冥府王により飛ばされた先、ナルは見覚えのある風景に佇んでいた。
(ここは…)
そこは紛れもなく、魔法都市ゲフェン近くの展望台。
頬を撫でるのは馴れ親しんだ湖畔からの風で、今なおのこる涙の跡をやさしく薄めてくれた。
昇る日もまだ高く、おそらく昼時なのだろう。
遠目に映る魔法都市には人々の活気があり、商人や冒険者達が行き交うすがたが遠目ながらも見え、その様子にようやくニブルヘイムより戻ったことを実感できた。
(閉ざされたゲフェニア…私の帰るところ…)
思い出される愛しい日々に心を寄せ、ナルは冥府王より授けられたヴァルハラへの通行証を改めて見る。
中央の空色の宝玉を見れば決して忘れることなど出来ない師の言葉が蘇り、再び己の胸をきつく締め上げては苦しみをもたらす。
─最後に欲しくなるのは、どうせぼくなのに?─
今までそれが当たり前であり、そうするのが一番だとばかり思っていた自分の弱さは、もしかしたら師にとって重荷だったのかもしれないと疑いを生み、離れても忘れることなどできない今の自分にとって、師から向けられたのはまるで槍のような言葉であった。
貫かれた痛みは真実であり、あれほど師を追い掛けていたつもりの心は、ただの甘えでしかなかったことに目眩がしそうになる。
ゆっくりと呼吸を整え、心を落ち着ける。
(ちがう…師匠があんなことを言ったのには理由があるはず、きっと…!)
死が分かつまで共に歩み過ごしてきた人生を思い出せば、不自然な言葉であったようにも思える。
あのやりとりはファルなりの理由があったのだと解釈すれば、ふたたび歩き出せる気がしてナルは目を閉ざす。
「…お師匠様…」
ファルを思い呼んだはずなのに、そこに浮かんだのは主たる悪魔の面影。
帰るべき所はそこだと、彼女の魂は叫ぶのだ。
ゆっくりと目を開けば飛び込んでくるのは魔法都市の穏やかな様子であり、その中央にあるゲフェンタワーを捉えた紺碧の瞳は思慕に揺れゆく。
「やっぱり君じゃないと、私は…」
風に消えそうな呟きをした途端、通行証は星の瞬きの如き強い光を発し、一瞬のうちにナルを飲み込む。
あまりに突然のことで咄嗟に目を閉じてしまったが、おそるおそる目を開けばすでに魔法都市の風景はそこにはなく、あるのは空に浮かぶ石造りの神殿であった。
「ようこそ、ヴァルハラへ」
声を掛けられた方へ振り向けば、天空より大きな翼を持った天使が舞い降りてくる最中であり、あまりの神々しさにナルは息を飲む。
審判のための金の槍は鉾先を下界にむけ、夜空のように深く青い瞳はまっすぐにナルへと向けられていた。
「…ヴァルキリー…?」
神話の本で見た姿そのままゆえ、ナルの口からは当然のように天使の名前が零れる。
その名に頷き応えた天使は、槍を持たぬ左手を差し出した。
「私はずっとあなたを待っていました…」
「ずっと?」
ナルの問いにヴァルキリーは微笑む。
「ここに来たということは、ようやく生まれ変わる覚悟ができたのですね?」
冥府王からは何も聞いていないナルは驚きを隠せず、慌ててヴァルキリーに答える。
「いえ!私は主とともに生きます!生まれ変わりにきたのではありません!」
するとヴァルキリーは何度か瞬きをすると事情を理解したのか、また穏やかな笑み浮かべた。
「なるほど…冥府王はなにも仰らなかったのですね…、それではまず貴女の運命の星からお話をしましょう」
ヴァルキリーが審判の槍で頭上に大きく円を描けば、そこには空を切りとったごとく満点の星空が姿を現す。
それがいつも見ている星空ではないことは、ナルにもすぐ分かった。
見れないような細やかな星々まで見て取れるうえ、ここまで鮮明な光の川をみるのは初めてだったからだ。
その数多の光の粒の中、小さく瞬くひとつを指し示したヴァルキリーは告げる。
「これが貴女の生まれ持った星、悠久の力を属性に秘めています」
「悠久の、星…?」
「ええ、貴女がここまで歩んだのは星の運命に手繰り寄せられたから…、つまり生まれ変わらない限り運命を変えることは出来ません」
ヴァルキリーの言葉にスタージュエルで見せられた未来を思い出し、ナルの心は震える。
つまりここで転生の選択をしなければ、互いの道を違える決められた未来が訪れる運命にあるというのだ。
震える指先を押さえ、天使に不安を問う。
「生まれ変わってしまうと、主様と私はどうなりますか?」
ヴァルキリーは頷き、その問いの答えを示す。
「貴女は今生の全てを忘れます、しかしあの悪魔の中から貴女が消えることはないでしょう」
天使の言葉はナルへと深く突き刺さる。
それでは共に居るといった約束は守ることは出来ない。
さらに自分が全てを忘れてしまうということは、過去に仲間達と過ごした大切な日々も消え去ってしまうのだ。
過去に縋りながら生き永らえてきたナルにとって、それは余りに過酷で重大な選択であった。
「貴女の魂は冥府王の導きにより、半分だけその身に戻っています」
「半分だけ…?」
確かにファルと迎えた翌朝、気怠い体に違和感を覚え、それを冥府王に伝えたところ「ひさしぶりに半分を持ったからだ」と言われたのを思い出す。
つまり昨夜の時点でなにかが始まっていたのだと、ナルはようやく知るに至った。
「私の魂、そのもう半分はどこにありますか?」
「今も魔と共にあります、ゆえに生まれ変わった貴女も半分は魔であるでしょう」
迷うナルにさらに道を見せたヴァルキリーの言葉、そこに冥府王の言葉が浮かぶ。
─絆が残るうちに─
つまりあの言葉はこのことだったのだ。
もはや選ぶべき道はひとつに絞られたことを受け入れるしかないナルは、ヴァルキリーに問い掛ける。
「人ではない私は、また主様を見つけられますか?」
「ええ、まちがいなくあなたは己の魂を求め、またそれを見つけるまで彷徨うでしょう」
それを聞いた心に安堵が生まれ、指の震えは少しだけ和らいでくれた。
自分がすべてを忘れても主である悪魔を探すことができる約束は、たったひとつだけ未来に持ってゆくことが許された宝物のように思えた。
「わかりました…転生します、ただひとつだけ願いを聞き届けてもらえますか?」
ヴァルキリーは暫し考え、ゆっくりと口を開く。
「世界の流れに関わる重大なことでなければ…」
それを耳にしたナルは喉をこくりと鳴らし、声を整えると願いを告げる。
「自分の名前、それだけは決して忘れないよう…来世にもその後もずっと刻んでいただきたいのです」
ヴァルキリーが逡巡する様子を見せたため無理なのかと諦めたが、答えは声となってナルへと届く。
「記憶してゆくのは無理です…しかし、冥府王の力添えもあります、その名前のまま転生出来るよう計らいましょう」
「ありがとうございます!」
冥府王の権限による条件緩和こそ転生へ向けての最期の一押しとなり、すべての恐れを取り除く天使の微笑みはナルを導くための祝福となった。
「準備は良いですか?今から三つ数えます、ではいきますよ?」
ナルは目を閉じ、最後に主のことを思い浮かべる。
今生の別れこそしてこなかったが、それもまた自分と彼の関係らしいとも思え、なんだか心地よい気がしてくる。
「一つ、貴女は今の生から解き放たれます」
ヴァルキリーの言葉、その一つめで自分の心臓の鼓動が止まったことに気付く。
けっして苦しくはなかった。
「二つ、その肉体から解放されます」
身体は軽くなり、ふと足元を見れば既に足などの概念はなく、あれ程酷使しつづけた身体は形なく消え去っていた。
まるで羽根のようだと思えば、身体のすべてが空に溶けたようだった。
「三つ、全ての記憶を空へと返します」
辺りになにかが破裂したような音が響き、天に引かれるような感覚は目の前の光景を薄れさせる。
もどかしい何かを伝えることも出来ず身を任せていると、ヴァルキリーは微笑み告げた。
「さようならナル・リアス、あなたの名前を星に告げておきます」
そしてナルの意識は微睡むように閉ざされたのだった。