術法を極めるために外遊に出たというのに、何故自分は砂塗れで地面に這い蹲っているのだろうか。実に理解に苦しむ。
早く立ち上がらねばともがくが、疲弊した身体は四肢に錘でもぶら下げているのかと思うほど鈍重で、全くと言っていい程言うことを聞かなかった。 笑う膝を叱咤し、宥め賺して漸く立ち上がることに成功する。 これだけの隙を見せているのに、追撃は来ない。それもその筈、消耗しているのは相手も同じだからだ。
のろのろと顔を上げると、肩で息をし、見るからに立っているのもやっとだという風情の相手の姿が視界に入る。
相対するのは、自分と同じ顔をした男。
こうして対峙してから、一体どれ程の時間が経ったのだろうか。 実力は伯仲しており、持ちうる最大の術法をぶつけ合うが、決定打を欠いたまま時間は過ぎていき、体力と精神力は確実に削がれていった。 そして、今や互いに術法を編み上げるだけの集中力も魔力も残ってはいなかった。
半分の月の下で、声にならない叫び声を上げ、拳を振るう。
憎しみも殺意もなく。相手を倒す、それだけが自分を突き動かしていた。 僅かに身体を捻るだけで全身を激痛が襲うが、無視する。
いつもなら掠りすらしないだろう、大振りな攻撃を避けることができない。 相手の拳が顎を掠り、脳が激しく揺さぶられる。飛び掛ける意識を必死で繋ぎとめ、仰け反った身体を立て直す。 身体を半歩引いて勢いを付けると、相手に倒れ込むようにして腕を伸ばした。拳は鳩尾に突き刺さり、苦悶の声が上がる。 次の瞬間、後頭部に衝撃を感じる。どうやら無防備になった首筋に手刀を叩き込まれたらしい。 今度はこちらが呻き声を上げる番だった。再び無様に地面へと転がる。起き上がろうにも手足が縺れ、力が入らない。
終わりの見えない殴り合いに、最早肉体も精神も限界だった。
近付いてくる荒い呼吸音に上体を起こせば、緩慢な動作で腕を振りかぶる相手の姿が目に飛び込んでくる。
それが振り下ろされるのを他人事のように見ていた。身体は凍りついたように動かない。
――そして、全てが静止した。

 相手の腹に生えたそれを、呆然とした顔で眺める。それは相手も同じだろう、目を見開いてこちらの顔を凝視した後、視線は手へと降りていく。
普段は腰に吊るしたままの儀礼用の短刀。だが、飾りとはいえ刃はしっかりと付いている。 そういえばこんなものを持っていたかと、思考の停止しかけた頭で思い出す。 意匠の凝らされた紋様を辿るように赤い筋が伸びていく。
握り締めた柄に、蛇の舌が絡みついて囁く。貴方は選ばれし者です。資質を身に付け、術を高め、そして――
声に誘われるように押し込み、――捻った。
ごぽり、と咽の奥から溢れる音。生暖かいものが手を濡らしていく。相手は愕然とした顔をしたまま、震える手でそこに触れた。
「……」
切れ切れの息の合間から辛うじて漏れた言葉は、何であったか。
傾いだ身体はゆっくりと膝を折り、こちらに触れる寸前、砂山が崩れるようにざらりと形を失って霧散した。 鏡写しの姿も、色違いの法衣も、浴びた筈の返り血すらも。
まるで初めからそんな人物はいなかったとでも言うように、跡形もなく。
握ったままの銀の刀身は曇り一つなく、月の光を受けて輝いている。 映るのは見慣れた顔。
――ああ何だ、そんなところにいたのか。
月は満ち、不完全な半分は全ての資質を得て完全な術士になる。
「僕達は」
「俺達は」
天井に鎮座する真円を仰ぎ、唐突に理解する。何のことは無い、自分達は初めから一人だったのだ。
「はっ……」
乾いた笑いが漏れる。 膨大な魔力に満ちた身体に反して、心は酷く空虚だった。 余りに呆気ない幕切れに、自分を殺してまで手に入れたものに幻滅していた。
これが自分の目指していたものだというのか。こんなものが。たったこれだけのものが。
自分の中に構築された、今まで見たことのない魔術回路。 二人分の資質が複雑に絡み合い、螺旋を描く。 これがあれば、自分の知る誰よりも強大な力を振るうことが出来るのだろう。
しかし、だからそれが一体何だというのだ。
「お前達は、そんなにこれが欲しかったのか」
それならくれてやる。望みどおりに。
一頻り笑った後、悲鳴を上げる身体を黙らせてどうにか立ち上がった。生々しい感触は未だ手に残っているくせに、飛沫一つ付いていない短刀を鞘に納める。 一部始終を見ていた連れが何事か騒いでいたが、全く耳に入らなかった。 身体が動くことを確認してから、意識を術法の構成に集中させる。 自分達には、まだやらねばならない事が残っているのだ。
「帰ろう」
根を伸ばし枝葉を伸ばすように意識が世界に広がっていく。詠唱など要らない。ただ願うだけでいい。 事象を捻じ曲げ、破壊し、再生する。それだけの力が自分達にはある。
「帰ろう」
もう一人が囁く。慈愛と叡知と魔力の神に呪われたあの国へと。
ゲートの術法が完成する。景色を切り裂いて現れた深く青い空間は一瞬で辺りを侵食し、全てを飲み込んでいった。