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第12話 岐路

寂しさを携えた傷付いた様子のナルは、ふらつく足取りでファルの部屋へと戻った。
部屋の扉をくぐれば待ち侘びていたファルがやさしく出迎えてくれた。
 「…どう?大丈夫だったかい?」
 「全部、見透かされちゃいました…」
膨大な刻のなか、あの悪魔は寂しがりの弟子の心を汲んでいたと思っていた。
しかし、実際はそうではなかったその事実を受け止めたファルは彼に怒りを感じたものの、今はそれを出しては意味がないと努めて冷静に振舞う。
見透かされたというのだから、ナル自身、それを知られたくはなかったのだろう。
シャツ一枚で頼りなさげに俯く姿など何一つ変わらない、あの甘えたな頃の弟子そのままだった。
 「そう…こちらへおいで」
両手を広げれば子猫のように頬を摺り寄せ、ナルは弱った心を預けようと素直に甘えてきてくれた。
彼女はいつもそうだった。
ファルが庇護しすぎたせいもあるが、心折れたときは真っ先に師を頼る癖があった。
それは死してなお彼女を苦しめる鎖となっており、自分の執着こそが彼女の呪いになってしまった事にファルは表情を硬くする。
自分を頼る弱い姿は甘い幸せをはらんでおり、噛みしめれば手放すには惜しい極上の禁断の果実であるため抱き締める手は喜びに震えたが、逸る心を持ち直しファルは口を開く。
 「もうぼくはいないんだ…自分の心の底まで許せないと、また寂しさで埋まってしまうよ?」
 「でも…どうすればいいのか分からないの…」
返された言葉は偽りの無い、素直なナルの心。
ファルは優しく弟子の頭を撫で、空色の瞳ごと心を閉ざして思う。
 (やはり、ぼくが…)
その決意こそ、ファルがここで使役される理由の一つでもあった。
傷ついた花を手折る事は容易く、束の間のふれあいは強い意味を持つことを、かつての師はよく理解していた。
すっかり落ち込んだ様子のナルとは裏腹に、ファルは穏やかな表情を見せる。
 「考える必要なんてないよ、ナルの心のままにすればいいんだから」
いつもなら的確な答えと道を指示してくれるのに、なぜだか今回ははぐらかされてしまった。
ちいさな違和感を持ちつつも、身体はやはり思った以上に疲れているらしく欠伸が出た。
 「ふふ、さあ今日は休もうか…?」
 「うん、私、やっぱり疲れてるみたい…」
師の言葉に導かれ共にベッドに横たわると、疲れ切った身体はゆるやかに夢の中へと落ちていった。



ひどく短い夜が明け、セツナは知らぬ間に部屋に戻ってきた悪魔に起こされていた。
 「起きろ人間、約束の時間に間に合わぬぞ」
悪魔の言葉に、眠気で支配されていた頭がじわじわと覚醒する。
そういえば昨日、魔神スルトが守る門の近くまで転送してもいいと冥府王に言われた気がしてきた。
 「うぅ…おはようございます…」
欠伸を混じえて挨拶をすれば、悪魔は相変わらず興味無さげに視線を反らす。
小さく「ああ」と答えると、帯刀用のベルトを装着し始める。
悪魔がブーツを履く様子を見て、セツナもようやく起き上がりなんとか防具に手を伸ばす。
 「…人間の起き抜けとは、いやはや…どれも大して変わらんな…」
ふいに掛けられた言葉に、セツナは目を数度瞬かせる。
 「…ええと、どういう事です…?」
 「アレもお前も、目覚めた時のざまが一緒だということだ」
悪魔はそう答えると、手の装甲具を慣れた手付きで嵌めてゆく。
人間なんて誰しも寝起きは頭が動かないモノだと、そうセツナは思う。
 (ファスキー殿の寝起き、たしかによくなかった…)
まだぼんやりとする視界の中、モロクでの一件を思い出す。
まさか目の前の悪魔にあの話をするわけにはいかないし、むしろあれを思い出せば頭も冴えてくるというもの。
まずは普段通りに振る舞えるよう、ゆっくり深呼吸をした。
悪魔であるドッペルゲンガーは彼なりのペースで動いているし、自分も自分らしく動かねばならない。
 (お互いの流れを尊重しなくては、きっとうまくいくものもいかなくなるでしょうし…)
そうして支度を終えた二人は、ふたたび冥府王の玉座へと足を運ぶ。
重厚な扉を開けば玉座には鎮座するヘルと、その傍らにファルが姿勢良く佇んでいた。
 「私の館はどうだ?休めたか?」
短時間の睡眠では不充分だと抗議したくなるが、下手な言葉を選択して死の神である彼女の機嫌を損ねてはならないことを昨日よく味わったばかりであるし、厄介事は避けて通るが吉。
 「はい、冥府王のご温情、ありがたくいただきました」
セツナの言葉に冥府王は目を細め、満足そうに笑みを浮かべる。
一方ドッペルゲンガーといえば、この場にナルの姿がないことに違和感を感じていた。
主の出陣であるというのに、見送りがないのが不思議でたまらなかった。
それを察したのか、冥府王は頬杖をつきながら告げる。
 「アレは見た目よりずっと衰弱していたからな、私の力でまだ眠らせてある」
思い切り心当たりのある悪魔は眉をひそめ、ナルと部屋を分けられた理由はこれだと悟った。
おそらく今の自分の傍らでは、ナルの心も体も休まらないのだろう。
自らつくってしまった心の溝に後悔し、消えそうな声で「そうか」と呟いただけだった。
そんな落ち込む悪魔をファルは鼻で笑う。
 「これから君は戻れないかもしれない試練だ、その間にぼくが付け入る隙があるかもしれないね?」
自分を煽る冥府王の執事に、ドッペルゲンガーは余裕のある失笑を返す。
 「ふん…やってみるがいい、ふたたび我が取り戻すなど容易いことだ」
そんなやり取りを断ち切るように、冥府王はドレスを崩すこと無く玉座から立ち上がる。
金の装飾に彩られた扇子を掲げ、これから戦地に赴く試されし者たちに告げた。
 「負ければ終わる、勝てば始まる…そういうことだ、良いな?」
負けることは許されない、ただ倒すしかない一方的な賭けに、セツナと悪魔は同時に頷く。
思惑は違えどナルを救うべく徒党を組むことになった二人の決意に、冥府王は祝詞によく似た呪文を唱えた。
聞き慣れない珍しい言葉だなどと思っている間に、足下に転送魔法の魔方陣が現れる。
二人は瞬く間に部屋から姿を消したのだった。
 「…良いぞ、出てくるがいい」
二人を転送した冥府王の言葉により、玉座の真裏からナルがゆっくりと姿を現す。
どこかおずおずと落ち着かない様子なのは、安定しない暴走した魔力のせいであった。
ドッペルゲンガーとの戦いはナルの身体だけでなく、その魔力のコントロールにも確実に傷を負わせた。
ソウルリンカーとしての制約を無視し、さらに無理をしてつかった魂の対価は想像を絶するほど大きく、魔力の巡りが悪くなった身体はうまく動かないものとなり、ナルはその身を震わせていた。
そんな姿のナルに見送りなどさせれば、彼らの心が揺らぐなど冥府王ならずとも容易に考えつく。
 「…どうだ執事、私の気配で隠したのは正解だったろう?」
 「ご賢明な判断でございます、王」
転送が終わり緊張がすこし解けたのか、ファルはちらりとナルの様子を見る。
申し訳なさそうな表情を浮かべる弟子の姿は、とても頼りなく儚げであった。
 「あ、あの…」
 「構わぬ、たゆたう者は黙っていればよい」
ナルからの感謝の言葉すら受け取らず、冥府王はファルを見据える。
 「さて、執事よ…これからやるべきことがある、そうだな?」
昨夜のやり取りを察しているだろう王の言葉に、ファルは落ち着いた様子で頭を下げた。
 「はい、仰る通りでございます」
ファルはナルに向き直ると仮面を外し、強い決意の眼差しをもって告げる。
 「ナルにはぼくからの試練を受けてもらうよ、準備はいいかい?」



冥府王から転送されたセツナ達は、異常な熱気を帯びた空気に口を手で覆っていた。
目の前に広がる光景は灼熱で紅く干からびた大地、そして川の様なマグマ、辺りに舞う火の粉。
 「くっ…まさに地獄、だな…!」
空咳をした悪魔の口から出た言葉にセツナは納得する。
二人が目にしているのは、罪人を焼くという伝聞の地獄の姿そのままであり、かろうじて違うことと言えば鬼と呼ばれる地獄の住人達がいないことだろう。
息をするたびに喉は渇き、限度を通り越した暑さで全身からは汗が噴き出る。
 「こ、このままスルトに会うなんて無謀過ぎる…!」
ようやく出た声は未だかつてないほど乾いた声で、セツナ自身も驚くこととなった。
苦しそうに咽せる彼を横目に、額に汗の玉を浮かべながら悪魔は彼が帯刀している魔剣を指差し告げる。
 「…炎を制して統べろ、このままでは…貴様と共倒れだ…」
短く息継ぎをする悪魔の様子は、彼もまたこの地獄の世界では無力であることを証明していた。
セツナは暑さに目眩を覚えながら、いまにも手放しそうな意識を必死に繋ぎ止めて魔剣を解き放つ。
鞘から解き放たれた魔剣は炎を纏わず、ただ静かに金属の鈍い光を映す。
 (制して統べろとは、いったい…)
立ち眩みのように揺れる視界にセツナは限界を感じた。
助言を求め悪魔へ視線を移すが、そこには片膝を地に付け、項垂れるようにして暑さに耐えるドッペルゲンガーが写る。
 (…私が…なんとか、しなくては…)
意識を繋ぎ止めようと足に力を入れるが、その努力も虚しく、意識は暗い闇に閉ざされかけた…その時。
魔剣の刃にちいさな蜥蜴が乗っているのが、目に留まった。
背中を海老のように丸めセツナを見つめるそれは、チロチロと蛇のように舌を出し入れし、セツナの様子を伺っているように見えた。
その蜥蜴の姿を見た瞬間、幼い頃に祖父から聞いた「魔剣に宿る精霊」の話が脳裏に浮かび、朦朧とする意識のなかそれを思い出していた。
炎の剣には炎の精霊が、氷の剣には氷の精霊が宿るのだという。
それらの精霊がそれぞれ力を貸してくれることで、魔剣を扱う人間も炎や氷の力が扱えるのだ、と。
薄れゆく意識の中、セツナは乾燥しきった唇を動かす。
 「君が炎の精なら、助けてくれ…力を貸してくれ…」

 ─私が力を貸したら、あなたはまた戦える?─

頭に響いた声に、セツナは直感でそれが剣の精霊の声だと判断する。
 「戦える、助ける為に戦わなくちゃいけない…!」
消えそうなセツナの声だったが、剣に乗った蜥蜴は瞬きを一つすると姿を消した。
それと同時に魔剣から炎が放たれセツナを飲み込む。
まるで纏うようにして燃え広がるとやがてそれは嘘のように消え、魔剣の炎は姿を収めた。
一瞬の出来事に肝を冷やしたが、感じていた暑さが消えたことにセツナは気付く。
息はし易いし、なにより汗も止まった。
そしてその効果は悪魔にも恩恵をもたらし、彼もまた立ち上がると前髪をかき上げ一息ついた様子で笑みを浮かべる。
 「よくやったな、助かったぞ」
やはり先程の蜥蜴が力を貸してくれたとセツナはそう信じ、愛おしそうに魔剣を撫でると大事に鞘に納める。
 「…ありがとう!」
心からの感謝に魔剣は沈黙を以って答え、二人は遠くに見える城壁を目指して歩き出したのだった。



同じころ、冥府王の邸宅に残されたナルにも試練の刻が訪れていた。
ファルの視線はただひたすら自分の指先に注がれており、それを意識すると緊張で自分の息がはやくなるのをナルは感じていた。
 「ナル、落ち着いて…心の底からこれだと思うものを選ぶんだよ?」
ナルの試練とは、箱に入れられた数々の宝石の中から、たったひとつ、スタージュエルを選ぶことだった。
隣では冥府王が興味深そうにナルの選択を待つ。
 (彼奴が戻り、私が魂の書き換えを行えば絆は薄くなる…)
ドッペルゲンガーが今の存在を捨て去ること、それはつまり新しいゲフェニアの王の誕生である。
新しい王となれば意識は同じであれ、それは器を別とした別の命となる。
魔に傾くことを選んだナル、その魂の質量はあまりに多く、このままでは主である悪魔という器から溢れ零れ落ちてしまう。
せめて半分だけでも輪廻の輪に乗せなくては、彼女は永遠に失われてしまうのだ。
 「お師匠様…私、どれがスタージュエルなのか分からないです…」
冥府王の事情など知らず、ただ無数の宝石からスタージュエルを選べと言われ困惑するナルに残された時間は、そう多くはなかった。
彼等が試練を受けること選んだ時点で、死の神との契約はすでに始まっている。
悪魔たちが戻る前に、なんとしてでも未来を掴ませねば手遅れになってしまうのだ。
魔神スルトの討伐など理由のいい時間稼ぎであり、たとえ彼らが倒したとしても死の神であればいくらでも復活させることができるし、失敗したとしても彼らを連れ戻せば問題なく、それほどまでにナルに未来を掴ませることは時間を有す大事な件なのである。
冥府王もファルも緊張しながら、ナルの様子に神経をとがらせる。
しかし、迷いながらも絞り込んでいるようではあり、人差し指を行ったり来たりさせていることに冥府王は気付いた。
 (だが、もう待てぬ…!)
冥府王は瞳に力を込め、たゆたう者を見つめた。
 「…お前がニブルヘイムに来た理由はなんだ?」
突然の冥府王の問いにナルは顔を上げると、数回瞬きをしてみせて首を傾げる。
 「理由、ですか?」
交差する瞳はそれ以上に語らず、気付けばナルの指先は一つの小さな宝石を指し示していた。
それは檸檬のような明るい黄色の不透明な宝石で、内から発光する姿は、まるで星を閉じ込めたようだった。
表面の粒子が流星のように瞬く不思議な光景は、ナルが今まで見たことのない宝石であった。
 「私…これ、を…さがして…」
ナルの異変に気付いたファルは主人を見れば、そこには嬉しそうに微笑みを浮かべる死の神がいた。
 「…冥府王、何をなされたので?」
 「この娘には時間が残されていない、だから私が愉しめる未来を選ばせた」
嘘に飾られる事なく出て来た言葉に眉をしかめるが、ナルが選んだ宝石こそまさにスタージュエル。
抜け殻のように虚ろな瞳をしたナルを抱き寄せた冥府王は、ナルの手にスタージュエルを握らせると言葉を続ける。
 「星の瞬きが真実の姿を纏う刻が来たのだ、この娘はヴァルハラに行かねばならぬ」
そして、冥府王にスタージュエルを差し向けられたナルは夢を見ていた。
それはどこまで追いかけてもゲフェニアの主に追い付けない夢だった。
声を上げても届かないようで、先を行く彼を止めることはできず、いくら走っても彼に追い付くこともできなかった。
焦燥感に息を切らせば意識は浮上し、目の前には冥府王が目を細めていた。
 「…ほう、戻ったな?」
冥府王の言葉に覚醒した意識で見渡せば、確かにそこにはファルもいる現実の世界だった。
 「あ…今のは…」
途端に顔色を悪くし、身体を震わせるナルの様子に冥府王は拘束を解く。
ナルの瞳を覗き込み、魔力の循環を促してやれば震えは静かに止まった。
 「今みた夢こそ、そなたがこれから征く未来のイメージである…さてそれはどうであった?」
震えてうまく動かない唇で、ナルはゆっくりと言葉を紡ぐ。
 「先を歩く主様に、私は追い付けはしませんでした…」
 「そうか、共には行けなかったのだな」
意味ありげに呟いた冥府王の言葉は、ナルの心をひどくざわつかせる。
 「それは、つまり…?」
あまりに結論を急いだ言葉であった。
しかしそれを知っていたのか、冥府を統べる王は瞳をゆっくり閉じ、言葉を選び終えると答えを出す。
 「ゲフェニアの王となったアレは、遠くない未来、お前を傍らに置くのを良しとしないということだ」
冥府王から突き出された暗示にナルは目の前が真っ白になり、その手からはスタージュエルを落としてしまう。
ショックで浅く呼吸を繰り返す様子に、死の神はナルの頬を長い爪でなぞる。
 「やはり溢れた魂は居場所を失くす、私の回収を待たずしてな…」
すっかり血の気が失せてしまったナルの様子は、さながら魂の迷い子のようだ。
 「私、どうすれば…」
 「案ずることはない、まだ執事との契約が生きている」
ゆっくりとした動作で床に落ちたスタージュエルを拾い上げたヘルは何かを詠唱し、再びそれをナルに握らせる。
先ほどとは明らかに違う形状に気付いたナルは、新たに手に収められたモノを見てみた。
それは淡い桃色の不思議な菱形をしたアクセサリーであった。
中央にはファルの瞳によく似た青い宝石が収められ、その周囲には馴染みのない古の言葉らしき文字が所狭しと書かれている。
 「それがスタージュエルの真の姿、ヴァルハラへ続く道を認められた証だ」
 「ヴァルハラ…!」
 「お前もよく知っているだろう?魂の浄化場所だ、これからも眷族でいたいのならば向かうしかない」
ヴァルハラ、そこは戦士たちが眠るとされる天の国の名前であり、聖職者として生きたナルにとって何を意味するのかはよく知っている名称であった。
命の生まれ変わりを意味するその名前に不安こそあったが、冥府王が選んだ未来には不可欠な要素である真意を感じ、また眷族として離れてしまうことのない何か秘密があるのだと察すれば心は自然と固まった。
冥府王の言葉に縋るように証を握り締め、ナルは強く目を閉じた。
 「私…その、ヴァルハラへ行きます…」
弟子の決意の言葉に、とうとうファルが口を開く。
 「冥府王様、少しの間ご無礼をお赦し頂けますか?」
 「いいぞ、あとで取り立ててやる、存分に無礼を働くがいい」
冥府王の許可に苦笑したファルはナルの手を取り、そのまま引き寄せ強く抱き締めた。
 「ごめん、知ってたんだ…ナルがいつか一人ぼっちで足を止めてしまうんだってこと」
突然の懺悔にナルは驚き、思わず身体を引いてしまった。
 「師匠…?」
 「これでも冥府王の執事だからね、すこしくらいなら未来が予測できるっていったら…おどろくかい?」
それがなぜ謝ることにつながるのだろうか、ふわふわとした思考を巡らせれば答えは簡単だった。
 「それは孤独になった私に、いつでも寄り添えるって…ことですか?」
 「うん、そうでもならないと眷族の絆なんて壊れないでしょ、だから未来で待っててほしいんだ」
昨日の穏やかで生前のように優しく振舞ってくれたのは、いつか来る壊れた関係性を見越しての優しさだであると、ナルがそう捉えるのは自然な流れであった。
 「あんなに優しかったのは、こうなる事を知っていたからなの…?」
昨日の身支度を世話した秘密のやり取りを思い出せば惜しく、それでも振り返ってはいけないとファルは心を強くもち、空色の瞳を輝かせ答える。
 「…でも、優しくされたかったのも、ナルの本当じゃないのかな?」
暴かれた心にナルの身体は震えた。
そうだった、いつだって自分は師に優しさを求めていた。
それは生前もそうだったし、没後ですら名前を呼ぶたびに思い募らせていた。
いつも求めるのは自分からで、それもいつも都合の良いものだったが、それが心地よかった。
師に見透かされた心は主にされたそれより重く、今の自分には手に負えない代物で、目の前が白んでくる。
ふらつく足元にファルが抱きとめようと手を伸ばす。
 「さわらないで、おねがい…」
消えそうで細い声は弱り切った証。
ファルは最後の一押しをする。
 「どうして?最後に欲しくなるのは、どうせぼくなのに?」
 「そんなことない!」
そう言い切った弟子の平手打ちは師の頬に決まり、それによりファルは沈黙を強制された。
叩かれた頬を手で抑え俯く師に、ナルは荒ぶる呼吸で最後の言葉を放つ。
 「師匠なんてきらい!」
 「その位にしておけ、さあ急げ、ヴァルハラへ送るぞ」
見兼ねた冥府王はナルの手を握ると、迷うことなく移動魔法を執行する。
心の整理もまともに付かぬまま、ナルはとうとうニブルヘイムを後にすることになってしまった。
水を打ったように静かになった室内で、冥府王はファルに尋ねる。
 「執事、貴様…何故あんな嘘を?」
冥府王からの問いに苦悶の表情を浮かべながらファルは答える。
 「これから必要以上に甘えないようにするため、好意を削げるように仕向けました」
これからナルが選択するであろう道は、きっと今までしたどの選択よりも困難であるはずと、ファルは言った。
過去に引きずられぬよう、師が最後に出来るのは背中を押すこと。
自分の死後、いつまでも後ろ髪を引かれ続けた今までの彼女を送り出すため。
人を捨てるほどの選択をした大きな未来を継続するため。
転生した自分と再び巡り会ったときのため。
今の自分の優しさは求められていた偽りのそれであったのだと、初めて弟子に厳しく接したのだ。
 「…そうか、まあいいんじゃないか…お前の事だ、平手打ちも新鮮だったのだろう?」
冥府王から出た言葉にファルは深く礼をし、わがままを聞き入れてくれたそのことに感謝した。
その意を受け取った冥府王は笑みを浮かべ、満足げに大きな欠伸をした。
 「良い、それはそうと喋りすぎたな…さすがに喉が渇いたぞ…」
 「畏まりました、只今お茶のご用意をしましょう」
下がろうとしたファルの見たことのないふらつく足元に、冥府王は眉間に皺をよせた。
 「…おい執事、大丈夫なのか?」
 「もう…駄目かもしれません、ずっと想いを馳せていた子にきらわれてしまいましたからね…死んでしまいたいです…」
すっかり覇気を無くしたファルに冥府王が言えるのは、ただ一つ。
 「残念だが…ここはニブルヘイム、これ以上は死ねんのだ…」