自分の足元に、波に揺られた海底のような紋様を見つけ、爪先で引っ掻いてみる。しかし跡がつくことも、漣一つ立つこともなかった。
ここでは自分は何の力も持たない。出来ることと言えば、精々目が覚めるまで時間を潰すことくらいか。そこまで考えて苦笑いした。
起きたところで、魔術師の命である魔力と資質のほぼ全てを失っているのだ。行使できる術法だけ見れば、最弱の部類に入った。
暗がりの中で聞こえるのは、規則的に吐かれる呼吸音。これは自分のものではない。息を吸う音と共に体が引き上げられ、息を吐く音と共にまた降りて来る。
今日のメニューは懸垂らしい。上下運動するもう一人の住人を傍らで見上げ、何度目かの溜息を吐いた。
「――何故か、だと?」
随分前に自分が発した問いに対して返答が戻ってくるのに、懸垂二百三十五回分の時間を要した。ここには時計もなく、時間の流れも判然としない。
単にやることがないから数えていただけで、待つのはとうにやめていた。延々懸垂を眺めるのにはいい加減飽きてはいたが。そこに急に声を掛けられて驚く。
「質問の内容を、まだ覚えていたんだ」
目を細めて皮肉気に笑って見せるが、相手はそれには反応せず、空中を見つめたまま独り言のように呟いた。
「愚問だな」
また身体を持ち上げる。筋肉が盛り上がった。
「体術はその体が触れたものに対し、剣術はその切っ先が届く場所に、銃はその射的距離に」
空中で制止した相手は、そこで言葉を切って見下ろしてくる。その視線を受けて、
「――術法は術者の知覚が及ぶ範囲に、その効果を齎すことができる」
教師の文言に繋ぐように後を続けた。知覚――大概は視線の先にいる相手に対して、である。白い頭が頷く。
「何れの系統の技も、自身が認識できるもの、つまり現在にしか作用しない。そして、それは時術も例外ではない」
相手は至極当然といった風に答えた。
「現在にしか、ね。時間を操る術だなんて大仰な事を言っている割りに、過去や未来に干渉できないんじゃあ、看板に偽り有りって言われても仕方ないと思うよ」
それでも、瞬きの間に他人より多く行動したり、或いは敵の行動を封じたりできる術法は、戦いに於いてこの上なく強力で心強いものには変わりはない。
今の自分に扱えない術法の有用性を考えたところで大して意味は無かったが。
挑発するようにちらりと視線を送る。名前負けしていると言われて多少は気分を害したのか、こちらを一瞥すると鉄棒の上に身体を引き上げて一回転した。遅れて白い頭髪がふらりと揺れる。
「お前たちは時術の本質を見誤っている」
また一回転。目が回らないのだろうか。
「正確に言えば、あれは時間に干渉している訳ではない。時間に対する認識をずらす術法とでも言おうか」
目の前を白い頭髪が通過する。
「認識を、何だって?」
目を瞬かせて聞き返すと、回転がぴたりと止まった。
「同じ十分でも体調や気分によっては、ほんの数秒に感じたり、逆に一時間にも二時間にも感じたりすることがあるだろう」
「まあね。それで?」
投げやりに先を促す。
「それと同じことだ。時術は相手の神経に干渉して、体感している時間の速さを強制的に変更する」
時間は止まらない。止められない。しかし、そういう風に思い込ませることはできる。欺瞞。錯覚。幻覚。
「……それって詐欺じゃないの」
「解釈の違いだな」
半眼で呻くように言えば、しれっとした顔で返される。どんな嫌味を言おうが、これの顔色が変わることはなかった。
感情のささやかな変化は感じ取ることはできるが、恐らく憤慨したところで、この張り付いた無表情が崩れることは無いのだろう。
ぶらりと垂れ下がった脚を見て、足の裏でも擽ってやれば少しは堪えるだろうか、と仕様もないことを考える。
「どうしても過去に干渉したいのならば、術者が過去に存在するしか方法は無い」
「それじゃあ、意味が無いじゃないか」
結局――過去の時間も、その瞬間は現在だったのだから。
「そうだ。意味は無い」
ばっさりと切って捨てられる。
「壊れたものを無理に修繕するよりは、新しく作った方が掛かるコストが少なくて済む場合もある」
「コスト……まあ、いいけど」
術法は万能ではない。それに近い形で実現することはできるが、やはりそのものではない。
人の身で一切合財をやり直すことなど、到底無理な話だった。そんなことは分かっている。
木菟に似たシルエットは、懸垂を再開していた。
「中途半端に叶ってしまうから、性質が悪いんだよね」
腹の底に重く溜まった空気を吐き出すと、鉄の冷たい柱に背を預けて目を閉じた。