月が真上に昇るころ、ナルは倦怠感をのこす身体を引きずるように目を覚ました。
彼女が楽しみにしていた宿屋の夕食に間に合うことなどもちろん無理であり、ようやく追い付てきた視線をサイドテーブルに向ければそこには簡素なサンドイッチの姿。
「ああ!有名なお魚料理が…!」
アルベルタは港町というだけあり地魚を利用した魚料理が名物なのだが、とりわけ料理も評判の旅館フィッシャーマンを選んだのはナルであった。
貿易拠点でもあるアルベルタ、その宿泊施設の充実ぶりはかなりのもので各特色も幅広いものだが、その中からわざわざ料理を理由に選んだにも関わらずそれを食べられず終いとなったナルは肩を落とすしかなかった。
(アスターの話が長いから疲れちゃったんだよ、もう…!)
過ぎたことは仕方ないといさぎよく諦め、ゆっくりとベッドを抜けだしてみれば窓からの海風に撫でられる身体はなんとも心地よく、空腹によるイラつきもすこしはましになるというもの。
いつのまにかファルの腕枕で寝入っていた身体はどこか熱っぽく、今はとにかく水が飲みたかった。
(なんだか身体が熱い…ちょっと具合が悪いかもしれない…)
今日は慣れない森を歩いたせいで疲労困憊の足元がおぼつかない、そんな気がした。
意志とは裏腹にふらつく足取りで部屋を見回せば、視界に飛び込んできたのはウォーターポット。
砂漠でオアシスを見つけた如く、氷と檸檬が入ったそれをコップに注げば氷のぶつかる心地良い音が部屋に響く。
喉を鳴らして身体が欲しがるままに飲み干せば、清涼感はたしかに得ることができたのに、なぜだかどうしても渇きは満たされなかった。
(目が回る…やっぱりおかしい…)
幼いころ、高熱が出たときに似た症状が自分を襲ったことを思い出す。
目が回るような浮遊感は熱のせいなのだと、看病をしてくれたファルがナルを安心させるよう教えてくれた。
あの時に食べさせてくれた桃は美味しかったと思いを馳せつつ、ナルはせめて床に倒れこまぬよう縋るようにソファへ座り込む。
熱っぽさを持て余す身体は、さきほどまでの体温が残っているだろうベッドに戻る気は起こしてくれなかった。
(どうしよう…、ああ…兄さま…アスター…)
かすむ視界は容赦なくナルを襲い、心細さはどんどん増すばかり。
同じ部屋にいるというのに助けを呼ぶこともできず、なんだか痺れてきた手に不安の鼓動は早まる。
「なるほど、やはりそうか…」
(アスター…?)
幻聴かもしれない、そう不安になりつつも聞こえた声の方にぼんやりと視線を投げる。
求めてやまない悪魔は、ナルの期待を裏切ることなく彼女の前へと佇んでいた。
間違いなく自分は助かる、そう直感した。
その直感はナルの体の半分だけの魂の確信でもあった。
「なんとまぁ、これはつらそうだな…」
伸ばされた手で頬を撫でられると、果物のような芳醇な香りが鼻をくすぐる。
リンゴにも似た甘酸っぱいような香りにナルは目を閉じ、耳の傍で鳴っているのではないかと思うほどの心臓の音に恐れながら、懇願の涙を流した。
「…アスター…たすけて…」
「あぁ、もちろんだとも」
サイドテーブルに用意されたフルーツ、そこに添えられていた宿泊者が皮をむくための小さなナイフを手に取ったアスターは、迷うことなく己の左手の平を切り裂いたのだ。
途端に強くなった果実に似た香りと同時に、ナルはさらに眩暈が強くなったのを感じた。
「アスター、手…怪我…だめだよ…」
「いいんだ、狩りの仕方はまた後ほど…さあ…」
ゲフェニアの悪魔の血は彼の指を伝い、意識の絶えそうなナルの口へと流れ落ちた。
(あ…これ…)
覚悟していたはずの鉄の味は一向に訪れず、むしろその味はファルが看病のときに食べさせてくれた瑞々しい思い出の桃のようであった。
悪魔の血が喉を伝うたび身体は甘く潤い、満たされてゆくのを感じる。
ゆるゆると戻る意識と裏腹に、どうにも指に伝って落ちてくるだけでは物足りず、とうとうアスターの手を包み込んで傷を癒すかのように舌を這わせる。
普段からは考えもつかない積極的すぎる姿に驚かされたものの、アスターはそのままナルを抱きかかえるとソファに腰を下ろす。
「ふふ、ひとまず身体に合ったようでよかった…」
よくよく観察してみれば、先ほどまで顔色は青白く、身体は氷のように冷えきっていたのに今ではすっかり血色が戻っているではないか。
(間に合ってよかった、先ほどの様子…あれは危なかったな…)
まずは危機を脱したことを素直に喜び、ナルが落ち着くころを見計らいファルを起こすことにした。
「まさか…本気で言っているのかい?」
夜中に起こされたファルはアスターにあらためて問う。
強制的に起こしてすぐは頭が回っていない様子であったが、先ほどのナルの状態を聞いてようやく覚醒したようだ。
「まちがいない、魔性の力をつかうと枯渇するようだな」
二人が話している内容は、先ほどのナルを襲った症状のこと。
今回、なぜあんなにも具合が悪くなったのか、それには理由があった。
昼間に魔物と意思の疎通をおこなった際、潜在的にナルのなかに潜む魔寄りの能力を使っているのが原因だと悪魔は語った。
「魔性の力は魔力を膨大に消費するのだが、ナルの転生前であるソウルリンカーは覚えているか?」
「ああ、ぼくがまだニブルヘイムにいた頃だね?」
前世の記憶がそのままである事の都合のよさを冥府王に感謝しつつ、アスターは頷く。
「その時は我との魂の繋がりからナルはゲフェンタワーの魔力を無限に引き出せたのだ、その魔力で武器を形成できるほどにな」
「へえ…それは初耳だ、ぼくのナルは随分と器用なことしてたんだねぇ…」
「いや、今も昔もナルはお前のモノではない」
きっぱり否定をしたうえで、アスターは話を続ける。
「今の我とは魂を分け隔てているため主従関係とは程遠く、魔力の繋がりも乏しい…ゆえに魔性の力を使うと枯渇するのだ」
「むむ…、つまり魔性の力は莫大な魔力消費をするので、使うその度に危険な状態に?」
「今のままではそうだな」
ファルが目配せするとナルも否定できない様子で、力なく頷く。
ナル本人も言われてみれば思い当たる節があった。
魔物の意志を理解しようとした翌日には体調を崩したし、何日も高熱で苦しんだ経験もある。
おそらくその度、魔力が枯渇していたのだろう。
よくここまで生き延びたと思うが、それこそ兄であるファルの異常すぎる過保護あってこそだったのだろう。
「今のままではって…じゃあ、なにか案があるのかい?」
ファルの問いにアスターは淡々と答える。
「我と主従になれば話は早いが、それでは前世の二の舞だ…お前としても却下だろう?」
「そりゃだめに決まってるよ、なんで聞いたの?」
途端にいら立ちをあらわにする厄介な退魔師に、アスターは「ほらみろ」と言わんばかりの表情を浮かべる。
「念の為に可能性の一つとして上げただけだ、そう悪く思うな」
「なにが念の為だよ、…で?他の方法は?」
「使った魔力を、物理的に補うしかないだろうな」
アスターからの言葉に、ナルは身体をびくりと震わせる。
それに気付いたファルは眉をひそめ、慎重にアスターへと伺う。
「…補うって、つまりポーションとか?」
ファルの質問にアスターはすこし考えた様子で口を噤むとため息をはきだす。
目を細めつつナルの様子を伺えば、なんとも申し訳なさそうに肩を落としているのが手に取るように分かり、秘密を暴くことがどれほど屈辱的なことなのかを物語っていた。
(ファルへの説明、なんという手間だ…)
ため息をついたアスターはなるべくファルの逆鱗にふれぬよう、なるたけ慎重に言葉を選ぶ。
「それは人間が使う魔力での話だ、魔性の力では別となる」
悪魔が言い憚るのになにかしら大きな理由を感じ、ファルもそれを受け止める覚悟を決める。
まるで退魔の任についている最中のような目つきに決意を受け取り、彼に対峙する悪魔もまた言葉を決めた。
「…つまり?」
「魔性を含む血肉の摂取、これが必要不可欠だ」
言いきってしまえばそれは当然のように聞こえ、沈黙が流れる。
その流れを断ち切るように、アスターは先ほどのナルとのやり取りを包み隠さずファルへ告げた。
かなり重篤な状態であったこと。
自らの血で救えたこと。
ナルにとって、これらの秘密は非常に屈辱的であること。
すべて話し終えれば、なんてことはなかった。
ファルは「そうなんだね」とひとことだけ呟き、今生のナルへ理解をすんなり示してくれた。
それに胸のつかえがとれたのだろう、すこしばかり穏やかな表情を浮かべたナルにアスターは言葉を続ける。
「ナル、そなたにも覚悟が必要だ」
「…はい」
彼女の手を取り、そのふわふわの頭を優しく撫でる。
現世のナルの運命と秘密、それはアスターが招いた前世の罪でもあり、一切をファルに任せる気などなかった。
「そなたは我の血で生き永らえることが出来る、存分に利用するといい…だが…」
ふたたび血色の戻った頬を撫でれば、ナルはくすぐったそうに目を細めると静かに頷く。
「我が血はとても強い、続ければやがてそなたの魔性を強めることになるだろう…」
「それは…私が魔物になるということ…?」
「このまま力を使い続けるのであれば、な?」
悪魔は迷いなく頷いた。
再来だ、ファルはそう思った。
あれほど人から離れてしまうことで、悪魔の花嫁と忌み嫌われたあの再来だ、と。
「…兄さま、私…」
脅えたように震える声。
ファルはいつもの、ただ穏やかなだけの笑顔を浮かべる。
「言わないでいいよ、心配することなんてなにもないんだから」
これまで兄として師として、共に生きてきたのだ。
ナルの心に生じた不安を感じ取り、その言葉を敢えて言わせないように先手を打つ。
そう、それはつまり。
「もし完全な魔に傾くならぼくが祓ってあげる、誰にもさせないからね」
退魔師としての心強い言葉。
いつかのもしも。
例えどんな小さな可能性だとしても、ずっと手を伸ばし続けてきた。
今この瞬間のため、自分は退魔師としてまた生を受けたのだとファルは思った。
師の言葉に素直に頷き、ナルはざわめく心に戸惑う。
そんなナルの手を握りしめたまま、アスターはどこか意地悪そうにささやく。
「ファルが祓えなければ、我が領域にて命が終わるその刻まで生きればいい」
今生ではまだゲフェニアに降りたことがないナルはあの薄暗い湿気じみたダンジョンしか思い浮かばず、ただ歯切れの悪い返事をすることしかできなかった。