とある日々の終止符


■-1

 夜になり自室で寛いでいたアユルスは、耳には聞こえない小さな声に気付いた。
『……アル、ちょっといいかな』
 思念はジダルドのものだが、普段の明朗さは無い。アユルスは読んでいた本を置いて席を立つと、思念で合言葉を送信してから応答する。
『大丈夫。今俺の部屋だから、来ていいよ』
 消え入りそうな思念へ返事をすると、音も無くジダルドの姿が現れた。その頭の上にルルムはおらず、宿に留守番をさせているのだろう。
 困ったように微笑んだジダルドは、いつになく大いに迷っていた。
「ごめんね、夜遅いのにさ……」
 それ以上の言葉が出ない。明らかな異常だった。
「ジダルド」
 不安げな眼差しを向けるアユルスは、ジダルドの迷いへ手を伸ばした。その手はまだ脆く、温かい。
「遠慮、しなくていいよ」
 温かさはジダルドが凍らせていたものを溶かす。長く封じていたが、溢れ出すのは容易かった。
「うん。ありがとね」
 封じていた遠い記憶は、遠くさせていただけだ。気付けばすぐ近くにあった。
 ほどけた迷いの糸屑を弄るようにジダルドは俯き、アユルスから目線を外す。
「アルに会ってほしいヒトがいるんだ。俺の大切なヒト。いいかな」
 以前ジダルドが僅かに存在を話した人物だろう。ジダルドを愛称で呼ぶとしか知らなかったが、それがジダルドにとって絶大なものをもたらす行為であるとはアユルスも知っている。
「うん、いいよ。今から会えるのか?」
「会えるよ。階が違うけど、さっき昼間だったから大丈夫。時の流れは一階よりちょっと遅いみたいだし」
「解った。みんなには内緒にしたほうがいいかな」
 アユルスの父のルイセも義妹のナユルも、まさか今頃出かけているとは思うまい。二人へ何も告げずに出かけた事ならば幾度かあるが、無用な心配をかけたくないのがアユルスの本音ではあるだろう。だがアユルスはそれをジダルドの為に無視し続けており、ジダルドは大いに甘える形となっていた。
「そうしてもらえると助かるよ。手続きしてくるから少し待ってて」
「解った。じゃあ、また後で」
「うん、ごめんね」
 そうしてジダルドの姿が掻き消える。ジダルドにしてはあまりに元気の無い、生気の無いとさえいえる状態に不安は募るが、ジダルドとて多大なる覚悟の上の頼みなのだろう。出来るのは頼り無い己を奮い立たせる事だけだった。



 多少待ってからジダルドはアユルスの元へ戻ってきた。
「ごめんね、遅くなっちゃった」
「いいよ、大丈夫」
 謝ってばかりのジダルドが何処か物悲しく見えるが、それだけ余裕が無いのだろう。
「じゃあ、いくよ」
 差し出されたジダルドの手をアユルスがそっと取り、引かれる侭に腕の中へ収まると、発動したテレポートによって空間が書き換わった。転移先には白い壁をした屋内が広がり、微かに薬品の匂いが漂っている。あちらこちらを制服を着た職員らしき人々が歩いており、治療を受けた痕跡のある人々も数多くいた。
「此処は……もしかして九階?」
 周囲を見回すアユルスの呟きへジダルドが答える。
「そうだよ。さっすが」
 世界全域が病院である九階の小世界は、その技術を求めて時折他の階からも患者が来る程の医療特化世界だ。世界には様々な薬液が湧き出る場所があるが、薬液の副作用として戦意喪失の効果が微量にあり、長く治療を受けた冒険者がその侭住み着く事も珍しい事ではなかった。
「受付はさっき済ませたから、こっちだよ」
 ジダルドから手を引かれる侭にアユルスは灰白色の廊下を歩く。離されなかった手からはジダルドの微かな恐怖が伝わり、アユルスは手を握り直した。
 やがて一つの個室へと辿り着く。引き戸をゆっくりと開けると、窓の無い薄明るい照明の室内にカーテンで囲まれた病床が見えた。病床には人影も見えるが、動きは無い。
 カーテンの前でジダルドが足を止め、同じく止まったアユルスを振り向く。
「びっくりさせたら、ごめんね」
 向けられた悲しげな微笑みにアユルスは小さくかぶりを振り、ジダルドの手を強く握った。
「ジダルドと一緒だから、大丈夫」
 温もりと言葉はジダルドの恐怖を慰める。ジダルドは一つ頷いてから、カーテンをそっと開けた。
 アユルスが目を見開く。中には人工呼吸器を付けた人間が寝かされていた。体の大部分には火傷の痕であろう皮膚の隆起が広がり、髪はおろか眉や睫毛さえも無い。酷く落ち窪んだ瞼の奥には眼球が無いのだろう。
 アユルスがジダルドの表情を窺うと、ジダルドは穏やかに眼前の人物を見詰めていた。
「名前はノチア。このヒトが、俺のねえさん」
 アユルスは目線をジダルドから外し、もう一度病床の人物を見る。呼吸器すら重くのしかかっているような、儚い姿だった。
「……どうして」
 呟きにジダルドが傍らへ目を遣ると、アユルスの悲しげな表情が見える。
「どうして、こんな……」
 歪んだアユルスの顔を隠すように、ジダルドはアユルスを抱き締めた。その耳元で囁く。
「つまんない話、聞いてくれる?」
 問いに頷くアユルスの頭を撫でるが、慰められているのはジダルド自身なのだろう。



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