るよ、いいね?」
開かれた扉の先、そこには老齢の男性司教が椅子に腰かけていた。
「お待たせしました、トーマス司教」
ファルの挨拶もそこそこに、トーマス司教と呼ばれた男性は笑みを見せ、ゆっくりと立ち上がってこちらに近づいてくると試験の不安で胸がはち切れそうなナルはファルの手をにぎり、息をのむ。
「召集の場ぶりだな、ファル」
ファルと握手を交わしたトーマス司教は、その傍らで震えるナルに視線を落とす。
「まさか貴殿の弟子の転職に携われるとは、光栄なことだ」
「ぼくの大事な弟子です、お手柔らかにお願いしますね」
師に促されるまま、ゆっくりと司教の前に出たナルは丁寧な動作で頭を下げる。
「ナルと申します、この度はトーマス司教さまのご温情を承りたく試験にまいりました」
「おや…これはこれは、よく行き届いておられる」
ナルへ顔を上げるように告げた司教はマルシス神父より預かった報告書に改めて目を通し、その内容に違いがないことをファルに確認してゆく。
取得した魔法、能力、すべてにおいて相違ないことを確認し合い、とうとう師弟は地下へと続く階段へと案内された。
プリースト転職が行われるのは大聖堂の地下であり、試験内容は集められた不浄なる魂の影との会話により心を試されるもの。
それほどまで心を試すのは、プリーストとは誰にでもなれるような安易な職ではなく、その活動も奉仕を含めた辛く苦しい道であるためでもあった。
薄暗い地下はまるでダンジョンのような空気を漂わせ、転職試験を行うとされる扉の向こうからあふれ出てくる冷気がその原因なのだろうことが伺え、ナルは身体を震わせつつファルがロザリーを首にかけたのを不思議そうに見つめた。
「司教、同行の許可をいただいてもよろしいですか?」
申し送りされた件をすでに了承済みの司教は、ただ静かに頷いた。
「ああ、マルシス神父より伺っている、特別処置として試験の同行を許可しよう」
「師匠も一緒に試験を受けるの?」
突然の同行の話に驚いたナルは思わず師に問い掛けてしまったが、その様子にトーマス司教は優し気に目を細める。
「なに、ファルは再試験といったところだろう、なあ?」
「ふふ、そうですね」
穏やかな雰囲気のなか、とうとう試験の扉の鍵が外される。
「説明はいらないな?」
「ええ、ぼくが進みながらしますので」
トーマス司教の満足そうな顔付きとファルの自信溢れる顔付きにどこか似ているものを感じながら、ナルは手を取られるまま扉の向こうへ踏み出していった。
くぐられた扉はきしむ音を立てながら閉められ、往くべき道の先から這い寄る冷気は悪魔の気配を感じさせ、ファルは怯えるナルを背中でかばうように歩みを進める。
凍えてしまいそうな冷たい空気は決して気温が低いせいではなく、すぐそこに生きとし者を羨む亡霊の吐息が蠢めく証明。
冷える指先に火傷にも似た痛みを感じると、目の前には欲望の名を冠したゾンビ達が姿を現した。
(なんて数…!)
恐怖はその名を冠したゾンビを活性化させたが、ファルの退魔魔法はすべてを聖なる光で浄化してしまった。
「恐れちゃだめだ、相手に飲まれてしまうからね」
退魔の光がうすれゆくなか、ファルは弟子の頬をゆっくりなぞる。
「あ、お師匠様…」
「そう、いい子だね、心は常に落ち着けるものだよ?」
弟子の恐怖が薄れたのを確認したファルは、ふたたび手を引きながら試験の道を進む。
(やってしまった…)
手を引かれつつ、ナルは後悔していた。
先ほどはつい恐怖が勝ってしまったが、それを制するのは己の心。
すっかり恐れに足元を掬われていたことに気付き、ナルは心から反省した。
「ありがとう、お師匠様…」
弟子からの感謝の言葉は心に響き、これより自らが行うやり取りの決意をさらに強めた。
「プリーストの試験に出てくるモンスターは、すべてその影なんだ」
道を進むファルがぽつりと呟く。
さきほどのゾンビの群れも、本来はモンスターではない。
それぞれ冠する欲望の名の影であり、実際は人の目にはうつらないものなのだと、ファルは語った。
零れ落ちた影に名を与え、欲に浸せばそれはやがて姿形をとり、いつしか悪魔とよばれる存在となり、彼らは心を惑わせてくるのだとファルは告げた。
「ぼくは以前、あることで心を迷わせてしまったから…」
今まで見たことのないファルの後悔に満ちた瞳は寂しげで、言葉の見付からないナルは静かに口を結ぶ。
沈黙の前進の彼方、師弟の前に大きな扉が見えてきた。
漆黒の薔薇の模様で飾られている扉は禍々しく、閉ざされた扉の先によくないものが控えているのは未熟なナルでも察しがつき、それは今まで以上に恐ろしくもあり、心は再び恐怖に負けそうだった。
その様子に気付いたファルはナルが溺れぬよう、控える試験の内容を伝え始める。
「ここからは悪魔の誘惑があるんだ、絶対に耳を傾けちゃダメだからね?」
「傾けたら、どうなるの…?」
震える声は縋りたい証。
ファルは真摯な瞳で弟子を見つめ、ゆっくりと口を開く。
「魂を食べられちゃうよ」
「ひゃっ…!」
短い悲鳴を口で押えるナルの姿は可愛らしいもので、すかし怖がらせたくなる気持ちを押さえつつファルは笑顔を浮かべた。
「本物だったらね?試験用だから安心して、ちょっとビリビリってするだけだから」
(えぇ…?師匠、ビリビリしたことあるのかな…?)
すこしばかり興味をそそられた師の失態を聞く事はやはりできず、怯える様子を伺わせる弟子の手を握り締めたファルは大きな扉を開いた。
ゆっくりと開かれた扉は錆びついていたのだろう、金属がこすれ合う不快な音を立てながら更なる深淵を見せるため、その口を開けた。
中は湿り気を帯びた洞窟が続いており、再び扉が閉ざされると壁のろうそくに火が灯ると、それはゆらゆらと幻想的に揺れ動き、闇に溶け込む師弟の影を映し出していた。
「お師匠様…ここは…?」
先ほどとは明らかに変化を帯びた空気は心臓を掴まれるような錯覚を起こすほどの重圧で、ナルの喉がこくりと音を立てる。
「悪魔の影を抽出して閉じ込めてある場所さ」
「悪魔の影?」
聞き慣れない言葉にファルは頷く。
人を特に惑わすとされる悪魔たちの魔力。
その一部をすこしずつ集めて影とし、彼らの惑わしに心が揺らぐことがないよう、聖職者の試練として封じてあるのだと、ファルは語った。
「どうやって封じたのか詳しい事は知らないけど、見た目と思考は影と本体でほぼ変わらないと聞いているよ」
洞窟内の空気が合わないのだろう、ナルは顔色を悪くさせながらファルの背中に寄り添いつつ、震える指先でその法衣に縋っていた。
歯をカタカタと鳴らして怖がる様子は、まるで悪魔と事前に鉢合わせることのないよう逃げを促す防衛本能のようにも見える。
(ピラミッドでも思ったけれど、悪魔の気配にやたらと敏感すぎるね…)
稀に繊細な魔力にて誰よりもはやく悪魔の気配を感じ取り、まるで未来予知をしていると錯覚するほど敏感な聖職者が生まれ落ちることはあるが、それは家系として代々受け継がれることが見られる血の特性であり、ナルのように血に頼らず察する能力がある聖職者は非常に珍しかった。
ナルの様子を案じつつ歩みを進めていくと、とうとう二人の前に小さな悪魔が姿を現す。
それはキチキチと笑い声をあげ、深淵に染まるゴムのような小さな身体に、その手に体の倍ほどもある細い三又槍を手にしたデビルチだった。
「おい、そこの女!いいものをやろう!」
これはアコライトからプリーストへと転職をするための試練であり、デビルチがファルを無視してナルに話しかけるのは当然。
しかしナルはビクリと身体を震わせると、首をなんども横に振った。
「さあ、悪魔へ拒絶の言葉を告げるんだよ」
ファルの言葉に奥歯を震わせ、もはや助けてと言わんばかりに師の瞳を見つめる。
(すっかり怖気づいてしまったね…仕方ない…)
「おい!聞いてるのか!いいものだぞ!いいもの!」
うるさく叫び散らす小悪魔に対しファルは弟子から甘い視線を外すと、その代わりだと言わんばかりに氷のような視線をデビルチに向ける。
退魔師の鋭い眼差しは転職試験用の影といえ震え上がらせるには十分で、途端に口を閉ざしたデビルチは浄化の気配を感じた。
「…悪魔よ、退きなさい」
ファルの言葉によりデビルチはまるで霧のように消え去り、そこには合格を示す紙の札がひらりと地面に舞い落ちる。
「お手本はここまで…と言いたいのだけど…」
ナルの手を握りなおしたファルは、先へ進みながら何かを伝えるべく言葉を選んでいた。
彼がここまで同行した理由は次の悪魔の影にあり、また調子の出ないナルの様子には不合格の気配も漂いはじめており、どう伝えるべきか悩んでいたのだ。
「あ、あの私、次はしっかりやります…!」
すっかり自分の落ち度を指摘されるものだとばかり考えてしまったナルは、信頼を取り戻すのができるのは次しかないと思ったのだろう。
勇気を振り絞り、師の前へ踊り出た紺碧の瞳につよい決意を灯し、その証明をすると宣言した。
「おやおや、これは勇敢だね」
しかしファルはナルの頭をゆっくりと撫で、その勇気を称えると自らもまた告げねばならないことを伝える為、その口を開く。
「ナル、よく聞いて…?次の相手にはぼくも用事があってね、すこしばかりやりとりをしたいんだ」
「悪魔の影とやりとり、ですか…?」
ナルの不安そうに首をかしげる様子に頷き、ファルは続ける。
「そう、だからナルにもより一層の覚悟が必要だよ、退ける為のね」
いつになく重い師の言葉は冗談を言っているようには聞こえず、ナルは小さな声で「はい」と答えると師弟は湿った洞窟を強い眼差しを以て進んだ。
先程のデビルチよりしばらく進んだ先、隠されし枯れた庭園のような場所にソレはいた。
月光色の整えられた髪、紫電の瞳、青年期を迎えた人間の男性、それも立派な剣士であると見間違うほどの造形は、悪魔らしからぬ出で立ちを持って師弟を迎えたのだった。
「…後ろの女に用事がある」
流石に試験用として作られただけあり、同行するプリーストには興味の欠片もない様子のそれは、ただ唯一の転職者であるアコライトのナルだけを瞳に映していた。
「ドッペルゲンガー…!」
魔法都市ゲフェンにまつわる歴史書で見た史実の悪魔は言い伝え通りの見た目で、今まさにナルの目の前に姿をさらしている。
ゲフェンに代々続く魔法使いを輩出する名家により永い間その力を削がれ続け、今もゲフェンタワーの地下深くに封じられているのだという悪魔はもはや人を写し取る力も封じられ失われたに等しく、最後に盗んだ見た目のままであると、書物にはそう記されていた。
「我が名を知るアコライトよ、力がほしくはないか?」
人型をした悪魔は陽炎のように姿を揺らめかせ、紫電の瞳を優し気に細めてナルを誘う。
「我が力を授けよう…さすれば死の恐怖からも解き放たれ、世界はそなたの思い通りだ、さあこちらへおいで」
悪魔の誘惑に答える事なく口をしっかり結んだナルは、ゆるがない瞳で悪魔を見つめた。
「悪魔くんに用事があるのはぼくも同じでね、すこし話をしようじゃないか」
同行した退魔師からの言葉にドッペルゲンガーは表情を曇らせ、ようやくその目にファルを捉えた。
「うるさい聖職者め、立場をわきまえるがいい」
試験を受けるアコライトを前へ出すつもりのないプリーストは、悪魔からすれば邪魔な存在。
そんなファルを睨みつける悪魔の視線は殺意に溢れ、経験の少ないナルでもそれが何を意味するものなのか、すぐに察しがついた。
影といえども、悪魔は悪魔。
その悪意を向けるには、ファルのプリーストという出で立ちは十分すぎる理由だった。
「ぼくも悪魔となんか会話したくないんで率直に聞くよ、調査隊を殺したのは君の本体?」
ファルの言葉はいつもよりずっと恐ろしいなにかを秘めていて、ナルは問い掛けの内容より、師の退魔師として覗いた側面に身体を強張らせた。
強い言葉は悪魔に屈しない姿勢の表れ。
強い視線は悪魔に気取られない心の表れ。
強い声は悪魔の誘惑を跳ね返す神罰の表れ。
全身全霊でドッペルゲンガーに抗う姿勢を見せたファルは、決して退くことなど伺わせず悪魔を睨みつけていた。
「…さあな…本体のことなぞ知らぬ、我は影だ」
興が乗ったのだろう、ドッペルゲンガーは不敵に笑むと軽やかに答える。
「我はきさまら人間が自分達の都合にて置く為だけの慰み者だよ、恐れに震える腑抜けどもめ」
退魔師を煽ることに一貫したいのだろう、悪魔はありったけの悪意を込めてファルを睨む。
納得いかない表情を浮かべながらも、この機会を逃す気のないファルは質問を変える事にした。
「では、本体の異常は君には伝わらないと?」
「さあな、人を食ったかなぞ分離した我が知る術はないということだ」
影の答えにファルの眉がひそめられる。
「食ったと言ったね、なるほど…しばらく腹が膨れてるって訳だ?」
「ああ、もしお前が言うような事が起きたのであれば、獲物であるそれを食っていてもおかしくはないからな」
ドッペルゲンガーの影は久しぶりに会話が成立することを楽しむかのように、枯れた庭園の椅子へと腰を下ろした。
「面白い話をしよう、ゲフェンタワーの封印が弱まったのは我でも分かった」
「なんだって…?」
食いついてきたファルに満足気な表情を浮かべ、ドッペルゲンガーは人差し指を魔法都市ゲフェンの方角を向ける。
「恐らく我が本体がいるゲフェニアへの侵入、それが正規の方法ではないのだろう」
ファルが聞いていた騎士団の調査による確立された道、それ以外に秘密の道が隠されていると示す言葉に流石のファルも心を揺らされた。
「…侵入方法は一つではない、と?」
「ふふ、選ばれなくてはならない…嘆くことだ、退魔師の皮をかぶった男よ」
新たなキーワードを与えられ、ファルは思考のために口を噤んでしまった。
沈黙の彼方、ナルは師の代わりを務めようと口を開く。
「あなたは正しい道筋を知っているの?」
ナルの声にピクリと身体を震わせたドッペルゲンガーの影は、にんまりと口元を歪める。
「ああ、勿論だとも」
「本当に?その話に嘘、偽りはないと誓える?」
アコライトらしい初々しさを秘めた問い掛けは悪魔にとって甘美な魅力をもっており、影は舌舐めずりをすると優しく答えた。
「ああ、そなたに誓おう」
「…分かった、あなたを信じます、その正しい道を教えなさい」
すっかり警戒の心を解いたナルを瞳に映し、悪魔は可憐なアコライトへ手招きをする。
「ふふ…それではそなただけにゲフェニアへの道の秘密を教えてあげよう…さあ、おいで…」
甘く響く声は心地よく、あの腕に抱かれたらさぞかし幸福を感じるに違いない。
ナルはこの瞬間、間違いなくそう感じた。
うっかり悪魔の誘惑を含んだ声掛けにナルの足が動いてしまった、その時。
「ナル危ない!悪魔よ、退け!」
ファルの言葉によりドッペルゲンガーの影は残念そうな表情を浮かべると陽炎のように消え去り、枯れた庭園に残されたのは師弟だけとなった。
自分が会話を中断したことで弟子の油断を誘発してしまい、後悔の色を顔に出すナルをファルはしっかり抱き締め、その身の無事を喜んだ。
続くバフォメット、ダークロードの誘惑はファルが問いかけよりも先に払いのけ、とうとう試験の洞窟は終わりを迎えた。
ドッペルゲンガーに告げられた言葉は洞窟を抜ける頃になってもナルの心に棘のように食い込んでおり、先を急ぐ師の後ろ姿はとても遠く感じられた。
「お師匠様、ひとつだけ…いいですか?」
ナルの呼び掛けに足を止め、ゆっくりと振り返ったファルは退魔師の姿をひそめたナルの師であるファルであった。
「あ、調査隊のことについては未確定なことがおおくて話せないんだ…ごめんね」
「ちがいます、あの…退魔師の皮をかぶったって…」
「ああ…」
それはドッペルゲンガーに見透かされたファルの過去のことであり、そこに気付く繊細さは彼女が稀有な存在だと示すものであり、ファルはナルを誇らしく思った。
この試練の洞窟を越えてしまえば、もうそこは大聖堂。
あっという間にナルはプリーストへとその姿を変えてしまうだろうし、もしかすると心変わりをしてそのまま自分の元を去ってしまうやもしれない。
そう思うと自分の秘密を打ち明けるのは今しかないと、ファルはそう感じた。
「影が言ったのはぼくが持つ秘密の話だよ、もう随分と永いこと蓋をしてる秘密…」
「それは、私が知ってはいけない秘密ですか?」
恐れず真っ直ぐな紺碧の瞳を逸らすには、もう弟子と括るにはナルはあまりに成長していた。
「…それをナルが知る事は、ぼくと離れたくなるきっかけになるかもしれないよ?」
弟子としての心を試す言葉はするりとナルの頬を横切り、後ろに潜む闇へと消えてゆく。
「離れません…追い掛けます、ずっと!」
プロンテラで出会った、あの運命の日。
そこからずっと追い掛けた背中を見失うつもりなんてないナルは、もう手を伸ばされずとも、ただひたすらに師の背中を追い続けることを誓った。
思いもしなかった弟子からのうれしい言葉に面食らったファルは笑い声を上げ、その柔らかな向日葵色の髪をかき上げると出口となる扉に背中を預け、ゆっくりと深呼吸をする。
「まいったな、これはもう逃げられないね…!」
どこかうれしそうに笑うファルに、ナルもつられて笑みを浮かべた。
「はい、まだまだ教えてもらうことは沢山あるので!」
「ふふ!それでは…ぼくの秘密、プリーストになる前の過去の話をするとしよう…」