「全部君にあげる」
「僕が持っているものなら、何だって」
「君の全部を僕で満たして」
「だからいつか」
「僕がいなくなった時に、嫌というほど苦しめばいい」
隣に本のページを繰る気配を感じながら、仰向けになってぼんやりと天井を眺める。建物自体格安で借りているだけあってお世辞にも綺麗とは言い難く、壁紙は剥がれ、天井にはあちこち染みが出来ていた。
天井は掃除しようにも場所が場所だけに手が付けにくい上、こうして横になっている時くらいしか気に留めることも無いのだから、結局忘れてしまう。片割れも気にしていないようだし、わざわざ梯子を借りてきてまで年季の入った汚れと格闘する気にもなれなかった。
視界の染みがぼやけ、軽く呻いて伸びをする。
「腹をしまえ」
寝巻きの裾が捲れ上がって臍が露わになったところで、隣から機嫌の悪そうな声が掛けられた。
「いい眺めでしょ」
わざとらしく裾を捲ってみせれば、相手は眉間に皺を寄せると嘆息し、裾を掴んで引き下ろした。臍が隠れてしまうと、指先は本の上へと引き返していく。
離れる感触に無性に寂しさを感じ、するりと自分の指を絡ませてそれを阻止すると、その手を腹の上に引き戻した。
当然のように怪訝な顔をする相手に、優しく微笑みかける。
「ねえ、どうだった?」
「何がだ」
「あの時の感触だよ」
手を重ねたまま腹の上を一緒に辿る。
思い出すようにゆっくりと。かつて片割れがそうしたように。押し込んで、切り開いて。触れた指先から動揺が伝わってくる。だが、呼吸に合わせて上下するそこには何も無い。
あの場所で付けた傷は、どんなに深いものであっても立ち上がる限り全て癒され、痕跡すら残らなかった。
そして、どういう訳か癒しの恩恵を受けられなかった筈の最期の傷も。一つになった時に消えてしまったのだろうか。鳩尾の辺りに鈍い痛みを覚える。
「……覚えていない」
搾り出すような返答。
「それは残念」
顔を強張らせた片割れに妙な満足感を覚え、笑い出したくなる。忘れさせてなんかやらない。
もっと苦しめばいいのに、と心の中で呟く。恨んでなどいない。ただ、彼の中が自分で一杯になるのが、純粋に嬉しかった。
自分は選択肢を与えたのだ。それでも尚、縛られるのを望んだのは彼の方。触れられた部分からじわりと溶けて混ざっていくような感覚に溺れる。
不意に軽く倒れ込む音がして、肩口に金色の塊が押し付けられた。片割れは指を絡ませたまま押し黙り、身動ぎすらしない。
流石に意地が悪かっただろうか。相手の手を解放すると、慰めるようにその髪に手櫛を通す。
「僕は、君がくれたものは全部覚えてる」
痛みも、喜びも、悲しみも。例えこれが、誰かの都合のいい記憶だったとしても。
「僕にはこれしかないからね」
指の隙間から、癖の無い金糸がさらさらと逃げていく。自分は、今も他人の夢の続きを見ている。それでも自分は――なのだ。彼がそう呼ぶ限り。狭くなった視界で、天井の染みを見上げながら囁く。
「君と初めてした時の方が痛かったよ」
途端、寝巻きの裾を握られ、先程より強く頭を押し付けられる。耳元から聞こえてくる「馬鹿か」という呟きに、小さく笑った。