(うぅ…本当に来ちゃった…)
翌日、ナルは結果としてファルに背中を押される形で、ゲフェンダンジョンへ単身にて潜入していた。
途中まで同行していたファルがナルにはやたらモンスターが近寄らないことに気付き、過去生からの加護を受けるナル一人の方が安全にすすめると判断して進んでみれば、予想通り危ない場面などに遭遇することなく、こうして無事に第三層まで辿り着いたのである。
有事の際にはファルへ通信魔法にて助けを求めれば直ぐさま駆け付けると言われたものの、やはり不安は拭いきれない。
地上よりもしっとりした空気は肌にまとわりつき、心なしか息も苦しく感じる。
(魔力の流れが停滞してるんだ…)
淀んだ魔力の流れを敏感に感じ取り、ナルは何度目かわからないため息をつく。
悪魔が住まうとされるダンジョンはやはり恐ろしいもので、地より這い出るような独特の予感に身体は震えた。
テレポートを駆使し、ようやく降り立った最下層。
そこはかつて、古の時代には人が住まっていたことを示す家や墓場がそっくりそのまま遺棄されている不思議な光景がひろがっていた。
(これが…大昔に封印されたゲフェニアの街並み…?)
いくら安全だとはいえ事故は起きないとは限らず、ナルはなるべくモンスターに会わないようにと辺りを伺いながらテレポートを繰り返していた。
やがて朽ち果てた教会とおぼしき建物の裏手に運よく降り立ち、身を隠してすこし休むにはぴったりの場所であるそこにて、ナルは腰を下ろすことにした。
思いのほか魔力も体力も消耗してしまったがゲフェンダンジョンのひんやりとした冷たい空気は上がった息を整えるには充分で、心臓はすぐに落ち着きを取り戻してくれた。
「本当にここにいるの、アスター…?」
ふと口に出てしまった不安な気持ち、それを払拭するかのようにナルは頭を横に振る。
気弱になってはファルの言葉が本当であるか確かめられない、そんな気がした。
(魂を分け隔ててまで、どうして私は転生したのか…確かめなくちゃいけない…!)
諦めを否定し再び立ち上がると、物音を立てぬように壁伝いに歩き出す。
教会の正面へと回ってみれば、そこには不釣り合いともいえる大きな水晶のモニュメントが設置されていた。
「これは…」
まるでそこが魔力の通り道のようになっているかのように頬を撫でる風は冷たさを増し、特別な役割を与えられている人工物であることが分かり、ナルは胸が締め付けらる思いでそれを見上げていた。
(…感じる…これが大事なものだってこと…)
ゆっくりとモニュメントへ触れてみれば、心は懐かしさでいっぱいとなり涙が溢れそうになった。
やはり忘れてしまった何かがここにあると、まるで身体がそう告げているようだった。
深呼吸をして心を落ち着かせ、ナルは先ほどから気になってならない口元に手を添える。
(すごく喉が渇いた…)
さきほどまでテレポートを連続して試行したせいもあるだろうが、ここ最近、やたらと口が乾くことに異常を感じていた。
思い当たる節を辿ればここ数年、魔法を使うたびにそれは顕著になっている。
(地上へ戻ったら兄さまに美味しいお茶を淹れてもらおう…)
ファルがいれる紅茶の香りを思い浮かべると自然とのどが鳴り、いくばくか余裕も出てきたのが自分でも分かる。
すこし浅くなった呼吸をさらに整えようとした、その時、するどい馬の嘶きがナルの耳へと届いた。
「!!」
声の主を探せば西の方角。
青白い炎のような馬の姿をしたモンスターが、こちら目掛けて向かってきているではないか。
(ナイトメアだ!)
ナルは杖を握り締め、なんとか迎撃しようと魔力を集中させたものの、それが攻撃魔法として開放されることはなかった。
杖を握ったと同時耳に届いた声。
一転、ナルの身体は硬直した。
「しっかり息を吸って、ここはオレが守ろう」
囁かれた聞き覚えのある声、それに迷うことなく振り返れば、そこには確かにあの夜に出会った剣士の姿。
もう二度と見間違えることなどない、彼女が再会を望むアスターがいた。
「アスター…!」
名を呼べば紫電の瞳を細め、彼は穏やかに微笑む。
アスターが片手をかざせばナイトメアは従順となり、抵抗する様子もなく走り去って行ってしまった。
「ナル、久し振りだな、元気そうでなによりだが…一人でここまで降りてきたのか?」
「ええ!私、あなたに会いに来たの!」
先ほどまでの呼吸の苦しさは何処へやら。
ナルは軽やかにアスターにそう告げると、ようやく出会えたことに心躍らせていた。
しかしそれと相反するように、アスターは怪訝そうに眉をひそめ首をかしげる。
「…オレに、会いに?」
何度も頷くナルにアスターは逡巡し、浮かんだ疑問を彼女に問う。
「ここはゲフェンダンジョン、どうして…オレがここにいると思ったんだ?」
「それは、兄さまが…あなたの正体がゲフェニアの悪魔だからって…」
ナルの言葉に紫電の瞳が妖しく光る。
「…ファルが?」
アスターの口から出た兄の名前に疑問が確信へと変わったのを感じ、アスターからも真実を聞きたいナルの心は探究に染まった。
昨夜、ファル自らが打ち明けたことを順を追い説明すれば、すべてを聞き終えたアスターは紫電の瞳を閉ざして口を噤む。
「ねえアスター、あなたが悪魔だなんて…本当なの?」
ファルの話を加味した様子のアスターはどうにも仕方がない表情を浮かべると、ゆっくりと口を開く。
「そうだな、大体あっている、そう…我はゲフェニアを統べる悪魔、ドッペルゲンガーだ」
突如、彼の纏う雰囲気が変わったそれをナルは敏感に感じ取った。
(ああ、間違いない…アスター、あなたは…!)
人間の見た目こそしているのに、目の前にいるのは間違いない異質。
さきほどとは打って変わり、その存在感はダンジョンそのもののような重圧を感じさせ、それはナルに内から危険であることを知らせるほどの異質であった。
悪魔の色香を漂わせるアスターは戸惑うナルの手を取ると、自分の心臓に重なるように自らの胸の上に置かせる。
「そなたの過去生からの魂は今もここにある、我の物と同化して…な」
「それは…私のモノだと言っても、もう返してはもらえないの?」
ナルの問い掛けに迷うことなく頷いたアスターは、その場に跪くとナルの手の甲に口付けを落とす。
あまりに突然すぎる行動に驚き、ナルはまるで逃げるように手を引いてしまった。
上気した己の頬に手を添え、何故か目に浮かぶ涙の粒に戸惑う。
「あ、あの…私…!」
自分に心乱される姿は彼の寵姫として過ごしていた過去の姿そのままで、随分と長い間見ていなかった姿に鼓動は恋しさを謳う。
「そなたは我のただ唯一の眷族、せがまれたとて離す訳がない…もう随分と前から、そなたは我のモノなのだ」
彼の言葉に身体は震え、寒気を訴える。
脳裏に「あの悪魔は危険だ」と告げたファルの言葉がよぎり、あれはこういう事だったのだとようやく思い知った。
紫電の瞳に魅入られれば身体は痺れ、思考はまどろみ、寵愛を求めて震えてしまうのだから、ナルは浅く呼吸を繰り返すのがやっとであった。
「そん、な…っ」
ようやく出たナルの言葉を耳にした悪魔は眉をひそめる。
「ふむ、転生を経て支配力は弱まったのか…、その足では立っていられぬ程に魅了してやったハズだが…」
しかし目の前のナルは頬を上気させ、酸素を求める早い呼吸に戸惑いながらも、なんとか自我を保っている様子。
証拠にその両足はしっかりと地面を踏みしめるその姿に自分の支配力の弱体化を確認し、ドッペルゲンガーはかつての眷族に問いかける。
「まあそれは良い…、して、ファルは何と言っていた?」
魅了の拘束から解放されたナルは早鐘を打つ心を諌めながら、ゆっくりと口を開く。
「誰の手を取っても構わないって、そう言っていたよ…」
「ほう、それは随分と守りに出たものだ」
暫く考える様子を見せた後、悪魔は立ち上がると前髪を掻きあげる。
「そうだな…奴がそう言うのであれば、ここに留まっていては分が悪いな…」
「分が悪いって…?」
「そなたから選ばれるためのだ、結果など最初から分かっているのだが…」
昨夜の兄もそうだったが、目の前の悪魔も自意識が高いようで、どちらも自分こそ選ばれると信じて止まないらしい。
自分がまるで意志のない景品のような扱いであるそれらに対し、ナルは不服そうに表情を曇らせる。
「…そんなの…分からないじゃない…?」
「だからこそだ、そなたの傍ら、今から歩かせてもらうぞ?」
精一杯の抵抗もむなしく、結果もナルの思い描いたことにはならず、とうとう悪魔を伴い地上に戻ることになってしまった。
ゲフェンタワーの入り口にて帰還を待ち侘びていたファルと無事再会したものの、伴ってきた悪魔を視界に捉えた瞬間、彼は見たことのない表情を浮かべると弟子へ厳しい眼差しを向けた。
「どういう風の吹き回しだい、これは?」
「師匠待って!聞いてほしいの!」
一触即発の気配に慌てるナルが事情を打ち明ければ、ファルはさらに不機嫌極まりない顔付きで悪魔を睨みつけた。
腕を組み、空色の瞳を伏せがちにファルはナルへと問う。
「…たしかに会ってこいとは言ったけど、連れてきちゃってどうするんだい?」
「だ、だってアスターが…その…私…拒否、出来なくて…」
二人のやり取りを見ながらクスクスと笑い声を上げ、悪魔は戸惑うナルを抱き寄せるとファルに告げる。
「相変わらずだな?我は離すつもりがないのだから、つまりそういうことだ」
勝利宣言とも取れる言葉を受け、みるみるファルの顔に怒りと憎しみの色が宿るのをナルは見た。
「なるほどね…そういうナルの意志を優先しない所、キミも相変わらずだね?」
いきり立つファルは盛大にため息をつき、言葉を続ける。
「今のナルには選ぶ権利がある、その中で自分が選択された時に応えてあげれば充分なんだよ、分からないのかい?」
「選ぶ必要などない、何を理由に転生したのか貴様も忘れた訳ではなかろう?」
「あー、やっぱり君は傲慢だね?転生した理由より今のナルの心のままにしてあげるのがいいってこと、なんで分かってやれないんだい?」
「こうして我に会いに来たのが答えだろう?貴様の愛の囁きなどいらぬ、…ナルよ耳を傾けるな、心を閉ざせ」
(なんかすごい面倒なことになった…!)
醜い争いは辟易するには充分過ぎるもので、なんとか悪魔の腕の中から抜け出たナルは二人によく聞こえるように思いを告げた。
「私、二人のどちらへも、そういう気持ちはないよ!」