「今日はこれで終わりだ」
声を掛けられて目を開けると、白衣の男が元のカルテにニ三行書き込んでペンを上げるところが見えた。
診察台から重い身体を起こし、前を緩めた法衣を整える。
「気分はどうだね」
「さっきよりはマシだ」
立ち上がって帯を締め直し、ゆっくりと息を吐く。
「あれだけ無茶な使い方をしたのだ。
術法の使用に特化した身体とはいえ――いや、キングダムの調律を受けていたからこそ、この程度で済んだと言うべきか。
本来なら脳が焼き切れていてもおかしくはない」
相手は事務机の上にカルテを置くと、椅子に深く腰掛けた。
「その上材料が無いからといって、後付の資質を引き剥がすなど正気の沙汰ではないな」
「正気も狂気も大して変わりはしない」
陰陽が合わさることで生まれる命術。それは文字通り、命を弄ぶ術だった。神の領域を侵すその業は、術者の生命力を削って生物を再構築し、再び戦場に送り出す。
肉片どころか、記憶の欠片からも。悪夢の現出――淡く輝く銀の隙間から覗く、子供のように無邪気で残酷な紅い光が脳裏に浮かぶ。
二人分の容量をもって漸く形を成すそれは、そもそも人間が使うことを想定した術法であったのかどうか。
一つの体に二つの精神など、到底まともでいられるとは思えなかった。
最後に命術を使った後、幾度となく不調に見舞われた。初めは疲労のせいだと思っていた。十分な休養を取れば、すぐに癒えるだろうと。
しかし頭痛と倦怠感は慢性化し、酷くなる一方で一向に良くなる気配はなかった。片割れの前では何事も無いように振舞っていたが、部屋に篭りがちになれば、どこか悪いのかと怪しまれもする。
結局――それでも知らない人間に診せるのは気が進まなかったため、最大の譲歩として、一抹の不安を抱きながらも、多少縁のあった妖魔が営むクーロンの裏通りの小さな診療所を尋ねることにしたのだった。
術法回路の酷使による機能不全。それが医者の下した診断だった。
「今の君の疲弊した回路では、下級術でも脳に強い負荷がかかる。長生きしたければ、術の使用は避けることだな」
「心霊治療などと胡散臭いものに頼る羽目になるとは、俺も焼きが回ったものだ」
嘆息し、両の掌を見詰めてから軽く握り締める。身体の芯にだるさは残っているが、頭痛はすっかり治まっていた。腕だけは確かだと、内心で称賛する。
根本的な解決にはなっていないが、これでしばらくは普通の生活が送れるだろう。
「術法の回路は神経系と複雑に絡み合っているからな。下手に弄るわけにもいかない。出来る事と言えば、これ以上悪化しないよう定期的に調整してやるくらいくらいだ。
キングダムの融合技術の資料でもあれば、もう少しマシな処置ができるかもしれんがね」
「いや、十分だ」
頭を振る。
故郷の惨状から考えて、資料が無事かどうか分からない。例え残っていたとしても、気安く戻れる身の上でもなかった。
自分も片割れも、術士として正常に機能する状態ではないのだ。下手に接触すれば面倒なことになるのは目に見えている。
「一度は魔術師の頂点に至った君に言うのもなんだが――術法だけが人生ではないぞ」
「別に、今はそれが全てだとは思っていない」
以前は存在意義であり誇りだとあれほど執着した術法も、実際は体術や剣術と同じ戦闘の一手段でしかない。
『今』をこの手で守れるなら、何だって構わなかった。手札は多ければ多いほど良い。それだけの話だ。
「世話になったな」
肩に毛皮を掛けて身支度を済ますと、事務机の上に紙幣を載せた。
「君から代金を貰うつもりはなかったのだがね。まあ、ありがたく受け取っておくよ」
相手は紙幣を摘み上げると、無造作に引き出しの中へとしまい込んだ。
「それはそうと、君の弟も一度――」
「必要ない」
遮るように言い放つと、相手は降参のポーズを取ってみせる。
彼の元になった資質は、本人が扱うことの出来ないものになってしまったが、それ以外に問題が起こっている様子は見受けられない。寧ろそこらの人間より頑丈なくらいだった。それならば。
「あいつには余計なことを言うな」
薄暗い診察室の扉を開けて外に出る。ここは真昼間でも碌に光が入らない。
「お大事に」
閉まりかけた扉の隙間から掛けられた声は、まるで地獄から響いてくるようで、思わず身震いする。
纏わり付く不快感に首を振ると、早足で診療所を後にした。