まるでどこまでも広がっているのではと錯覚するほど幻想的な薄桃色の砂浜。
耳に響く波の満ち引きの音は、さらに非現実的な感情を揺さぶる。
南国を思わせるプライベートビーチには、招待された特別な間柄、つまり夫婦となった者同士でしか降り立つことはできない。
ふわりと鼻をくすぐる潮風と花の香りは歓迎のマリアージュとなり、ナルを出迎えてくれた。
「すっごい!きれーい!」
ここはジャワイ島。
新婚旅行の定番であり、夫婦のみが訪れることが出来る小さな島。
海岸沿いには水上コテージがあり、各部屋は外からでも分かるほどに色とりどりの南国の花で飾られており、心踊る景観はナルの心を簡単に射止めた。
「ふふ!これは思ったより滞在するの楽しめそうだねぇ!」
共に島に降り立ったファルはつとめて穏やかに、偽装結婚とはいえ妻となったかつての弟子に微笑みかけた。
すっかりジャワイ島でのバカンスに心躍らせるナルといえば、まるで子どものように幸せそうに笑顔を浮かべており、共にこの地に下り立てたことにファルは満足そうに頷く。
「ナルにはまだ早いだろうけど…お酒もおいしいって聞いてるからね、ぼくはそれが楽しみだよ」
「私、もう解禁されている年齢ですから安心してください!」
「おっと、これは頼もしいね?ふふ!」
仲睦まじく島の受付へと向かうと南国の島に相応しい出で立ちの女性スタッフが数人、二人を花のシャワーで祝福してくれた。
まるで二人のためだけに特別に用意されたそれは、すっかり心を幸せ色へと塗り替えてゆく。
「ようこそ、ジャワイへ!ファル・スカイご夫婦ですね?」
「ええ、まちがいなく」
歓迎してくれたスタッフへファルが旅行チケットを渡せば引き換えに、歓迎の言葉とコテージの鍵を渡された。
サファイアを埋め込まれた金の鍵はそれだけで特別であることを告げ、ファルの期待も高まるというもの。
「お二人はあちらのコテージとなります」
指し示されたまま視線を向ければ、それはおそらくジャワイで一番良いランクであろう水上コテージであり、大きさもさながら完全に独立している様子は離宮のような佇まい。
海へそのまま入水できるよう部屋から直通のはしごも見え、ナルは感嘆の声をあげたのだった。
「師匠!はやく、はやくっ!」
「はいはい、急がなくたって3日は滞在できるからね、存分に楽しめるよ」
「分かってます!はやくお部屋が見たいんですっ」
すっかり浮足立つ弟子に手を引かれ、師弟はスタッフに微笑ましく見守られながらコテージへと向かう。
偽装結婚から数日、めまぐるしく変わった環境にファルもナルもすこしばかり疲労の色を浮かべていた。
仮初の住まいとして首都プロンテラに部屋を借り、定期的に自宅で過ごす約束などもした。
二人で大聖堂へと仕事を請け負いに向かえば、一体だれが仲を怪しむのだろうか。
事情を知っているマルシス神父とて、二人の間に特別ななにかを感じているのは伺う必要などないほど、ファルは弟子に溺れてもいた。
願わくばこのハネムーンにてなにかを期待してしまうファルの気持ちは当然であり、浮つく心を静める必要なんかないと、そう言い聞かせてジャワイへと降り立ったのだ。
(やっとシオンから離せたんだ、めいっぱい二人の時間を楽しまないとっ!)
出立間際、ナルにべったりであるゲフェニアの悪魔の不満そうな表情を思い浮かべると自然と手には力が入り、この神から与えられた祝福を甘んじて受けるべくファルは指定されたコテージの扉を解錠し、ゆっくりと二人の花園となる門をくぐった。
「わ…!すごい…!」
扉の向こう側、そこは今まで過ごした宿屋のどれよりも優雅な部屋であった。
どこかフェイヨンを匂わせる統一された家具はなんとも落ち着くもので、一部だけガラス張りとなっている床は海が見える作りで熱帯特有の色とりどりの魚影が穏やかに泳いでいる。
「私、バスルーム見てきますっ」
出立前にナルが「猫足のバスタブ」を楽しみにしているとこぼしていたのを思い出し、ファルは笑みを我慢することなく荷解きをする。
「お師匠様!猫足です、ねこあーしー!」
「はいはい、今いくよ」
バスルームから自分を呼ぶナルの声に誘われるまま向かえば弟子が期待していた通りの猫足バスタブで、ところどころに金の装飾が施されているのに気付いたファルは反対された高い経費を押し通したことを誇りに思った。
「うふふ!入るの楽しみです!」
「そうだね、香油もあるからぼくもひさしぶりにゆっくり入りたいな」
さすがに一緒に入ろうなどとは口が裂けても言えず、いつも通りの自分で応えると弟子はふにゃりと笑顔を浮かばせる。
「師匠、いつも退魔のお仕事がんばってますもんね」
「仕方ないよ、結婚したから稼がないといけないだろってあれこれ降ってきちゃうんだから」
ハネムーン後に控える仕事の山を思い出しげっそりしてしまったが、ナルはどこか申し訳なさそうに頷く。
「やっぱり私のせいですよね…師匠のこと、支えられるようがんばります!」
悪魔の花嫁として生きるため、ファルが最善を尽くした結果が偽装結婚という形であることを、誰よりも心に深く刻んでいるのはナルであった。
「ぼくも乗っかることで助かることもあるんだから、気にしないでいいんだよ?」
嘘偽りの言葉はなく、事実、ファルも入籍したことにより今までより難易度のひくい仕事を回してもらえるようになった。
都合もつきやすいものが増え、各段にナルと過ごせる時間も増えたのだ。
「でも…」
「いいんだよ、ここで過ごす間くらいは夫婦としてしっかり楽しもうじゃないか!」
すこしでも距離感を感じさせまいとつとめて気持ちを切り替える師の姿はどこか自分を気遣っているのが分かり、ナルは素直に頷くと笑顔で応える。
「はい!お師匠様!」
海で遊ぶのに苦労しないようにとファルが用意してくれた水着はぴったりで、浮き輪の浮力に身を任せるナルは思いに耽っていた。
(とても気を使われている…)
それは自分が泳げないから共に浮き輪で波に揺られているなどという問題ではなく、ジャワイに着いてからの師の立ち振る舞いによるものであった。
もともと世話焼きであるのは分かっていたが、これでもかと用意周到に世話を焼いてくれるものだからまるで専属の執事のようで、なんだかトゥエラーシュ家にいる使用人のよう。
「身体も冷えてきただろうし、そろそろ上がるかい?」
泳げない自分に付き合い、浮き輪で波の心地よさを楽しんでいたファルからの声掛け。
(言われてみれば、ちょっと寒くなってきたかも…)
絶妙なタイミングの提案にどこか予知能力者のような気配も感じつつ、ナルは素直に頷くと師の案を受けた。
コテージへと続く海からのはしごを先にのぼったファルは、それは当然といった様子で海からあがるナルへと手を指し伸ばす。
「さあ、おいで」
「はい、お師匠様」
取り合う手と手。
なんだか呆けてしまった瞬間、はしごに掛けていた足は滑り身体は重力に負ける、その瞬間。
「きゃっ!」
「おっと、あぶない」
ファルの咄嗟の判断により引き揚げられた身体は抱きすくめられ、そのまま安全な室内へと引き込まれてしまった。
まだ早鐘を打つ心臓は、落下の恐怖のせいだけではないような気がした。
「あの、師匠ありがとう…」
「いやなに、二人で落ちなくてよかったよ」
自分よりも先にタオルで包み込んでくれるファルの手捌きは見事で、あっという間にバスルームへ直行してしまった。
「着替えたらはやめのディナーに向かおうか、お腹空いたでしょう?」
「うん、お腹…空きました…」
自分はベッドルームで着替えるからと扉をしめるファルの姿はいつもより気遣ってくれているようで、ナルはいつもは意識したことのない師の様子に戸惑うばかり。
着替えたあとは肩を寄せ合うように食事が楽しめる会場へ向かい、他にもハネムーンを満喫している数組のカップルに緊張したものの、美味しい食事はするすると喉を通っていった。
アルコールをいれたファルはいつもよりずっと大人に見え、ナルはとうとう自分は妻として見劣りしてるのではないかという自己嫌悪を我慢できずグラスに手を掛けたのであった。
「も、もうだめ…目が…回る…」
口当たりの良さに負け、すっかり限界までアルコールをいれた身体はいう事など聞いてはくれなかった。
視界はぐるぐると回り、浮遊感は足元から陽炎のように湧き上がる。
かろうじてしがみ付いているファルの腕に全体重をかけることでようやく歩くのが叶う程度までナルは酔っていた。
「おっと…もうすぐコテージだよ、あとすこし」
言われた先を見ればぐわんぐわんと揺れる視界の先、確かにコテージがあるような気がする。
「なんだか飛べそうです、おししょうさまぁ…」
もつれる足で心地よい酔い加減に身を任せれば、身体はぐらりと傾いてしまう。
「飛ぶ前に転びそうだね、おぶるかい?」
「いやあ…歩けます!」
決して師の手を煩わせてならないと歯を食いしばるが、その足取りは危険そのもの。
ファルとしては抱き上げてでもいいので一刻も早くコテージに戻って休ませたいのだが、本人が拒否することを無理強いし、怪我でもさせてしまっては元も子もないと千鳥足に合わせているのだ。
「仕方ないなぁ…さあ!あとちょっとだよ!」
「はいっ、おししょうさまっ!」
じわじわと歩みを進め、ようやくコテージまで辿り着いた弟子の様子をもはや限界であると判断したファルは、人目など気にする必要もないため遠慮なく抱きかかえベッドへと直行した。
あれこれなにか言っていたが気にせず、ゆっくり花の散らされたベッドへ降ろすと、ようやくなにもかも安心できる心地よさにナルは安堵して身体を預けるに至った。
「おししょうさま、ありがとう…あの、ごめんなさい…」
「うん?急にどうしたの?」
サイドテーブルに用意されていたレモン水をコップへと注ぎながら、ファルは何のことかと笑う。
すっかりぐだぐだの弟子を抱えるように支えてコップを手渡せば、アルコールに浸されていた身体はさぞ待ち遠しかったのだろう、喉を鳴らして飲み干してしまった。
「あのね、ちゃんとお支えできるようにって、思っていたのだけど」
「支える?ぼくをかい?」
尋ねればこくりと頷き返す。
「私、師匠の生活をめちゃくちゃにしてるから、相応しくなるように…って」
「めちゃくちゃって…それは結婚したこと?」
「うん、師匠の名前を穢してはいけないって、そう思っているのだけど…私じゃだめだなって…」
俯きながらぽつぽつと吐露する姿は自分も酔っているせいなのも加味したとて、すべてが都合よく解釈できてしまうのだから厄介なものだった。
(それって、つまり…!)
ナルの口から出たのは、自分の為にと人生をなげうって結婚というカードを使った自分に対し、しっかり妻である姿を思い描いてくれているという告白であり、有名な退魔師である自分と釣り合いたいと背伸びをしているということ。
(そんな、まさか…それって、それって…!)
期待に弾け飛びそうな胸のときめきを呼吸で整え、ファルは冷静さを取り戻すべく咳ばらいをする。
「別にぼくのことなんか気にしなくていいのに…、もしかして、だからお酒ものんでみたのかい?」
「うん、お師匠様が…飲んでらしたので…」
どうにかなりそうだった。
くたりとベッドへ沈んでゆく弟子は、どんな生き物よりも愛らしく、たまらなく魅惑的でおもわず生唾を飲み込んでいた。
「ぼくに…合わせようと…?」
ファルの問い掛けに消えそうな「はい」が聞こえ、もう頭はおかしくなってしまう寸前であった。
(知らなかった、そんな気持ちを抱えてくれていたなんて…!)
都合よく解釈する思考は止まることを知らず、今はただ、弟子が妻として自分に寄り添ってくれているというそれだけの事実を、ただただ反芻してはじっくりと噛み締める。
3日滞在するうちの初めての夜に、まさか気持ちを知りえることが出来るだなんて夢のようだった。
それも前向きな内容で、かつ、自分寄りに傾いている言葉を添えて。
(これは、もう…!)
決してうわずった声など出さぬよう慎重に己の喉の具合を確かめ、色欲にまみれた視線だなんて思わせぬよう視線を強く持ち、ゆっくりと丁寧な動作でナルの隣へと腰掛ける。
自分の背後には酔った弟子がいる、それだけでどんな退魔の仕事よりも緊張した。
「そんな風に思っていてくれていたなんて知らなかったよ、ありがとう」
ベッドは静かに沈み、散りばめられた花びらは甘く香る。
「ぼくは無理な背伸びなんてしてほしくないし、ナルがそう思ってくれてるだけで十分うれしいよ」
ゆっくりと手を伸ばし、弟子の無防備な太ももへと指を這わせると抵抗感は感じられなかった。
一呼吸置き、決してそうだと悟られぬように撫で上げても、足を引かれることはない。
「…ただナルがそんな気持ちを持っているなんて知ったら、ぼくは応えたくなるんだけど…いいかい?」
意を決して振り向けば、冷酷な表情でナルはファルを見返していた。
心臓が止まるかと思ったが、なにやら雰囲気がおかしい。
「…まさか!」
瞳に宿る色味はあきらかな異質。
紺碧の色は消え、そこには紫電の鋭い光。
それは間違いなく、魔を宿した証拠。
「シオン!おまえだな?!」
「その通りだ…しかしよくもまあ、いけしゃあしゃあと…」
声こそナルのままであるものの、興覚めしたようにため息を吐き出す姿はゲフェニアの悪魔、ナルがシオンと呼び慕う彼女の魂の主であった。
手早くファルの手を払いのけ、ゆっくりと身体を起こし辺りを見回す様子に、ファルの心は不快感で震える。
「おまえ、どうしてナルの身体に入ってるんだよ!」
「我が唯一の眷族だから、そんなことは当然だろう?」
「はあ?!」
よくよく聞けばナル本人が睡眠や気絶など意識を手放した状態であれば、魂の主であるシオンが身体の遠隔操作を行うなど容易いというではないか。
「そんなことナルから聞いてないぞぅ!」
「当たり前だ、言っていないのだから」
先ほどまでファルが触れていた部分を何度もはたき、シオンは着崩れしたワンピースを整えるとため息をつく。
「まったく…まがい物の伴侶に夜這いなどされては困る」
「よ、よばい…っ!」
「先ほどは危なかったな、さすがに肝が冷えた」
つまり甘い睦言は途中からすべてシオンに筒抜けで、ナルにいたってはほとんど寝ていて聞いてもいなかったということ。
混乱する頭は後悔で埋まりそうだったが、なによりあと2夜も残されている現実に吐き気を覚えるほど。
「…いやちょっと待てよ、まさか夜が来るたびにシオンが来るのか?」
「ナルが寝てしまえば、な?」
(は!?厄介すぎるだろ!!)
胃の中すべてを吐き出すほどの呪詛が飛び出しそうであったが、シオンと成り果てた弟子と眠るわけにいかずファルはゆっくりと寝室を後にすべく立ち上がった。
「どうした?今夜は気持ちとやらに応えてくれるのではないのか?」
「ふざけるなよ!!」
どうせニヤついた顔で煽られているのが分かっているのだから振り向く必要などなく、ファルはリビングの広々としたソファに身体を静めたのであった。
「はい、これがステア様へのお土産だよっ」
「おー、さんきゅう!」
ジャワイからのハネムーンを終えゲフェンに戻ったナルは、ストレイキャットの皆に特産である土産物を一つずつ配っている。
その顔は幸せいっぱいで、ようやく羽を伸ばせるに至ったのだとステアは安堵した。
(式から緊張の糸張り詰めてたっぽいし、いい旅行になったみたいだな!)
土産の袋を遠慮くなく開け、にしし!と笑いながらステアも幸せそうに目を細める。
一方、なにやらげっそりした顔色のファルには、あれこれ考えてしまい頬を染めた寿が話し掛けた。
「あー、やっぱり…楽しかった、ですかね?へへっ!」
「…そうだね、はは…」
勘違いしている寿に絡まれ苦笑するファルを遠巻きに、ゲフェニアの悪魔はとても楽しそうに口元を緩めていた。
ファルさんがちょっと損する話。
本当はすごく近しい気持ちを持ち合わせているのに、決して交差しない師弟の距離感が好きなので書きました。
主様の設定は第三部でも活きてくるので、時系列的にこちらで設定先出しということで。