贅を凝らした調度品に溢れた部屋の中は、侍女の手入れが行き届いており、清潔で広々としている。 しかし、ここはいつ訪れても酷い圧迫感を覚えずにはいられなかった。 明かりと言えるようなものが元々無いからか、それともこの部屋が特別に設えられたものだからか、或いはまた別の理由か。 そんなことを考えながら、部屋の主人に深々と頭を下げる。
「オルロワージュ様がお待ちです。どうか我侭を言わずおいでになって下さい、零姫様」
顔を上げた先で、煌びやかな刺繍を施された椅子に腰掛けた女性が、 これまた過剰な装飾の付いた扇子を広げるのが見えた。 端から覗く切れ長の目が気だるげな視線を向けてくる。
「三貴士が寵姫の迎えとは、相変わらず城は人手不足が深刻なようじゃの。ご苦労なことだ」
掛けられた他人事のような口調に渋面になった。
「……これも仕事です。お気遣い無く」
貴女が素直に応じてくだされば、こんなことをしなくても済むのですよ。 呼びに来るたびに何だかんだと理由をつけて、 根負けさせようとする彼女に内心毒づきながらも、声に苛立ちが滲まないように必死で努力する。 その様子見て、彼女は詰まらなさそうに嘯く。
「態々迎えを寄越して貰って悪いが、妾は今日は大事な用があっての。あれの我侭に付き合っている暇は無いのじゃ」
帰れといわれても帰れるわけが無い。そして用事があると言いつつも、彼女は相変わらずのんびりと椅子に腰掛けたまま。
そもそも出かける用事など無いのだ。そして彼女はここからは出られない。
主の目に留まり、醜い人の殻を脱ぎ捨てて眷属に迎えられる、 それだけで十分過ぎるほどの栄誉なのだが、 彼女はその寵姫の中でも特別だった。
主の意識を占めているという点においては、他の誰よりも。
気性が激しく、主に逆らっては何度も城から逃げ出そうとして、その度に血の支配で縛られた。 そして今では、行動を許された範囲は誰よりも狭い。
この部屋と城を繋ぐ通路、その僅かな空間が、彼女に与えられた世界の全てだった。
「数多の寵姫を従えながらも、何故あれが妾に執着するのか分かるか」
椅子の背凭れに体を預け、疲れたような溜息を吐く。
「一度手に入れたものは振り返りもせぬくせに、それが自分を見ておらぬのが我慢ならんらしい。 並の男と――いや、あれは砂場で玩具を独り占めにしたがる子供と変わらぬ」
「零姫様、いくら始まりの寵姫といえども、お言葉が過ぎます」
侮蔑の表情を浮かべる寵姫に、不快感を露わにする。あの方をあんな下劣で下等な生物と同列に扱うなど。 しかしそれで怯むような相手でもなく、何もかも見透かしたような目で見返してくる。
「お主らも人と変わらぬな。人を見下し蔑むのは人だけじゃ。満たされぬ心を埋めようと、望み、羨み、妬む」
「おやめ下さい、零姫様」
自分と同じく三貴士の地位を与えられている者たちの顔が浮かび、腹の底でとぐろを巻く感情が鎌首を擡げた。 溢れ出しそうなそれを必死で押し込める。自分に巣食うこれが人と同列であるなどと考えたくも無かった。
「あれは誰も見てはおらぬ。いくら尽そうと届くことは無い。大事にしまっておくだけで愛されていないのなら何の意味がある?」
お主も分かっているはずだ、と囁く白い面が苦悶に歪む。ぽたり落ちる水滴。ここでやっと彼女の身に何かが起きていることに気付いた。
青褪めた顔を脂汗が幾筋も伝っていく。
「どこか具合でも――」
「それでも求め、愛するのも――また人じゃ」
彼女は自嘲するように微笑み、ヒュッと引き攣るような呼気を漏らすと、目を見開いて天を仰いだ。 彼女を中心に空気がざわめき、収束していく。床が淡く輝く始める。 よくよく見れば、それは複雑な紋様と文字とで構成された方陣で、記述は床だけでなく棺や壁にも及んでいた。
「うあ、あ、あ……」
彼女は呻き声を上げながら、白い腕を伸ばして自らの体を掻き抱こうとするが叶わず、仰け反った体を震わせ続ける。
「一体、何が……!?」
その姿を呆然と眺める。
彼女の体は痙攣し続けており、美しかった姿は見る影も無く、髪は乱れ、咥内や鼻腔からは青い血が大量に流れ出ていた。
「ミルファーク!!」
この異常事態に漸く我に返り、侍女を呼ぶ。 ぼんやりとした光を放つ方陣と、その上に置かれた術具、それぞれが何を意味しているのかは分からなかったが、これらが彼女に異変を起こしているのは間違いない。 とにかく止めようと手を伸ばす。しかし、
「駄目だよ、彼女の邪魔をしちゃあ」
足元の影から黒い蔓が伸びてきて、拘束される。抜け出そうとするが、びくともしない。 隣に忽然と現れた影を睨みつける。赤髪の妖魔は笑みを浮かべてこちらの頭を鷲掴みにすると、 形を失っていく彼女へと強引に向けさせた。
「ほら、始まるよ」
声は妙に楽しげだった。
初めは小さな染みだった。腹の辺りに一つ、また一つと青色が広がっていく。 そこを中心に、白いものがぽつりと現れる。それはゆっくりと伸びていく。みちみちと肉が引き千切られていく音がした。 そして、鈍く堅いものが折れる音。 腹から突き出た白いものが指である、と理解した頃には彼女の体は捩れ、折れ曲がり、引き裂かれ、ただの肉塊に成り果てていた。 二人の観客に見守られる中、血と臓物の海から小さな塊がゆっくりと起き上がる。 それはぐるりと首を巡らせ、こちらに視線を定めた。
「やあ、随分と縮んだね。気分はどうだい」
赤髪の妖魔が親しげに声を掛ける。
「……良いわけが無かろう。準備には十分に時間を掛けたつもりであったが、やはり元通りとはいかぬな」
それは血塗れの顔を拭うと、幼く未熟な肉体を眺め、眉を顰めた。 自身の抜け殻から衣類を一枚剥ぎ取ると、優雅な仕草で腕を通す。 立ち居振る舞いも、面差しも――それは紛れも無く自分の知る彼女そのものだった。
「あやつに伝えるがいい。人形遊びは終いじゃ、とな」
顔に張り付いた長い黒髪を鬱陶しげに払うとそう言い捨て、小さな背中は部屋を出て行ってしまった。
遅れて現れた侍女が入れ違いで入ってくる。途端、部屋の惨状に悲鳴が上がった。

「いやあ、凄い見世物だったね!! 流石は零姫、予想以上のことをやってくれる。 まさか、オルロワージュ様の血の支配を逃れるために『生まれ直す』とは思わなかったよ」
彼女の舞台が終わり、拘束を解かれて膝を付く。侍女は腰を抜かして、その場に座り込んだまま動かない。部屋に充満した血の匂いに吐き気を覚えた。
彼女は抗い続け、自ら頚木を絶った。主はそれを許さない、それ以外に興味は無い。そしてこの失態を嘲笑うのは。
「……これは、貴様の手引きか」
やや興奮気味の相手に押し殺した声で問えば、
「いいや。まあ、彼女が何やら準備をしているのは知っていたけどね。 気の毒に、オルロワージュ様も随分と嫌われたものだ。ああ、でも素気無くされるほうが燃えるんだっけ。嫌よ嫌よも好きのうちってやつ?」
本当、人間みたいだよね、と同意を求めるように覗き込んでくる。突き刺さる言葉に、ぎりと奥歯を鳴らした。
「ファシナトゥールは死んだような連中ばかりで詰まらないと思っていたけど、たまには覗いてみるもんだね」
飽きたからと、主に与えられた役割をあっさりと放棄したその男は、にい、と嗤った。
「また何か面白いネタがあったら教えてよ。見に来るからさ」
「誰がッ……!」
虚空から鎌を取り出し、一閃する。至近距離から放ったそれはあっさりとかわされ、相手の姿は闇に溶け込むようにして見えなくなってしまった。
未だ臭気に満ちた空間から声だけが響く。
「堅いなあ。そんなんじゃ人生楽しくないだろう。君もたまには、人形じゃあないってところを見せてくれよ」
ことり、と小さな音。何らかの法則性に従って床の上に配置されていた零姫の術具、そのうちの一つが風も無いのに倒れ、遠くへ転がっていった。