切り揃えられた紺碧の髪をかろやかに揺らしながら、ナルは冥府王の執事である師の後ろに続き玉座へと姿を現した。
身にまとうその服は聖職者を彷彿とさせながら、夜会のドレスのような華やかさを香らせ、空色を基調としたみずみずしい青さは冥府王の執事の瞳に染め上げられたような輝きを秘めている。
ソウルリンカーの出で立ちよりも聖職者たる雰囲気をまとった様子に、セツナは彼女の真の姿である荘厳さに息を飲むしかなかった。
「ファスキー殿…」
戸惑っている様子のセツナにナルは笑顔を向けた後、その視線を冥府王へゆっくりと移す。
「冥府王様のご寵愛たしかに頂戴いたしました、この身に余る光栄です」
スカートを両の手で広げ深く頭を下げたナルは、死の神が執事を伴う身支度を許してくれたことに深く感謝をした。
その行き届いた作法にヘルは執事の様子を伺ってみたが、彼といえばここにきてからは見たこともない程の穏やかな顔つきで仕立て上げたナルを見守っており、改めて彼の秘めたる執着の心を鼻で笑う。
「ふふ…!構わぬ、顔を上げよ」
ヘルは満足そうに笑みを浮かべ、楽しそうに言葉を紡いだ。
「いつの日かここへお前が来ることを執事に告げたら、当然といった様でその服を作り始めていたよ」
そして最後に「気持ちの悪いヤツだろう?」と付け足した冥府王は執事を指さし、また笑顔を浮かべる。
「執事よ、良かったな、頭のてっぺんから足の先までぴったりじゃないか?」
「はい、彼女の全ては記憶しておりますゆえ、寸分の狂いなく似合うのは当然かと」
しれっと答えた執事に今一度「気持ちの悪いヤツだ」と吐き捨て、冥府王はナルを見つめた。
「さあ、たゆたう者よ、審判の時だ」
そう告げたヘルは両手を差し出し、右手には金の炎を、左手には銀の炎を立ち上らせ、人と魔のはざまにたゆたう者への審判をはじめた。
幻想的に揺らめく炎を瞳に映したナルは、その美しすぎる光景に息をのみこむ。
(あ…、目が…離せない…)
その炎の輝きは主であるドッペルゲンガーが向ける、魅了の魔力を込めた眼差しによく似ていた。
思考を限定されゆくなか、冥府王の支配力の強さを身をもって知り、ナルは彼女が死の神であることをはじめて怖いと思った。
瞳をそらせなくなったナルの様子を満足げに確かめた冥府王は、漆黒の目を細めて問い掛ける。
「羽根をうばわれた鳥よ、今ふたたび空に舞うか?それとも籠にて呪いの唄を歌い続けるか?」
冥府王の言葉は深く沈み込むように心へと広がり、拒んでは抗う意志を引き揚げるようなつよい力を感じさせた。
つよい意味をもつ問いであると分かりながらも冥府王の真意は推し量ることはできず、ナルは上手く動かせなくなった口をなんとか動かし、その真意を測るべく問う。
「私を…主様から解放、という事でしょうか?」
「そうなる、今一度ヤツを見てみるがいい」
促されるままに、魂の主であるドッペルゲンガーを紺碧の瞳に映す。
そこにはいつもの猛々しさなどなく、ただ諦めをまとい弱りきった悪魔がいた。
冥府王に示された彼の姿こそ、この選択が彼にとって重大であるとそう悟るのは容易なことだった。
「主様…」
淋しげに呟かれたナルの呼び声に、悪魔は紫電の瞳をゆっくり閉じる。
「苦労を掛けた、もうよい…そなたの心のままに生きよ…」
名前すら呼んでくれぬ主の姿は今にも消えてしまいそうで、彼の所以である陽炎のような幻を見ているような儚さを暗示させていた。
自分が師に世話を焼かれている間に冥府王と絶望のやり取りがあったのだろう、そうも思った。
離れてしまったのは自分でありながら、すっかり弱った主を前にすれば心に浮かぶのは出会った頃の寂しがりな悪魔の姿。
(ゲフェニアの悪魔、悪夢の王…ドッペルゲンガー…)
生きる喜びを囁くまで、あまりに遠かった。
それでも自分が差し伸べた手を握り返してくれた。
気付けば坂道を転がりながら悪魔に縋り、とうとうここまで来てしまった。
あれほど共に寄り添い、分かち合ってきた寂しさを思えば道はひとつで、ナルは進むべき道を照らす自分の心を信じて選択した。
「歌い続けます…私の居場所は、遠い昔に決めました」
「本当にいいのだな?」
深淵の瞳は妖しく煌き、今一度その選択を迫る。
「我が魂と道を分かつのは神の手を借りねばならん、人に戻るなら今しかないのだぞ!」
まるで自分を送り出すような聞き慣れた悪魔の言葉にナルは確信する。
「構いません、ゲフェニアの悪魔のため、永久を歌うのが私の幸せと罪です」
その言葉にヘルの右手に立ち上っていた金の炎は消え、左手に残った銀の炎はさらに燃え上がると星を散らしたように瞬き消えた。
選択と炎の行方を見届けた冥府王は改めて執事を見ると、なんとも楽し気に目を細めて口元を緩める。
「ふふ!やはり振られたな?」
「今は構いません、まだこちらに余裕はありますので」
そう答えた執事は仮面を取り、傍らの弟子を空色の瞳で見つめる。
「あ、お師匠様…」
途端に頬を染めると困惑した様子を浮かべる彼女の視線にファルは微笑み、右手を取るとその手首へと口付ける。
「!」
思わず手を引いてしまったが、それに構うことなくファルはナルを見つめると宣言する。
「来世のぼくに期待してね、必ずそこから救い出してあげるから」
「ばかな男め、退魔師なぞいくらでも返り討ちにしてくれる」
「まあ!主様ったら!」
舌打ちと共に届いた悪魔の言葉で我に戻ったナルは、師の傍から主の傍らへと身を寄せる。
いまだ不安そうに顔色を悪くさせているものの、先程より幾分よくなった悪魔の顔つきにナルは素直に選択が間違っていなかったことを安堵した。
「お前もばかだ、我の元より逃げ出す唯一の好機であったというのに…」
「いいの、私、きっとどうにかしていたから…」
ナルの言葉と共に己の手に添えられた暖かさは数日の間にもっとも求めていた安らぎで、ようやく得られたそれに自然と笑みがこぼれる。
やはり隣に欲するのはなによりも彼女なのだと、ドッペルゲンガーは改めてそう感じた。
彼らのやりとりを肝を冷やす思いで見守っていたセツナも、ようやっと決着がついたと安心した表情で頷く。
「では、次は私たちが権利を勝ち取る番ですね!」
その問いにヘルは嬉しそうに頷き、思い出したように絶望を告げる。
「ああ、言い忘れた…魔神スルトは私も手こずる強さだ」
魔神スルトとはヘルが住まいを設けるニブルヘイムの隣、隔離された灼熱のムスペルヘイムの入り口を守る巨人のことだと死の神は語った。
「あれは敵対者が消し炭になるまで、その炎を抑えることを知らぬ厄介な相手だ」
「そ、そんな相手から勝利を勝ち取れと…?」
すっかり臆病風に吹かれたセツナは決意を揺らすと、その様子に冥府王は目を細め、ただしずかに微笑む。
「巨人に負ける心しか持たぬのであれば、それは負けるだろうな」
ヘルの言葉に己の恐怖心が見えるべき道を見えなくしているのだと悟ったセツナは、共に立ち向かう悪魔と視線を交差させる。
「…どうですか、あなたは勝てると思いますか?」
「何をいまさら…勝てるまでやるしかないだろう?」
セツナへの返答を噛み締めるように、ゲフェニアの王はナルの頬をやさしく一撫でする。
そう、ドッペルゲンガーにとっては相手の強さなど、そもそも考える必要がなかった。
倒さねば自分が大切なものと共に在る未来が失われてしまう、ただ、それだけだった。
「これは勇ましいな、すばらしい!…しかしまず今宵は休め、明日万全の体制で出立するがいい」
ヘルはそう告げると執事に晩餐の手配をし、ニブルヘイムの夜は緩やかに締め括られていった。
「ずいぶん不機嫌ですね…」
居ても立ってもいられず、セツナはとうとう悪魔に声を掛けることにした。
「気にするな、ここ暫くはこんなものだ」
椅子に腰掛け腕を組み、すっかり眉を吊り上げるドッペルゲンガーはため息を吐き捨てた。
冥府王から用意された部屋はとうぜんのようにナルと離れているし、親睦を深めさせるためだと気乗りしない人間との同室。
そこまでは納得できたが、なぜナルがファルと同室なのか。
それを考えるだけで胃からのぼせ上がる不快感に、悪魔の心は沈んでゆく。
「はぁ…」
ドッペルゲンガーの隠すつもりのない大きなため息に、セツナは彼が執着してやまないソウルリンカーの彼女を思い浮かべる。
夕食時には長年連れ添ったまるで番いのように、互いを気遣う落ち着いた様子を見せていた。
ただ、あの仮面の執事が彼女へ心配りをするたび悪魔は眉間にしわを寄せていたし、肝心の彼女はそれに気付かず幸せそうに顔を綻ばせていた。
(私では考えもできない、よほど複雑な三角関係なんでしょうかね…?)
考えたところで悪魔の機嫌はなおらないだろうし、むしろ変な言葉掛けをすれば藪をつつきかねない。
それよりまず優先すべきはスルトを攻略するため、ある程度この悪魔と交流を深めることが先決である。
(これもすべて恩人であるファスキー殿のため…!やるぞ、セツナ!)
決意したセツナは臆することなく、勇敢にゲフェニアの悪魔へ話し掛ける。
「冥府王は巨人と言いましたね、御伽噺だと思っていたので存在するとは驚きました」
この言葉に意外だと言わんばかりに驚いた表情を浮かばせたのは、ドッペルゲンガーであった。
「…ふむ、其方はグラストヘイムを知っているか?」
「あの…ゲフェンの西方、いまは魔物の巣窟になっている、朽ちた古城ですか?」
かつてナルと迷い込み、不思議な深淵の騎士と出会った舞台に思い馳せつつ悪魔は頷く。
「あれは古の戦にて、巨人と人間が戦った舞台でもある」
「まさか!巨人が人の世界に現れていたというのですか!?」
「ああ、間違いなくあれらはいた」
セツナの反応に遠い記憶を遡り、かつての魔法都市ゲフェニアの時代を胸に思い浮かべる。
混沌を極めた時代であったが、彼にとっては忘れがたい時代でもあった。
当時に想いを馳せつつ、巨人と呼ばれていた存在を思い出せば言葉は自然に紡がれていた。
「巨木のようでもあり、鉱物のようでもあり…彼等はじつに不思議な姿をしていた」
その言葉は彼が古い時代から息をしていた証明をしており、セツナの心臓は早鐘を打つ。
よくよく史実を思い起こせば、この悪魔、かつてゲフェニアの街を一晩で滅ぼしたというではないか。
悪魔も巨人も、そのどちらも文献で語られる存在ながら今なお息をする歴史の証明者が目の前にいる事実に、探求心はくすぐられた。
「もしや…巨人と闘ったこともあるのですか?」
その問いに悪魔は首を振る。
「人間とエルフたちはグラストヘイムで奴らの進行を押さえたようだったからな、我は死骸を見た程度だ」
ドッペルゲンガーの返答に、もしや巨人と手合わせをした経験をと期待したが、やはりそううまく事は運ばないらしい。
魔神スルトは互いに初めて手合わせする存在であり、冥府王から与えられたのは、炎を操り圧倒的な強さを誇るという情報だけ。
ため息混じりに悪魔を見ながら、再度問い掛ける。
「…勝算はあると思いますか?」
今日だけで何度この人間から同じ問い掛けを受けたのだろうか。
悪魔は気怠そうに彼が持つ魔剣を指差した。
「それは貴様と魔剣との絆によるだろう」
「え?」
しかし悪魔はそれ以上は告げず、もう休めと指示すると部屋から出て行ってしまった。
鞘に収まる魔剣ファイアーブランドを見つめ、セツナは首を傾げる。
「…絆…?」
一方、冥府王に言われた通りにファルの部屋にて、ナルはひさしぶりに心穏やかなひと時を堪能していた。
ファルが用意してくれたホットミルクはくつろぐには十分すぎるもてなしで、ほんのりと感じる砂糖の甘さに不安な心はしずかに溶け、身体の中から温まってゆく心地よさは幸せそのもの。
また、洗練された部屋も居心地が良く、家具は必要なものだけ揃えられているファルのセンスがとても懐かしく思えた。
「うーん…流石に寝衣までは用意してなかったな、どうしようかなぁ…」
部屋の主であるファルといえば仮面を外し、すっかりナルのお世話モード。
クローゼットを覗き込みながら、あれでもないこれでもないと弟子の寝巻に頭を悩ませている真っ最中。
それは折角あつらえたドレスのままで寝かせたくないという言い訳もあったが、どうやら師のとっての理由はそれだけではないらしい。
「ねぇ師匠、このまま寝たらダメなの?」
ナルの声に顔を向けたファルは、困った様子で返答した。
「ここは死の領域だからね、ナルが思っているより身体と精神が消耗しているから…しっかり休んでほしいんだよ」
しつこく寝衣を探す理由はこれだと目星をつけ、また今は疲労を感じていないが師が言うのだから己が疲れているのは間違いないだろうとナルは納得する。
素直に頷き答える様子をみたファルは笑顔を浮かべ、ふたたびクローゼットと睨めっこを始めた。
明日、自分の主たる悪魔とセツナは魔神の討伐にいくのだと聞いた。
それが自分と悪魔を繋ぐため、冥府王から与えられた試練なのだ、とも。
「魔神って強いのかなぁ?」
つい口に出てしまった独り言にファルが反応する。
「門番だって言ってたからね、実力はかなりあるんじゃないかな?」
「そっかぁ…主様も大変なことになっちゃった…」
ずいぶんと他人行儀に話す弟子に苦笑する。
相変わらずの愛弟子の様子に、ファルも心穏やかなこの瞬間を楽しんでいた。
(師匠ってば、なにかを選んだりする時すごく長いんだよね…)
しびれをきらしたナルの目に、間仕切りに無造作にかけられた一枚のシャツが目にとまる。
「お師匠様、私これで大丈夫なので着替えてきますね」
「ううん?なになに、どれ?」
ファルの反応などお構いなしに、ナルは師の視線が届かない間仕切りの後ろに回ると着替え始めてしまった。
まさか弟子がシャツ一枚だけを手にした様子など見てもいなかったファルは、一体どれの事なのかと思考を巡らせ間仕切りを見つめていたものの、とうとうシャツのみ羽織った弟子が姿を現したものだから、思わず吹き出してしまった。
「ちょっと…そ、それで寝るの?ホントに?」
慌てた様子の師に満面の笑みを浮かべ、ナルは頷いてみせた。
「はい!これで大丈夫です、楽ちんですし!」
無防備に覗く素足は目のやり場に困るが、役得と言えなくもない。
生前も就寝時はしめつけの少ないものを愛用していたので、これを選んだ理由としては夫としても師としても頷くことはできる。
「うーん…ナルがそれでいいなら…、じゃあ休もうか」
「はい、明日起きられなくなっちゃいますからね」
くるりと背中を向けた弟子は、それは迷う様子など感じさせずベッドへ潜り込んでしまった。
相変わらず自分を異性の対象にしていない弟子の行動には、たとえ死んでいたとて心臓に悪いとファルは思う。
(一緒に寝ていいのかな…いや、ここはソファだよな、やっぱり…)
さすがに葛藤こそあったが、やはり体力も精神も消耗しているナルにはゆっくり休んでもらいたく、それを思えば体温を分け合えないことなどファルにとってさほど重要ではなかった。
申し訳程度のひざ掛けを手にソファに横たわれば、ベッドから顔を覗かせるナルは不思議そうに師の姿を眺めた。
「あれ?師匠はソファで寝るんですか…?」
「そりゃあ、今はもう一緒に寝る訳にいかないでしょ?」
全く不思議な事を聞いてくるものだ。
死が二人を別ち、もう数えきれないほどの夜を越えたというのに、甘えたな弟子な相変わらず自分を過保護な師だと認識しているようだった。
(もう…ヘル様の館でなかったら、どうなっちゃっても知らないぞぅ!)
そう思いつつ、生前も最後まで過保護な師を崩せなかった自分に苦笑してる間にナルはベッドを抜け出し、ソファに転がる師の横に佇んでいた。
「…おや、どうしたの?」
「私がソファで寝ます、師匠にはベッドでちゃんと寝てほしいので…」
「な、なんて事言うんだい…!?」
愛弟子をソファで寝かせた自分が、ぬくぬくとベッドに横になれる訳がないというのに、自覚のないナルといえば表情を曇らせて困り顔を浮かべるばかり。
起き上がったファルはナルの手を取り、すこし冷たく感じる弟子の手を包み込むようにやさしく握りしめる。
「ナル、だめだよ…そういう訳にはいかないでしょ?」
「でもここ、師匠のお部屋でしょう?私、ちゃんと我慢できるから平気だよ」
(…我慢できるから平気?)
弟子なりの気遣いに、ファルはあることに気付く。
自分の没後、ナルは永い間いろいろ遠慮してきたのだろう、と。
いまではそれが当たり前になってしまい、我慢することこそが生きる術になってしまったのだ、と。
もしかしたら思いやりを受け取ることすら忘れてしまったのかもしれない、そうも思えた。
その答えに辿り着いてしまえば、もう不憫な思いをさせてはならぬと気持ちは高ぶり、ファルはナルの手を握りしめる。
「…わかった、じゃあ久しぶりに一緒にベッドで寝ようか?」
「そんな事はさせん」
声の出所を見れば、扉の前にゲフェニアの悪魔が佇んでいた。
不機嫌さと存在感を隠す様子なく、師弟のやり取りに介入する傲慢さにファルは苛立つ。
「ちょっと、あのさ…ここはぼくの部屋なんだけど?君が冥府王から言われた部屋ってここだったかい?」
ソファから立ち上がり、悪魔になど負けぬよう嫌味を言えば彼は鼻で笑って返す。
「部屋はその通りだ、しかしナルに会ってはならぬと言われた覚えはないのでな?」
悪魔は右手を差し出し、紫電の瞳にナルを映す。
「話がある、来い」
魅了の力を込められなくとも、ナルは従順に頷くとその手を取る。
後ろ髪をひかれつつも、ナルは「すぐに戻ります」と言い残して悪魔と共に部屋から出て行ってしまった。
「あー、もう…!」
永年培った主従関係とは、なんと厚い壁なのだろうか。
銀髪の頭をかきむしり盛大なため息を吐き出したファルは、乱暴にソファに沈んだ。
ファルの部屋から廊下へ場所を移し、壁掛けの灯りの下へと二人は身を寄せた。
「主様、あの…お話って…」
ナルの言葉を遮り、悪魔は慈しむように抱き締める。
耳に掛かる吐息にナルは目を閉じ、口を噤んでただ彼の言葉を待つ。
じんわりと伝わる体温は、とても懐かしい気がした。
「…激昂した事を謝ろうと思って、な」
思いもよらぬ悪魔の言葉に、ナルは何度も瞬きをする。
「え…?」
あっという間に悪魔はナルの前に跪き、左手を取るとその掌に口付けを落とす。
少しくすぐったい感触に反射的に手を握ってしまったが、それに構わぬように悪魔は紫電の瞳で彼女を見上げた。
「許してくれとは言わない…酷な事をした、すまない」
いつもの高圧的な彼の姿との違いに、ナルは戸惑いながらも頷く。
「いいの、逃げ出したのは…私だから…」
ナルの言葉に少し寂しそうに眉を下げ、悪魔は手を握ったまま問う。
「ゲフェニアでの暮らしは窮屈か?」
「違うわ、そうじゃないの…そうじゃないの…」
何度も首を横に振り、悪魔の寵愛を否定せずナルは瞳を伏せる。
「悪魔の花嫁だと、人間に忌み嫌われるのが辛いか?」
この問い掛けにナルは動かず、ただ静かに唇を強く結ぶ。
それ彼女が人であった時からの癖。
己の弱い部分と向き合うとき、彼女はいつもこうして唇を強く結ぶのだ。
迷う気持ちを言葉にすることなく、誰かに助けを求めることもなく、ただ一人で立ち向かう姿を悪魔は知っていた。
「お前の心の闇は分かった、しかし軽くしてやることは出来ない…」
悪魔の言葉にナルは頷く。
「お前がそうなるようにさせたのは我だからだ…、わかるな?」
彼女の心を軽くしてやるには、人から魔に堕とした自分では駄目なのだと、悪魔もナルも互いにわかっていた。
心の片隅で人を渇望するナルの寂しい心を癒すには、やはり人でなくてはならない。
死人であるが、今は幸いな事に心を許せるファルもいる。
癇に障るが致し方ないと自らに言い聞かせ、悪魔は再び抱き締め耳元で囁く。
「我の元に戻れる程度ならば大目に見る、心に留めろ」
そして消えそうな声で「愛している」とだけ告げ、悪魔は身体を離し背を向けナルの前から姿を消す。
残されたナルは胸に手を当て目を閉じ、ゆっくりと呼吸を整え呟く。
「…主様…」
そして彼女も寂しさで心を充たし、師の待つ部屋へと戻るのだった。