空はどこまでも高く、遠かった。雲一つ無く晴れ渡っている。
神社の境内に降り注ぐ光は柔らかく、優しい。縁側に腰掛けてぼんやりしていると、あらゆるものに対して精神を張り詰めさせていたかつての生活など、まるで存在しなかったかのようだった。
鳥の鳴く声。枝葉が微かに擦れ合う音。自然と瞼が下がってくる。揺り篭の赤ん坊はこんな気分なのだろうか。頭が傾ぐが、抗う気も無かった。
「流石は麒麟じゃの。妾の好みを良く分かっておる」
子供特有の甲高い声に引き戻され、目を開けた。頭を振って眠気を払う。横には無邪気に饅頭を頬張る童女の姿。目を瞬かせるが、これは幻などではない。一気に陰鬱な気分になる。
「安っぽいパッケージに観光客相手の粗悪品かと思えば、皮と餡の絶妙のバランス、優しい口当たりに後味のすっきりとした甘さ……侮っておったわ」
『数もそこそこ入ってますし、お腹にもお値段的にも嬉しい一品ですよ』
「ふむ、『オウミ銘菓☆人魚伝説』とな」
包装紙には下半身が魚の姿をした女性――当然水妖だろう――がこちらに向かって手招くようなポーズを取った姿が描かれている。
水妖は人間を嫌っているのだから実際にはありえない図ではあったが、土産物のデザインなどそんなものだろう。
「饅頭が星形なのはやはりあれなのかのう……」
『でしょうねえ』
「あれが一番目立つからのう」
『分からないことは無いですけど、本人達が聞いたら怒りそうですねえ』
「パッケージがゾズマの絵でも違和感は無いの。食べる気は失せるが」
『ゾズまんじゅうですか』
「おい……」
目の前で繰り広げられるのどかで無意味なくだらない遣り取り――という言い方は正しくは無い。ここにいるのは二人だけ。そして相手が話しかけているのは自分ではない。
自分の一部になったそれに対してだ。茶に呼ばれていけと引き止められたが、募る苛立ちに我慢できなくなり、とうとう搾り出すように声を掛けた。
相手は小さく首を傾げる。
「なんじゃ」
『何ですか』
「俺を挟んで会話をするな!」
重なる声に思わず叫んだ。相手は小馬鹿にしたような笑みを浮かべる。
「あやつの声が妾に聞こえておるわけがなかろう」
『私の声は彼女には聞こえてはいませんよ』
またしてもあっさりと答えが重なる。
「……じゃあ何で話が噛み合っているんだ」
「妾たちの絆を甘く見てもらっては困るのう」
相手は誇らしげに鼻を鳴らす。中ではうんうんと頷く気配。
「妾と麒麟は」
『以心伝心』
「「山」と問われれば」
『「川」』
「つうといえば」
『かー』
「今はえーゆーじゃ」
「やかましいわ!」
乱暴に遮る。自分は一体何をしているのだろうか。一気に疲労感が押し寄せる。眩暈を覚えた。
「『貢物』は持って来たんだ。これ以上は付き合いきれん、俺は帰る」
刺々しく言い放ち、立ち上がる。
「もう少しおおらかに生きたらどうじゃ。そんな短気では長生きできぬぞ」
「ふん、さっさと死んでくれた方がお前には都合が良いだろう。
それに俺は人殺しだ。無関係の人間を大勢犠牲にした。今更許されたいとも思ってもいない」
恨まれて当然のことをしたのだ。口の端を上げて自嘲気味に笑う。崩壊する色鮮やかな空間と、悲鳴を上げる子供。巨大な月と血に塗れたもう一人。そして国の真実と――あの時本当はどうすれば良かったのか、今でも分からなかった。
「当然じゃ。妾はお主を許したわけではない。この先も許しはせぬ」
相手は一口茶を啜って湯飲みを置くと、こちらを見上げた。夜のような瞳が揺れる。
「麒麟もじゃ」
目の前にいるのに触れることの敵わない相手にもどかしさを感じているのだろう。膝の上で握られた手が浮きかけ、また元の場所へと収まる。
「魔術士などに負けはせぬと言ったではないか。必ずあの場所を守ると」
この嘘つきめ。寂しげに微笑み、言葉を紡ぐ。
「残念じゃったの、子供達はお主がいなくとも平気そうだったぞ」
『……そうですか』
内側から安堵する気配。子供達。その単語を胸中で反芻する。
『ああ、言っていませんでしたか。あの空間を支えられなくなった時には、子供達を地下水道に転移させるようにしていたのですよ。一時的な保護だったとは言え、急に放り出すことになってしまって彼らには悪いことをしました。負けるつもりは更々無かったのですがね』
呆気に取られる自分に、空術の元の持ち主は苦笑いした。崩れていく麒麟の空間から消えた子供達は、現在は然るべき施設に預けられているという。
「お主には黙っておこうと思ったが、麒麟が心配していると思っての」
悪びれる様子も無い相手に酷い脱力感を覚え、再び縁側に腰を下ろしてしまう。
乾いた風が落ち葉を数枚転がし、通り過ぎていった。
「見目の良い男が足繁く通っているとでも噂が立てば多少は客足が増えると思ったが、まったくそんなことは無かったのう。ガッカリじゃ」
相変わらず人気の無い境内を見回し、これだから魅力の低い男は、と相手は呟いた。
「……妙な噂など立てられてたまるか」
それに対して悪態付くが、その声は自分でも情けなくなるほど力が無かった。
「安心せい、お主のようなケツの青い若造など妾のあうと・おぶ・眼中じゃ。まあ、その金色の立派な鬣だけなら愛でてやっても良いがのう」
わきわきと妖しく指を動かす相手から鬣――ではなく高く結った髪を隠すように押さえ付ける。
「冗談じゃ」
ふふ、と笑うと相手は縁側から腰を上げた。
「さて休憩は終わりじゃ。妾はこう見えても忙しいのでな。ほれ、お主もさっさと帰るが良い」
竹箒で追い立てられて、狭い境内を後にする。またここに来るのは当分先だろう。深々と溜息を吐く。
漸く解放されたことに対してなのか、これから先も縛られ続けることに対してなのか、或いは両方か。内側で彼が身動ぎする。
『黙っていれば……諦めのつく状態であった方が彼女にとっては良かったかもしれない……ええ、これは私の我侭です』
複雑な感情を含んだ響き。その声には先ほどまでの生気は無く、妙に遠く聞こえる。最後に何事か呟いたようだったが、聞き取ることは出来なかった。
気配は底に沈み、呼びかけにも応えない。次にここを訪れるまで眠るのだろう。
神社の階段を中ほどまで降りたところで頂上を振り返ると、小柄な人影が見下ろしているのが見えた。