捨てたのは赤。人間としては生きられないならば、人を超え、人ならざるものへ。 私には力がある。何もかもを思い通りにできるだけの力が。
ファシナトゥールの新たな君主として君臨した自分に残ったのは、 新しい寵姫と、山ほどの棺。傅くのは改革に失敗したあの人の部下。
誰もが自分を畏れ、逆らうものは無く、気に入らないものは容赦なく縊る。 怠惰と暴虐の限りを尽くしても、満たされることは無く、その体は常に血の匂いを纏っていた。
代わり映えのしない日々。微塵の変化も無い、腐敗した空を眺める。
「つまらん」
呟く。妖魔であるということは、こんなにも退屈なものなのか。
怪訝な顔をする寵姫を退け、時の止まった玉座から立ち上がる。その足は無意識にそこへと向かってた。
ファシナトゥールで唯一自分のものではない場所。
あの人が産み出した闇の迷宮。
何かを犠牲にしなければ出ることは叶わず、かつて、慕う以上の感情を抱いた女性を置いてきた場所。
音も無く、一歩先も見えないほど暗いその空間は、もういない筈の相手の力が未だ満ち満ちており、今にもその姿を現しそうだった。
「ここは変わらないね」
今の自分にとっては自由に出入りでき、壊そうと思えばいつでも壊せるものであるが、何故かその気にはなれず、そのまま放置している。 遊びに飽きれば、こうして一人訪れるのが常だった。
闇の揺り篭に抱かれて眠る、白い顔を覗き込む。その体は闇に沈み、半分溶けるようにして、辛うじて存在していた。
「やあ、白薔薇。気分はどうだい。聞こえてはいないだろうけど」
薔薇の冠で縁取られた輪郭はぴくりとも動かない。その美しい瞳で自分を見ることも、花びらのような唇で名前を呼んでくれることも無く。もしかしたら、死んでいるのかもしれない。 彼女に命を与えた主は、もういないのだ。これは残りカスに過ぎない。いずれ消えてなくなるだろう。
「起きても、ここからは出してあげないけどね」
理由はどうあれ、彼女は自分の手を離した。思い出し、愛おしさと憎しみに顔を歪ませる。
――と変わりありません。あなた様は
――だからいったろう、こんな奴に期待するなと
ざわざわと全身の毛が逆立つ。
「五月蝿い五月蝿い五月蝿い!」
私をこうしたのは、お前たち妖魔じゃないか。 闇に浮かぶ扉を、力任せに殴りつける。果ての無い空間に、打撃音が反響した。
裂けた拳から滴る色は紫。
「ねえ、白薔薇。教えてよ。私は間違っていたの?」
何度問いかけても、答えは返ってこない。いくら待とうとも、彼女は目を覚まさない。虚無感にがくりと膝をつく。
――やはり、人間などに血を与えても無意味であったか
――我が過ちを
「黙れ!」
幻聴から耳を塞ごうと開いた掌に、目を見開く。
「あ……、あ……」
次から次へと溢れ、闇に零れていく。紫のはずのそれは、いつの間にか赤く変わっていた。
夢なら覚めて。お願いだから。悲鳴を上げる。
「余は飽いたぞ」
願いは空しく、今度こそはっきりと聞こえた。否、その声を発したのは。
声帯が震え、勝手に言葉を紡ぐ。
「脆弱な人間が、我が血を享け、我に挑み、我に取って代わった。 あの時ほど心が踊ったことは無い。
お前になら、我の永遠の死をくれてやっても良いと思った」
何を言っているのだ。あなたはこの手で、この私が。
眠っていた種が芽吹く。
「しかし今はどうだ、我の道程をなぞり、辿るだけ」
私はあなたのコピーじゃない。私はあなたを越えた。
息が詰まる。声は出ない。体中に根を張り巡らせ、それは力を取り戻してゆく。
「愚かな人間が欲望のままに妖魔の力を振るい、不幸を振りまき、全てを支配する。
我の長く澱んだ時間の中で、お前の存在は、退屈を紛らわせる良い余興にはなった」
だがここまで。同じであるのなら、お前でなくても良い。別の玩具を探すとしよう。
失望した、と告げるそれに抗い、体を震わせるが、最早この体は自分のものではなくなっていた。
青い血に支配される。
「宴は終いだ」
跪き、揺り篭から白い体を抱き上げる。途端、溶けかけた体は引き寄せられるように形を取り戻し、 固く閉じられていた瞼は数度震えたあと、ゆっくりと開いた。
瞳に映った白い花は目を伏せ、悲しげに囁く。
魅惑の君
無慈悲な王
薔薇の守護者
闇の支配者
美しき方
裁きの主
それは自分を苗床に、大きく花開く。

「娘、ここがお前の棺だ」
闇にぽたりと最後の滴が落ちる。
赤い波紋が広がり、融けて消えた。