とある日々の終止符


■-3

 ノチアの治療から二ヶ月後の休日、アユルスは小さな花束を持ち昼間の道を行く。初めての母の墓参りだった。今まで無我夢中で仕事へ打ち込んでいたのも、母へ合わせる顔が無かったからなのかもしれない。
 辿り着いたのは日当たりの悪い場所だ。ともすれば障害物として片付けられてしまいそうな石が一つ埋まっている。此処こそが、当時吸血鬼の母とされた末に辛うじて許された弔いの地だった。手入れは父やナユルが行っているらしいが、やはり雑草はすぐに成長してしまうようで、墓石を覆い隠さんばかりに広がっている。
 墓石の周囲に伸びている雑草を取り除きにかかった。日光が当たらない所為か、殆どは茎や蔓の長いもので抜きづらい。黙々と草を毟っていくと墓石が露わになる。持参した布で墓石を拭ってから、草の水分と土で汚れた手を布の端で拭った。そうして花束を供え、アユルスは立ち上がる。
 このような場合は何か語りかけるものなのかもしれないが、言うべき事の全てを母が理解してくれている心地になり、アユルスはただ小さく笑った。
 墓石を見詰めていると、ふと一つの考えが浮かんだ。迷う事無く、思念でジダルドへと語りかける。
『……ジダルド』
 静けさの中で待ったのもほんの数瞬だった。
『アル、どうしたの?』
『俺も、ジダルドに会ってほしい大切な人がいるんだ。今から大丈夫かな』
『うん、大丈夫だよ。そっち行くね』
 一呼吸置くと背後で雑草を踏み締める音を聞き、アユルスは振り返った。やはりルルムは留守番らしく、その頭の上にはいない。
「有り難う、ジダルド」
「こっちこそ、ありがとね」
 応えながらジダルドの目がアユルスの足元にある石と花束を捉える。
「……寛鷺さん、だっけ。アルのかあさん」
「うん。やっと墓参り出来たんだ」
「そっか」
 ジダルドは頷くアユルスの傍らに立ち、穏やかに墓石を見詰めた。貧相とさえいえる墓だが、其処へ注がれる感情は間違い無く温かい。
「なんか最近、感謝する事多いなあ」
 ジダルドの呟きにアユルスが首を傾げる。
「どうして?」
「だって、アルが此処にいるのも寛鷺さんがアルの事守ってくれたお陰だしね。もしそれが無かったらって考えると、俺は怖いよ」
 アユルスの存在は様々な人物へ様々な変化をもたらした。その影響は正しいばかりではなかったが、変化によって救われた人物もいる。それはナユルやルイセ、そしてジダルドという、少数かもしれないが絶大な変化だった。
「だからほんと、感謝しか出来ないなあ」
「俺もだよ。母さんには感謝しか出来ないな」
 応えながらアユルスは日陰を作る木々を見上げる。鬱蒼としているが下のものを守るようにも感じられ、ちらちらと輝く木漏れ日は楽しげに揺れていた。その様子が快活な母の姿と重なる。
「そういえば、ノチアさんはあれからどうなったんだ?」
 不意にアユルスから問われ、ジダルドは悪戯染みた笑顔でアユルスへ振り返った。
「実は今から行こうかなってしてたとこ」
「えっ、ごめん……」
 引き留めてしまった事を謝るアユルスへ、ジダルドは軽くかぶりを振る。
「ううん、こうして寛鷺さんにも会えたしね。そうだ、どうせならアルも来る?」
 まるで遊びに誘うようなジダルドの口振りに、アユルスの表情から陰りが消えた。
「じゃあ行こうかな」
「ありがとね。それじゃ、アルの事お借りしまーす」
 アユルスを抱き寄せながらジダルドは墓石へと告げるが、冗談などではないのだろう。
「ジダルド」
「ん?」
 腕の中のアユルスがジダルドの背へ腕を回しながら続けた。
「きっと母さん、晩ご飯前には返してねって言うよ」
 寛鷺の朗らかな性格を垣間見てジダルドが楽しげに笑う。
「アハハ、頑張りまーすっ」
 墓石へ緩い手付きで手を振ってから、ジダルドはアユルスへ向き直った。
「じゃあ、いくよ」
「うん」
 そうして二人の姿は掻き消える。木漏れ日がそよ風に揺らめいていた。



 昼前の九階へと転移し、受付を済ませて廊下を歩く。ジダルドの歩みには迷いも不安も無く、寧ろ楽しげなものだった。前回とは正反対の様子に、アユルスは淡い期待をしても良いのだと悟る。
 やがて辿り着いたのは前に訪ねた個室だ。ジダルドが引き戸を軽くノックし、そっと開ける。病床の周囲に取り付けられたカーテンは開いており、其処にいる人物の姿もよく見えた。その姿にアユルスは内心首を傾げる。
「ねえさん」
 ジダルドが呼びかけると、病床で上体を起こしていたノチアが笑みを浮かべた。両目には無かった筈の瞳がある。
「ジル」
 やや枯れてはいるが穏やかな声が応えた。ジダルドと共にアユルスが部屋へと足を踏み入れると音に気付いたノチアが小首を傾げ、その動きに長い髪が揺れる。
「後ろの人は誰かしら?」
 問いにアユルスが緊張しながら答えた。
「アユルス・エレメリータです、いつもジダルドにお世話になってます」
 緊張は存在を言い当てられた事よりも、相手がジダルドの姉である事のほうが大きいだろう。
「アハハ、世話になってるのは俺のほうだよ」
 笑うジダルドにアユルスは気になり続けていた事柄を尋ねた。
「ジダルド、ノチアさんの格好は……」
 やや遠慮がちなのはノチアへの配慮であると二人にも伝わり、ジダルドが緊張をほぐすようにアユルスの肩を撫でる。
「ごめんね、言い忘れてたや。髪はかつらで、目は義眼だよ」
「ジルが覚えていてくれたから、色の調整もすぐ終わったのよ」
 ただ着飾るような口振りであり、実際にそうなのだろう。それにアユルスは軽く安堵の息をついた。
「そうだったんだ……」
 アユルスの安堵に籠もる感情の優しさにノチアは微笑む。皮膚移植されて尚も隠せない火傷の痕によって引き攣れてしまうが、慈しむような笑みだった。
「貴方の事はジルから聞いていたわ。本当に有り難う」
 言葉にアユルスは小さくかぶりを振る。
「俺はただ、ちょっと手伝っただけです。ジダルドがずっと一生懸命頑張って、ノチアさんが生きようとしてくれたから、出来ただけなんです」
 言葉にノチアは鈴を転がすように笑った。
「もしそうなら、貴方のしてくれた事は大きなきっかけなの。あともう少しの後押しが無かったら、私達は動いてさえいなかった。貴方は気付いていないだけで、一番難しい事をしてくれたのよ」
 其処にジダルドが畳みかけるように告げる。
「アルってば、いっちばん大ごとに気付いてないんだもんねえ。其処がいいんだけどさー」
 言葉の終わりにジダルドはアユルスを抱き寄せた。
「ん……」
 ジダルドの腕の中に収まったアユルスははにかむだけで抵抗を示さない。一連を察したのか、ノチアが楽しげに笑う。
「ふふ……、貴方がジルと出会ってくれて、良かった」
「どうしてですか?」
 尋ねるアユルスへ向けるノチアの眼差しは、義眼であっても温かさがあった。
「今のジルは、とても楽しそうだもの」
「アハハ、ばれてた」
 当人も肯定し、ジダルドが現在を謳歌して生きている一因として挙げられ、アユルスは顔を赤らめる。ジダルドは照れたアユルスを宥めるように頭を撫で、そっと告げた。
「だからね、アル。ほんとに、ありがとね」
 アユルスの全てへ贈る感謝の言葉に、アユルスは表情を綻ばせる。
「俺もだよ。有り難う、ジダルド」
 出会いこそ最悪だったのだろうが、いつしか最悪の出会いさえかけがえのないものとなっていた。



 ノチアは今後、身体機能の回復訓練の後に、十六階にて音声を組み合わせた文字入力の職に就くという。機械に殆ど縁が無く、入力という行為そのものにも馴染みの無い状態からはかなりの努力を要するだろうが、ノチア自身は楽しみにしているようだ。
「昔っから好奇心旺盛なヒトだったからねえ」
 帰りの廊下を歩きながらジダルドが笑うが、アユルスは一つの懸念点を尋ねる。
「でも、十六階って時の流れがかなり違うんだよな……、ジダルドは淋しくないのか?」
 アユルスの不安へジダルドは笑顔の侭で答える。
「淋しいよ。けどそれ以上に、ねえさんが思うように生きてほしいんだ。いつかねえさんにも、大切なヒトが出来るかもしれないしね」
 あくまでもノチアの生き方を尊重するジダルドに、アユルスは温かさを感じて微笑んだ。
「そっか……」
「うん。だから俺も、負けてらんないよ」
 これまで過去を引き摺るしかなかったジダルドは、漸く前を見る事が出来たのだろう。表情には希望すらあり、アユルスには眩しく映る。
「……ちょっと、羨ましいな」
 アユルスが呟くと、不意にジダルドがアユルスの頭を撫でた。
「じゃあ、アルも負けてらんないよねえ?」
 悪戯染みた笑顔で告げる言葉は冗談ではないのだろう。そして応えたいと自然に思えるのは、これまでの積み重ねが織り成したジダルドへの信頼だった。
「うん、負けてられないな」
 そうして二人で笑い合う。これまで懸命に生きるしか知らなかったアユルスは、懸命さに楽しみを加えて生きる事を知ったばかりだ。その変化がこれからどのような結果をもたらすのか、ジダルドもまた期待を抱く。希望で出来た期待を信じる力こそ、生きる力でもあった。



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